uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


お山の紅白タヌキ物語 第19話 最終回 「平和!」

2024-02-21 06:51:33 | 日記

 1943年9月30日御前会議で日本は降伏すると決した。

 だがいつ降伏を宣言するのか?

 どうやって国体護持を認めさせるのか?

 その問題を討議しなければならない。

 

 実際のこの後の歴史では、絶望的な戦いが続く中、首脳部は降伏の決断ができなかった。連合国側からポツダム宣言が発表され、日本の無条件降伏を勧告されてもである。

 その理由は、日本の首脳部が最後まで心配していたのが『国体護持』(天皇制維持)であったから。

 つまり彼らが心配していたのは国民の安全ではなく、天皇制の保全であった。

 国民にどれだけの犠牲を強いても守りたかったのが天皇制。

 その是非についてここでは触れない。

 ただ、歴史の事実として踏まえておくとする。

 

 とにかく無条件降伏を受け入れれば、連合国側(主にアメリカ)の意向で天皇制を廃止すると言われたら抗えない。

 日本の立場として、それだけは何としても避けたい。避けるためにはどうすべきか?

 

 早速検討チームを作り、世界情勢を調査・分析し、最良の時期を(どの時点で降伏するか?そのタイミングを)推し量らねばならない。

 また、どのようにして有利な降伏条件をひきだすか?

 この二点を慎重に見極める。

 但し時間はない。こうしている間に戦死する兵士が増え続けているから。

 

 まず大本営・政府合同で雪江タヌキから得た情報を詳細に分析し、アメリカ・ドイツ・ソ連の動きに特化した作戦工作実行部隊を編成した。

 雪江タヌキの情報では最重要課題として、終戦直前の原爆投下とソ連参戦を何としても避けなければならない。

 そのためできるだけ早期に有利な講和条件を引き出すための対米工作、その延長線上としてソ連の参戦阻止を講じる必要がある。

 

 未来情報では重要なターニングポイントが三点ある。

 一点目、1943(昭和18)11月22日のカイロ宣言。英・米・中の戦後処理を目的にした連合軍側会議。

 二点目、1945年(昭和20)2月4日ヤルタ会談。こちらは米・英・ソ。

 三点目、1945.((昭和20)7月26日ポツダム宣言。これも米・英・ソ。

 

 この三つに共通するのは、対日戦後処理が議題であること。

 カイロ宣言では蒋介石が天皇制の国体護持を(条件付きで)提唱している。

 ヤルタとポツダムは英米側からソ連の対日参戦を求めている。

 

 カイロ宣言は、大本営が最後まで懸念していた国体護持を支持しているという意味で重要であるが、日本にとりそれ以外の意味は希薄である。

 対してヤルタとポツダムはソ連の対日参戦が議題である以上、日本にとって極めて重要であった。

 

 と云う事は、ソ連参戦を阻止するために、ヤルタ会談前に日本が降伏していなければならない。

 しかもただ降伏するだけでなく、その後ソ連の侵略を阻止するため、直ちにアメリカと単独講和条約・安全保障条約を結び、ソ連をけん制する必要がある。

 それにもうひとつの条件としてドイツがまだ踏ん張り続け、ソ連軍をヨーロパに釘付けにし、極東に軍を移動し展開させない事。

 更なる条件として、ルーズベルトを筆頭とした日本憎悪のアメリカ社会の雰囲気を変えなければ、日本側が希望する降伏条件も講和条件も実現不能なので、対日感情氷解が絶対である事。

 

 以上、対外最低条件は見えてきたが、対策を今から本気で進めなければ総ては水泡に帰す。

 

 出来れば1944年(昭和19年)9月15日のペリリュー島戦闘前には形を作っておきたい。

 

 まず、そう言った意味で、一番の重点事項は対米工作にある。

 アメリカ政府要人の懐柔工作を実施しなければならないが、誰をターゲットにし、どう懐柔を進めるか?

 検討の結果、当時アメリカに次々と避難していたユダヤ人たちに目を付ける。

 ユダヤ人社会は既にアメリカ経済を掌中に収めつつあり、徐々に発言力を増していた。

 彼らに接近し日本とユダヤ人の美談を広め、ユダヤ人社会、しいてはアメリカ社会の世論を懐柔する。

 

 そのために用意したのが杉原千畝駐リトアニア領事館・領事代理の命のビザのエピソード、及び今回の終戦工作の首謀者、樋口季一郎北部軍司令官の満州時代のオトポール事件(オトポール駅に足止めされたユダヤ人救済)の美談を活用し、アメリカ国内のユダヤ人社会からアメリカ全体に日本人敵視を止め、擁護し、反戦世論を作り出すために、アメリカ人に化けたタヌキ部隊を含む工作部隊(特務機関員)を送り込んだ。

 

 樋口季一郎自身は、自分の過去の行いをユダヤ人にとっての美談に仕立て上げられるのを固辞し続ける。

 しかし、他の有効な方法が思いつかない以上、これで行くしかない。

 東条首相以下、他の首脳に説得され、渋々了承した。

 

 そうした経緯の後、アメリカ本土に潜入した特務機関員の活躍で、アメリカ国内で親日エージェントを多数募り続ける。

 この作戦にどれだけの効果があるか不明だが、今はできる事をできるだけやる。それしかない。

 

 戦時下のアメリカ国内では対日憎悪が蔓延し、どす黒い霧のような雰囲気で満ちている。

 雪江タヌキはそうしたアメリカ全土の憎しみにまみれ汚れた空気を浄化すべく、神通力の持つパワーを最大限解放した。

 

 空気の浄化?

 

 人間の呼吸は、吸う空気に影響される。また呼吸の仕方にも。

 悪い空気や呼吸法によっては、不眠症になったり成人病や精神疾患を誘発する。

 よく空気を読むとか、悪い雰囲気とか言うが、それらは皆人間が空気の作用に深く影響されているから。

 だから良い空気を供給するだけで、人の心は良い方向に変えられる。

 雪絵タヌキが神通力で空気を浄化する意味はそこにある。

 人間が吐く息を浄化し続けるだけで、悪感情や底意地の悪い空気を良い空気に変換し、一国の世論すら変えられるのだ。

 アメリカ中の広い国土をカバーする浄化作用を維持するのは、メガトン級の尋常じゃないパワーの神通力を必要とするが、雪絵タヌキがお地蔵さまから授けられパワーアップした意味もそこにある。

 

 もとよりお地蔵さまが授けた神通力の源は、慈愛の心を根幹とする。

 だからその力の正しい使い方は、「人々の憎しみを消し去り、愛と平和を求める心を植え付ける」のを本分としている。

 雪江タヌキはアッツ島での悲惨で厳しい戦いを潜り抜け、その経験から今になってやっと正しい力の使い道に気づいた。

 だから自分の行動に信念と確信を持ち、精力的に動く。

 アメリカの人々の憎しみの心を浄化するために。

 でも一度浄化出来ても、人の心は直ぐに汚れる。それをまた同様に浄化する。それを繰り返すうちに、少しづつではあるが沁みついた汚れが洗濯する作業でとれていくもの。

 そんな浄化作業を根気よく幾度も続け、ようやく開戦当初より対日憎悪をうち溶かし、反撥無く受け入れられる程に憎しみの感情を希釈できた。

 更にタヌキ部隊や日本の工作員の活躍により、スパイとまでは言えないが、民主・共和両党要人の中に、日本に同情的な意見を持つ者の形成に成功する。

 特務機関員からその結果報告を受け、日本は非公式の降伏意思を匂わせるような情報をアメリカにさりげなく流した。所謂いわゆるアドバルーンである。 

 

 アメリカ首脳部にさざ波が起きた。

 

 アメリカ側の責任者で、対日参戦の立役者ルーズベルト大統領は、深刻な高血圧に悩まされている。

 彼が大統領在任中、病に悩まされながら死の間際まで戦争を指導していたのだ。

 当時の医療水準で高血圧は有効な治療法が確立されておらず、死亡率の高い病気だった。

 彼は人前では人種差別の考えを持つ自らの正体を微塵も見せず、進歩的な素振りで有権者を騙していたが、実は筋金入りの差別主義に凝り固まっている人物である。

 特に日本人に対して。

 彼がどれだけ日本人を差別し憎悪していたのか?

 それは彼が人々に語った言動で分かる。

 それはまだ第二次世界大戦が勃発する前の彼の姿勢と主張。

 1937年9月6日、「世界の政府間の平和のために、アメリカは先頭に立ち大掃除をする準備がある。」

 ついで10月5日、シカゴで演説。世界で進行している枢軸国の侵略行為を非難、彼らを病人になぞらえ隔離すべきと主張している。

 更に日本人に対しては「日本人の頭蓋骨は我々より2000年遅れている」とのスミソニアン博物館のハードリチカ研究員の発言を受け、「人種間の差異は人種交配を促進すれば文明を進歩させられる。インド系、ユーラシア系、アジア系の人種を交配させるべき。だが日本人は除外する。」



 余計なお世話である。


 

 だがレイシストのルーズベルトは、自分の狂気を正当化し本気でそう発言している。

 1941年(昭和16年)11月26日、ルーズベルトは日本に最後通牒である「ハルノート」(コーデル・ハル国務長官の覚書)を突きつけた。

 これはアメリカ政府の公式な通告ではなく、ルーズベルトの意向を受けた単なるハル国務長官の覚書に過ぎない。

 その内容は、日本が絶対に受け入れられない内容の条件を迫る交渉文書である。(要するにルーズベルトの脅迫であり、罠であった。)

 

 アメリカに突きつけられた日本には、ふたつにひとつの選択肢しか残されていない。


 戦争か国家の滅亡か。


 日本をそこまで追い詰める意思を示したのは、もちろんルーズベルトの罠である。

 それ程彼は日本憎し、対日戦争論者だった。


 つまり彼が対米講和の一番の壁であり、戦争終結のキーマンなのだ。 

 

 この時日本の特務機関とタヌキ部隊は、主にアメリカ東海岸に展開している。

 政治経済の中枢、ニューヨークやワシントンで移民してきたユダヤ人や政治家を中心に接触を試み、特にユダヤ人の中で杉原千畝や樋口季一郎の救出に関わり、命を救われた者たちを捜索し、当時の体験談を取材した。

 その内容をニューヨークタイムスやワシントンポスト紙に美談として掲載させる。

 大手マスコミの懐柔を含め、これらの工作活動は困難を極めたが、寸部の互いもなく組織的連携で成功させた。


 その結果、アメリカ世論に変化が生まれ、そろそろ戦争を終わらせるべき、との意見が出始める。

 その空気を読み、ルーズベルト大統領の側近から社会の動向変化が伝えられた。

「大統領、こちらを御覧ください、有力各紙が掲載した記事です。

 この中にはユダヤ人の体験談が載っており、ジャップの美談として危険な論調の記事になっています。

 このままでは、非戦論が主流になってしまい、戦争継続が難しくなります。

 如何いたしましょう?この動きを妨害し、弾圧しましょうか?」

「そうか・・・しかしもう少し様子をみよう。弾圧は推移を見定めてからだ。」

 身体の不調から気力が萎え、新たな施策などに手出しをする余裕がない。

 だから暫し様子を見ると誤魔化し、たがが緩んでしまったのだろう。

 しかしその判断が対抗策を手遅れにしてしまう。

 危険水域に達した時は、もうすでに遅かった。

 厭戦世論の影響は政権周囲にまで及び、ルーズベルトはその空気の変化に敏感に反応するしかない。

 彼は自らの死期が近いと悟っている。

 だが自分の在任中、何としても力づくでジャップどもをねじ伏せたい!

 本当なら完膚なきまで叩きのめすのだが、私の残り時間は少ない。

 その焦りが頑なな心を弱らせ、中途半端なまま降伏を受け入れ、不本意ながら単独講和に踏み切った。


 1945年4月12日ルーズベルト大統領が脳溢血で死去。

 憎しみの政治を以て歴史を刻んだ稀有の大統領だった。


 大統領の死の知らせのほんの少し前、アメリカ政府が降伏受け入れと単独講和の意向を日本に伝えると、その反応を待ち望んでいた日本政府と軍部が素早く動く。


 それまで一般の軍と国民に秘匿していた雪江タヌキの未来情報を、陸海軍の主要下士官クラスまで公開した。

 それは降伏方針の決定に反発し、強硬派士官達が反乱を起こさせないための事前措置である。

 更に降伏後の戦後処理計画まで伝え、軍全体に浸透、実行させるために。

 

 南方戦線に残る兵士たちの撤収計画の策定や、満州の関東軍・居留民や朝鮮半島の日本人を円滑に混乱なく帰還させるための計画を下士官に発表・説明した。

 

 この時点で日本のインフラは、戦争末期と比べまだ戦災の影響を受けておらず、人員等の輸送・機動力をかろうじて保持している。

 またこの時点のソ連軍はドイツと激闘を繰り広げており、満州の関東軍を攻撃する余力は無いし、その心配もない。

 だから史実では関東軍が満州等の日本人居留民を見捨てる愚挙を晒していたが、今なら居留民避難完了まで守備を継続、全日本人の撤収作戦を成功出来る。

 

 今をおいて他に撤退のタイミングはないのだ。

 

 1943年(昭和18年)12月8日、同年11月22日のカイロ宣言を受け、世界向け放送で昭和天皇のお言葉並びに、東条首相が全面降伏を宣言した。

 

 これにより日本本土以外の各地に散らばる日本人撤収作戦を、つつがなく実行。

 これでペリリュー島の玉砕やレイテ沖海戦、硫黄島玉砕の悲劇は避けられる。

 たくさんの命を救える!未来を知る誰もがそう思った。

 

 雪江タヌキの行動により、人類の歴史を変えた瞬間である。

 

 今後はどのように推移するのだろう?

 それは雪江タヌキの未来予知の神通力を以てしても分からない。

 何故なら雪江タヌキが予知能力を発揮できるのは、本来辿るべき歴史についてだけである。

 改ざんし変容した歴史では雪江タヌキの他、誰にも予知できない。

 

 敗戦は誰だって悔しい。

 あれだけ血を流し、歯を食いしばって頑張った挙句の負け戦。

 多分、今後はアメリカに隷属する情けない立場に堕ちるだろう。

 

 でもどんな苦境に遭っても、日本人の不屈の闘志があれば、必ず誇りと自信を取り戻し、アメリカ人どもに「どうだ!」って胸を張れる日がくる。

 きっと来る!

 そう信じて前を向こう!と合言葉のように固く信じた。

 

 任務を終えた雪江タヌキたちタヌキ部隊は、東条や樋口の任務解除命令を受け、故郷に帰還した。

 

 故郷の人々や、帰還を待ち侘びていたお山のタヌキ留守部隊は、お祭り騒ぎのような喜びを表す。

 皆戦争などしたくはなかったと、今は大っぴらに堂々と言える。

 愛する兵士たちの無事帰還は無上の喜びであり、人々は希望と幸せを実感した。

 

 雪江タヌキは早速お地蔵さまに帰還を報告、手を合わせる。

「お地蔵さま、私は無事ここに帰ることができました。

 数々の御助力と励ましのお言葉、ありがとうございます。」

 お地蔵さまは温かい眼差しで

「よく戻った。

 雪江タヌキの働きには、天も喜んでいるぞ。

 本当にご苦労であったな。」

 と言ってねぎらった。

 

 雪江タヌキは何の疑いも無くお地蔵さまに接するが、果たしてこのお地蔵さま、その正体は何だろう?

 そこいらにありふれた一介の石地蔵などではあるまい。

 だって一介の石地蔵に過ぎないのなら、おせんタヌキや雪江タヌキに神通力を授ける奇跡など起こせる筈はない。

 彼女らが当然と思っていたお地蔵さまの能力は、決して当たり前などではないが、それを不思議だとは露ほども思わない雪江タヌキ。

 

 彼女にとってお地蔵さまはお地蔵さまであり、それ以上でもそれ以下でもない。

 あのお方の正体がたとえ神様や仏様であっても関係ないのだ。

 

 ただただ平和を取り戻せた幸せを噛み締め、明るい未来を信じる雪江タヌキ。

 

 

 一方、お地蔵さまの近くに住み、お世話をしてきたあの晶子と圭介兄妹。

 

 まだ少年にすぎない圭介がまだ父の帰還を待つ不安な日々を過ごしていた戦争中のある日、お地蔵さまと雪江タヌキにお供物を供えながら呟いた。

「父ちゃんはいつ帰るのだろう?

 僕はもう、父ちゃんの顔さえ思い出せなくなってきたよ。

 ねえ、お地蔵さま。

 どうか僕たちの父を無事お返し下さい。

 どうか、どうか、お願いします。

 

 それにしてもどうして人間はいがみ合い、戦うのかな?

 同じ人間なのに殺し合うのだろう?

 

 僕は川で捕まえてきたメダカが共食いするのを見たんだ。

 それに近くの野原で捕まえたバッタも。

 メダカもバッタも、悲しいけど生きるために共食いするのは仕方ないと思う。

 けど、人間たちは「自分は高等生物」って威張っているけど、共食いするバッタたちと何処が違うんだろう?

 生きるために共食いする彼らと比べて、自分の欲や我儘を押し通すために力づくで相手の財産や命まで奪うなんて、どこかおかしくない?しかも集団でだよ。

 もしかしたら、メダカやバッタより、人間の方が下等生物なんじゃないかな?」

 

 いつまで経っても帰らない父。何処にもぶつけられない不満をお地蔵さまたちにぶちまけた。

 

 そんな圭介の呟きを聞いて、子供たちにそう思われる大人たちって情けないな、って雪江タヌキは思った。

 

 

  そんなある日、突然出征から帰還した父ちゃんを見て、晶子と圭介は飛び上がらんばかりに喜び、夢中で駆け抱き着いた。

  父ちゃんのお腹に顔を埋め、今までの寂しさと不安を吹き飛ばさんばかりに甘える。

  それをお地蔵さまと並んで見ている雪江タヌキ。つくづく平和の尊さを実感した。

  日本を降伏に導き、戦争を終わらせた自分の決断と行動は、間違っていなかったと心から確信できた光景である。

 

  自分は自分の子供に戦争の悲惨な体験など、そんな思いをさせたくない。

  明るい未来を作らなきゃ!

 

 

  雪江タヌキはお山に残る幼馴染の健吉タヌキと久しぶりに再会したが、何だか以前の幼馴染とは違う。

  ほんの少し前に離れていただけなのに、一人前のおとなになったよう。男らしさが際立って見える。

 


 「久しぶり。元気そうだね。・・・・。でもなんだか前の雪絵ちゃんとは別人みたい。

  なんだろう?おとなになったというか、眩しいというか・・・。

  でもまた会えて嬉しいよ。これからは以前のように毎日会えるんだね。

  ボクね、あれから頑張って妖術をたくさん覚えたよ。

  今度見せてあげるね。」

 「私もまた会えて嬉しい!そう、たくさん術を覚えたのね?あなたの術、是非見てみたいわ。

  それに健吉さんも一段と逞たくましくなって、とても頼もしいって思う。(素敵になったのね)

  明日から毎日会えるのね。楽しくなりそう!」

  一部恥ずかしくて言葉にならなかったが、割合素直な気持ちを伝えられたと思う。


  それは(本人は気づいていないが)雪江タヌキもそうなのだが。

  ふたりは気づかぬままに成長し、一人前の男のタヌキと女のタヌキになっていた。

  そしていつしか二人は互いに思い合うような仲になり、とうとう祝言をあげる。

 

  雪江タヌキは白無垢を羽織り、晶子と圭介が作ってくれたお地蔵さまとお揃いの真っ赤な外套を身にまとう。

  その姿は眩いばかりで、白と赤の花嫁衣裳がより雪江タヌキの美しさを際立たせた。

 

  彼女の祝言での見事さと美しさは後々の語り草になり、今に繋がる伝説となる。

  そして幾多の戦功により、政府からお山の片隅に真新しい紅白を基調とした小さな祠が祀られた。

 

 

 

  沢山の命を救い、平和をもたらした使者を讃えるために。

 

 

  

 

 

 

 

         おわり

 

 

 

 

   あとがき

 

 

 多分読者の皆様は、タヌキたちの活躍で颯爽とアメリカ軍を撃退するストーリーを期待してくれていたと思いますが、ご期待に添えなくてすみません。

 私もそういう物語にしたかったのですが、この戦争をシビアに見た時、圧倒的な国力差はタヌキの超能力を以てしても如何ともし難く、更に原爆投下阻止や、ソ連参戦阻止を成し遂げるのは無理との結論に至りました。

 もちろん元々荒唐無稽のお話なので、いくらでも無茶な設定にするのは可能ですが、あまりに現実離れしたストーリーは稚拙に思え、私には書けませんでした。

 それに加え、この物語はお地蔵さまから超能力を頂く以上、殺戮による解決は意に反し矛盾するため、日本勝利の展開は残念ながらいくら考えても不可能なのだと考えました。

 但し、ただ負けただけでは済まさない!

 日本はいつしか卑屈な戦後レジームから復活すると信じ、この物語を閉めようと思いました。

 今後の日本の奮起を期待して。

 

 

 


お山の紅白タヌキ物語  第18話 予知と会議

2024-02-19 05:25:04 | 日記

 キスカ島守備隊の撤退が終了し、雪江タヌキは札幌の北部軍司令部に報告のため帰投した。

 樋口司令が雪江タヌキの目から見た実際の状況報告を受け、事象の経緯を理解する。

 それまで事前に北方部隊指揮官河瀬四郎第五艦隊司令長官や、第一水雷戦隊司令 木村昌福少将などから受けた報告と時系列の経過は一致するが、何故不可解な奇跡が起きたのかが謎だった。しかし雪江タヌキの報告を聞き、ようやくその謎の部分が腑に落ちる。

 確かに雪江タヌキの妖術や神通力が無ければ、一連のアメリカ軍の動きは説明できない。

 彼女の報告を総合的に判断すると、事実経過の推移の説明に齟齬が無く、多分自分の手柄として誇大に吹聴した訳ではないだろう。

 アッツ島での活躍は目に見えにくいものであったが、キスカ島撤退は明らかな超常現象と云えたから。

 

 そして何より驚いたのは、雪江タヌキの姿の変容にあった。

 彼女は司令部に赴くにあたり、当然人間の姿に化け司令に謁見したが、以前とは見違えるような神々しさのエネルギーに満ちていた。

 樋口司令はもちろん雪江タヌキの正体を知っているので、何も人間に化けてまで会うことはない。

 だが司令部の中には彼女の正体を知らない者もいる。

と云うか、知る者の方が少ない。ごく限られたもののみが司令部を訪れた雪江タヌキを司令室に通すため、事前に知らされているだけである。

 だから余計な誤解や波風を避けるための配慮として、人に化けているのだ。

 

 雪江タヌキの報告が終わり「戻ってよし」と云われても、雪江タヌキは何か言いたげで動こうとしない。

「どうした?」と問うと、思案の挙句とでもいうように、

「司令に申し上げたいことがございます。」と何かを決意したかのように口を開いた。

「聞こう。」

「実はわたくし、一度神通力を失っていた時期がございます。

 ですがわたくしに神通力を授けてくださったお地蔵さまより、以前より強力な神通力を再び授けて頂きました。」

「ほう、より強力な神通力とな?」

「そうです。その力はひとつひとつの戦地に影響を及ぼすのみならず、この戦争の行方を左右するほど絶大なものです。」

「戦争の勝ち負けを左右すると?どれほどの力なのか?それ程の殺傷力があるとは恐ろしいものであるな。」

「いいえ、違います。わたくしがお地蔵さまから授けられた能力は、人を殺めるためのものではありません。むしろ、人を生かすための能力です。」

「それは如何なるものか?」

「はい、実はわたくしが本来持っていた神通力は、主として千里眼でした。

 でも今はその千里眼に加え、未来を見通す予知能力も授かったのです。

 この能力を使えば、今後の戦況を総て事前に把握できます。

 つまり今後起きる悲劇を回避したり、有利に誘導できると云う事です。

 でもお地蔵さまが私に授けて下さった時、当然のことですが人を殺めることを目的にしてはいけないとの教示も受けております。なので私は考えました。

戦争に勝つためにこの能力を使うのではく、戦争を終わらせるために使うことこそがお地蔵さまの意に添う行いではないか?と。

 戦争を終わらせるためには、今後起きる総てを知っていただくことが一番かと。

 私が持つ予知能力は私のみが知るだけではなく、私に見える総てを映画の映像のように写し出し、皆様にご覧いただけるのです。」

「ほう、それは凄い!是非我にもその未来の映像を見せて欲しい。

 どうだ、この場で映し出せるか?」

「はい、可能です。ですが今後の戦況はあまりに刺激が強すぎますので、まずは試しに明日の司令の一日をお見せしましょう。」

 そう言って雪江タヌキは樋口司令の起床から就寝までの様子をダイジェストで映し出した。

 そこには確かに明日の行動予定が映し出されている。

 それも、誰も知らない筈のスケジュールまでも、まごう事無き自分の姿で映っているではないか。

 樋口司令は衝撃を受ける。

 これは本物である!しかもこの映像はモノクロではなく、鮮明なカラー映像であった。 

 だが、この未来の自分の日常を写し出した映像を見ただけで満足するはずもない。

 雪江タヌキは、戦争そのものの未来を映しだせるというではないか。

 であるならば、当然司令官の立場として、強い興味と情報収集の意味からも、未来の戦況を知りたいと思った。

「雪江タヌキよ、私の明日の行動はよく分かった。

 そこもとは戦争の未来は刺激が強過ぎると申したが、私はこの戦争を預かる軍人であり、司令官である。

 我はその責任ある立場として、今後起きる事柄を知る義務を負うておる。

 我らの未来が如何に困難なものであっても、この戦争を指揮する者として直視しなければならぬのだ。

 だからどうかその未来の映像を見せて欲しい。」

「承知いたしました。

もとよりまず樋口司令にご覧いただかなければ、先に進めません。

ですが事前の警告として申しますが、これからご覧いただく内容は想像を超えた悲惨さを伴います。

ですので、心してご覧ください。」

 

 そうして雪江タヌキは1943年8月以降の主な戦況を司令の目の前の空間に写し出した。

 インパール作戦、マリアナ沖海戦、ペリリュー島の戦い、レイテ沖海戦、硫黄島の戦い、東京大空襲、沖縄決戦、広島原爆投下、ソ連参戦、長崎原爆投下、ポツダム宣言受諾、ソ連の満州侵略、占守島の戦い、米ソ対立・・・。

 

 激戦地での悲惨な状況、阿鼻叫喚、アメリカ軍の圧倒的な火力!

 原爆の想像を絶する凄まじい破壊力と迫力。

 見る者の頭の中に響く大音響。

 我らはこんな奴らを相手にしていたのか?

 相手が準備不足だった緒戦はともかく、本格的な戦時増産体制が整った今のアメリカは、日本との国力の差が顕著になり過ぎていた。

 それに雪絵タヌキのパワーアップした神通力を以てしても、かないっこないと分かる。

 この大きな違いに「もう無理!」と云う言葉しか出てこないではないか。

 これ以上の戦争継続は、全くの無意味だと見た者誰もが悟るだろう。

 今以降、戦死者を出すのは、戦争の行く末を目撃してしまった以上、戦争責任者としてこれ以降の戦争遂行は無責任の誹りを免れず、(どう考えても戦死者たちに対し不遜であるが)ハッキリ言って無駄である。

 

 不遜?尊い英霊を『無駄』と申すか?

 

 いや、我が命を賭けてでも国を護ろうという行為が無駄なのではなく、無為無策で無能な作戦と指導者の行為が『無駄』なのであり、英霊に対する不遜の極みなのだ。

 『無駄』な戦死者を出すのは罪である。

 それも国家を揺るがす大罪である!!

 

 

 この大戦を戦った結果の凄惨な未来を目撃し、

「何という・・・・・・。」

 樋口司令は言葉を失い、茫然自失の状態になった。

 これは作り物なんかではない。総て戦争継続の結果、今後実際に起きる出来事なのだ。

 これから先、何人の犠牲者が出るのか・・・。いや、『我々が』出してしまうのか?

 樋口司令の印象に強く残ったのは、原爆投下の言いようのない恐ろしさと、我が北部軍が直接関わるソ連参戦、続く占守島の戦いにより強い衝撃を受けた。

 この一連の映像を見てしまった以上、指揮官としてやるべきことは一目瞭然である。かかる悲劇は例え自らの生命を賭けてでも、責任を以って何としても止めねばならぬと。

 

 樋口司令は決断した。

「雪江タヌキ殿、今の映像をもっとたくさんの者たちにも見せねばならない。

 悪いが幾度か又、この映像を他の者たちにも繰り替えし見せてやってはくれないか?」

「承知いたしました。

 喜んでご希望に添わせていただきます、はい、何度でもお見せいたしますとも!

 でもひとつだけご忠告申し上げます。

 この映像をご覧になって未来を変えようとなさるなら、当然その行為は未来の歴史を変えてしまうという、重大な結果をもたらすと云う事を。

 その決意とお覚悟はお有りですか?」

 樋口司令はその問いに応えず、真っ直ぐに雪江タヌキを見据え、

「まずはこれから北部軍司令部首脳たちに見せ、その後大本営、政府首脳、天皇陛下にも見て頂かなければならないだろう。

 差し当たってここ(北部軍司令部)からだな。これから頼めるか?」

 この返答が雪江タヌキの問いかけへの答え(覚悟)の全てだった。

 もう何も恐れない。今後予想されるどんな障壁をも命賭けで突破してみせる。

 私が必ずこの戦争を終わらせる!そんな気概に溢れていた。

「大丈夫です。」それを受け、雪江タヌキも司令から視線を逸らさず応える。

「それでは大至急首脳会議を開催する。人を集めるので暫し待って欲しい。」

 

 そして休む間もなく、北部軍緊急首脳会議が開かれた。

 

 首脳たちも樋口司令同様、強い衝撃を受け、暫しの無言状態に陥った。

「明日の戦いが苦難・困難を強いられると感じていたが、よもやこれ程とは。」

 見た者すべてが同じ感想を持ち、この戦争を終わらす方向で意見・意思の一致をみた。

 

 樋口司令はその後 さま直接 東条英機首相と会見すべく連絡をとり、急遽(雪江タヌキを秘密裏に同行させ)軍用機で東京へ向かう。

 その内容の重大さにかんがみ、東条本人及び、小磯国昭(陸軍大臣で次期首相)同席の場で未来映像を観て貰うことにした。

 樋口司令にとってこの両名は、満州時代(オトポール事件から)の恩人であり、庇護者の関係にある。

 政府や大本営の中枢にこの両名が居ると云うのは心強く、目的を遂行し易い。

 何故ならこの戦争で必死に作戦を遂行している最中に終戦を呼びかけるなんて、(この当時は)天下の大罪であり、反逆罪で処断されても仕方ない状況下にあったのだから。

 故にこの命がけのミッションを達成するためには、何としてもこの両名の賛同は不可欠である。失敗は許されないのだ。

 

 まず東条・小磯両名に雪江タヌキを紹介する。

 但し、最初は人間に化け姿を現す。事前に正体はタヌキであると明かしているが、人間の姿のままである方が、見る方も見せる方も都合が良い。

 タヌキの姿のままでいるより、人間の姿の方が説得力があると思うし。

 

「そなたが雪江タヌキであるか。そなたの噂は樋口より耳に入っておる。

 そなた達タヌキ部隊が志願した時から、その経緯の報告も受けているしな。

 そなたの能力と実績は、突出しておるそうな。

 そのそなたが今後の戦況に警鐘を鳴らしておるというのなら、是非耳を傾けなければな。

 きたる未来を見通し、且つ映像として示す能力があるとは恐れ入った!

 雪江タヌキ殿、この国の未来を我らにも見せてくれ。」

 

 仰せのままに両名に未来の映像を見せると、樋口司令同様、激しい動揺を現わした。

 元々東条も小磯も、対米戦争など考えていない。

 開戦当時、陸軍・海軍が想定する相手はあくまで英国。

 英国さえ潰せばその後の展開を有利に運べ、圧倒的国力差があるアメリカに対峙できるとの計算があった。だからできうる限りアメリカとの戦闘は避け標的をイギリス輸送船に限定した作戦を立て、御前会議で昭和天皇からの了承も得ていたのに。

 ところがその作戦命令に背き、山本五十六連合艦隊司令長官は行き先をインドシナ方面ではなく隠密裏に太平洋に進路を変え東進、真珠湾奇襲攻撃を敢行。

 それを支えていた永井修身軍令部総長の術中にマンマと嵌められた。

 

 東条と小磯は「しまった!」と思ったが後の祭り。

 その後の展開は衆知の通りである。

 だが戦争責任者として、後には引けない立場にあった。

『後悔先に立たず』

 

 だがこれで幕を引ける。

 この戦争を引き起こした責任は、引き起こした山本五十六が4月18日ソロモン諸島上空で戦死してしまった以上、我が命を以って一身に受けよう。

 早速天皇陛下に緊急御前会議開催の儀を奏上、1943年9月30日天皇臨席の上、雪江タヌキの未来映像を会議の場で公開した。

 

 当然大きな反響を呼び、それまでの抗戦方針が一変した。

 そしてここで決した方針が、後の世の歴史を大きく変えるきっかけとなる。

 

 本来この会議では「絶対防衛圏の後退を決定」するものだったが、「連合軍側に降伏を宣言し、大戦の終息を図る」と大きく方針変更し舵を切ったのだ。

 

 だが軍の中には未だ徹底抗戦派が多数存在し、不穏な動きが予想された。

 それらの動きを断固封じ、何としても降伏を成功させるのが至上命題である。 

 だが今、現時点で降伏方針を軍や一般に公にはできない。

 

 下士官以下、軍や国民に対する秘密裏の作戦行動と、少しでも有利な早期降伏条件を引き出す難題に立ち向かうと覚悟を決めた軍上層部と政府であった。

 

 

 

 

 

 

     つづく

 


お山の紅白タヌキ物語 第17話 キスカ島撤退(2)

2024-02-17 07:21:46 | 日記

※ はじめに

第三話 『ポンポコ踊り』を部分的に加筆しました。

何処にどう加筆したかもし、興味がございましたら御覧ください。

https://ncode.syosetu.com/n2214ip/3/





 撤収艦隊は事前に偽装工作を施していた。

 もし肉眼でアメリカ側哨戒に発見されても友軍(アメリカ艦)と誤認するよう、巡洋艦の3本煙突の1本を白く塗りつぶし二本煙突に見えるようにしたり、駆逐艦に偽装煙突をつけたりと各艦とも偽装、極力戦闘を避ける方針を貫く。

 実際撤収艦隊が出撃した際も、濃霧ゆえ友艦同士が衝突し、やむを得ず帰投した艦が出たほどである。

 しかし、だからといって濃霧の中の出撃とは言え、こんな稚拙で粗末な方法でアメリカ軍の哨戒を誤魔化せるのだろうか?無謀ではないか?

 正直 誰もが疑問に思っていたが出来る事は何でもやろう。今はこれしかない。そう思う以外無いのだから。

 

 当然この艦隊の中に雪江タヌキも紛れ込み、幻術・神通力を最大限発揮し支援するつもりでいる。

 雪江タヌキはお地蔵様から再度授けられた力が、どれ程のものか知らない。

 しかし以前より強力になったと認識している。

 彼女はお地蔵さまの言葉を何度も思い返していた。

「力を授ける意味をおのれに問うてみなさい。どう使えば一番効果があるか?多くの人々を助けられるか?を。」

 

 自分の力をどう使えば一番良いのか?正解は何なのか?

 とにかく今は、目の前の問題を一つ一つクリアしてゆくしかない。

 お地蔵さまのお言葉は、その後に考えよう。

 

 7月23日、アメリカ軍の飛行艇がアッツ島沖で7隻の船をレーダー捕捉した。報告を受けた艦隊は日本艦隊とみて直ちに迎撃のため出撃した。

 だが当時この海域に日本艦船は存在せず、事実誤認であった。

 日本の撤収艦隊は前日の22日に幌筵港を出発したばかりで、キスカ島到達には数日かかる。

 だから当然キスカ島近辺には到達できていない。

 艦隊が出発した後、雪江タヌキは撤収艦隊がキスカ島到達前に何か事前工作をしなくてはと思い神通力を発動、翌日キスカ島近海付近に幻の船団を航行させた。それをアメリカの哨戒飛行艇が日本艦隊と誤認したのだった。

 7月26日 濃霧の中、戦艦ミシシッピーのレーダーがエコーを捕捉。アイダホ、ポートランド、ウィチタの艦隊各艦からも同様の報告を得、艦隊司令長官トーマス・C・キンケイド中将は直ちにレーダー射撃を開始、約40分後に反応が消失する。

 だが不思議なことに、重巡サンフランシスコと艦隊の全駆逐艦のレーダーには日本艦隊の船影など、最初から最後まで全く反応がなかった。

 だってそれは雪江タヌキが発した幻の日本艦隊なのだから、不思議でも何でもなく至極当然なのである。

 もちろん日本軍には全く損害は出ていない。一方的にアメリカ軍が無駄弾をばら撒いただけ。この時アメリカ軍が消費した砲弾は36センチ砲弾118発、20センチ砲弾487発に上る。

 

 この誤認攻撃を米艦隊が打電した砲撃の電文を、日本艦隊は全て傍受していた。また暗号ではなく平文での打電だったため、「アメリカ軍は同士討ちをやっている」

「やれやれ、何を誤認した?鯨の群れか?それにしても間が抜けている。まるで喜劇のようだな。」と日本軍は思った。

 

 7月28日、敵日本艦隊を撃滅したと確信したキンケイド中将。弾薬補給のため、キスカ島に張り付けてあった哨戒用の駆逐艦まで率い、艦隊を全て後退させた。

 

 

 7月29日午後0時 周辺海域からアメリカ艦隊がいなくなっているとは知らず撤収艦隊が入れ替わるようにキスカ湾に突入する。

 アメリカ艦隊後退の僅か数時間後であった。

 

 しかもこの時あれだけの濃霧だったのに、湾内に入る直前から急に晴れだす。これで座礁や艦同士の衝突も防げる。

「ラッキー!」(敵性用語なので誰も口には出さないが)誰もがそう思った。

 

 だがそれも偶然でも奇跡でもない。

 雪江タヌキの神通力の仕業なのだから。

 

 ただちに待ち構えていたキスカ島守備隊員約5,200名をピストン輸送。わずか55分という短時間で迅速に収容する。

 守備隊全員を収容後、ただちに艦隊はキスカ湾を全速で離脱。直後からまた深い霧に包まれ空襲圏外まで無事に脱出することができた。

 7月30日、日本軍守備隊を載せた艦隊が撤退したとは知らず、再び入れ替わるように補給を終えたアメリカ軍が封鎖を再開する。

 日本・アメリカ双方がお互いの動きを全く知らず、すれ違っていた。

 

 キスカ島海域に戻ったアメリカ艦隊は、艦砲射撃と空襲により攻撃再開。

キスカ島を飛んできたパイロットより「航空部隊への対空砲撃、通信所の移転、小兵力移動」との報告を受け、更なる空襲を実施した。

 しかしこれらも当然雪江タヌキの仕業である。もうこの島には間一髪、誰も残っていないのだから。

 

 だが日本艦隊が帰還途中、アメリカ側潜水艦が突如浮上、濃霧の中日本艦隊と至近距離ですれ違う。

 艦隊に緊張が走る。

 潜水艦は何事も無かったかのようにすれ違ったまま遠ざかった。潜水艦側から見て、日本艦隊が友軍艦隊であると誤認したから。

 でもいくら偽装工作を施していたからとは言え、至近距離で交差して気がつかないか?

 少なくとも僅かでも疑念を持ったなら、確認しようとするだろう。だがそんな素振りもなく通り過ぎた。

 

 これも当然雪江タヌキの成せるワザ。ここでもまた間一髪無事敵海域を突破し、帰投する事ができた。

 

 

 

 8月15日アメリカ軍は艦艇100隻、兵力34,000名をもってキスカ島に上陸。

 艦隊が念には念を入れ、必要以上に艦砲射撃を行い、濃霧の中一斉に上陸を開始した。アメリカ軍は存在しない日本軍兵士との戦闘に備え、極度に緊張した状態で慎重に進軍する。

 緊張が緊張を呼び、極度な精神状態に陥り各所で同士討ちが発生した。

 

 実はこの時、雪江タヌキに同行していたアッツ島守備隊の残留思念がキスカ島に上陸、島に残りアメリカ兵を待ち受けていた。

 

 どうして?

 だってアッツ島守備隊の英霊は、雪江タヌキが祖国に連れ帰ったはず。

 だがそのとき英霊たちは残留思念を切り離し、自分たちの無念を晴らしたいとの強い希望を持っていた。

 このままでは帰れない。玉砕まで追い込まれ、無念の死を迎えたままむざむざと帰ってなるものか!

今一度戦い、一矢報いなければ成仏などできるか!

 そうした思いが英霊たちの思念を切り離し、再び雪江タヌキに取り憑きキスカ島に同行したのだった。

 

 アッツ島守備隊の残留思念という幻と戦ったアメリカ兵たちは、極度の混乱の中、同士討ちを始める。

 その結果死者約100名、負傷者数十名を出しキスカ島攻略を完了する。

 奇妙なことに、壮絶な戦いをしたはずなのに日本兵の遺体は全く無く、同士討ちで亡くなったアメリカ兵の死体だけだった。

 その惨憺たる結果を目の前にして、呆然と立ちすくむアメリカ兵たち。

 この怪奇現象は「日本兵の亡霊」の仕業だったのか?俺たちは亡霊と戦ったのか?と思い、以降長く怪談として伝わった。

 でもそれは、日本兵アッツ島守備隊の残留思念という幻だもの、当然だよね。

 

 更に追い打ちをかけるように、日本軍の軍医が立ち去る時、上陸するであろう米軍へのいたずらを意図した『ペスト患者収容所』と書いた立て看板を、置き土産として兵舎前に残して行った。

 語学将校として従軍していたドナルド・キーンがこれを翻訳、上陸部隊はパニック状態に陥る。

 そして大量のペスト血清を送るよう要請する電文を、アメリカ本土に向けて急遽打つ。

 それだけで飽き足らず、地下司令部突入すると、そこには星条旗で仕立てた座布団がテーブルの周りに敷かれている。つまり星条旗を尻に敷いていたことになるのだ。よくも我らの国旗を尻に敷いてくれたな!!兵たちは激高した。

 そして目の前の黒板には、「おまえたちアメリカ兵は、ルーズヴェルトの馬鹿げた狂気の命令に踊らされている」と書かれていた。何たる侮辱!

 

 但し日本軍守備隊は、アメリカ兵たちに憎しみのみで戦っていたのではない。

 どれだけ雨霰あめあられの艦砲射撃を受けていても、冷静さと礼節と人の心を持っていた。

 その証拠に、日本によるキスカ島占領中に撃墜された米軍爆撃機のパイロットたちの遺体が丁重に葬られており、墓標に「祖国のため青春と幸せを失った空の勇士、ここに眠る。7月25日 日本陸軍」と英文で記されていたのだから。

 

 雪江タヌキは思った。

 アッツ島守備隊の英霊たちの残留思念は、これで満足できたのだろうか?

 英霊たちは成仏してくれるのだろうか?それは分らない。

 幻が無駄にアメリカ兵たちを死なせてしまったのは正解だったのか?

 もちろん日本兵側に多大な犠牲を出しているのだから当然である。

 そういう感情を持つのも当たり前なのだ。

 だが、お地蔵さまから授かった能力を、こんな使い方で本当に良かったのか?

 お地蔵さまは「良く考えよ」とおっしゃった。

 結果的に(同士討ちではあるが)殺戮に加担してしまったのは、お地蔵さまの意向ではあるまい。

 過ぎてしまった事は仕方ないが、戦争はまだまだ続く。

 次の行動こそは、人間同士の殺し合いを止めねばならない。

 一方の国に加担して戦争を解決するものであってはいけない。

 同時期にガダルカナル島での悲惨な状況も千里眼で見知っている雪江タヌキは、今こそ悲劇を食い止めようと固く決心した。

 

 

後日談ではあるが、木村少将は救出作戦には収容時間が1時間が限界であると予想していた。

 

 彼は兵士収容作戦を迅速に完了させるには、陸軍側に全ての兵器の海中投棄が必須条件であるとアッツ・キスカ方面の陸軍守備隊司令官を務めていた樋口季一郎に進言する。

 だが樋口は大本営や陸軍省上層部に決裁を仰がず、独断で承認した。

 キスカ撤収作戦後、この一件を知った陸軍上層部から、海軍に対し抗議する。

 でもそれくらいは当然予想していた樋口であったが、欧州に大使付き駐在武官として赴任していた経験から、人命第一だと抗弁している。

 木村、樋口というふたりの陸海軍現地司令官の決断力も、作戦遂行に際し重要な鍵を持っていたと云えるのだ。

 

 奇跡のキスカ島撤退は奇跡でも何でもなく、司令官の決断と雪江タヌキの卓越した能力の結果である。

 その事実を知っているのはほんの一握りの者たちだけであったが、やがてその能力は陸海軍上層部のみならず、政府全体及び天皇まで知らしめることとなる。

 

 

 

 

      つづく

 


お山の紅白タヌキ物語 第16話 キスカ島撤退(1)

2024-02-15 05:49:27 | 日記

 1943年5月12日アメリカ軍がアッツ島に上陸を開始してから17日間におよぶ激しい戦闘の末、5月29日アッツ島守備隊(指揮官山崎)が残存兵力を率い最後のバンザイ突撃を敢行、玉砕した。

 

 雪江タヌキは目を反らさずその様子を記憶に焼き付ける。

 そして戦死者の御霊の成仏を心から祈った。

 皆様きっと無事成仏されるだろう。だが魂をこのままこの島に置き去りにして良いものか?

 否、皆祖国に英霊として帰りたいに決まってる。

 ご遺体まで運ぶことはできないが、せめて皆様の御霊だけでもお連れして帰りたい。

 

 雪江タヌキは霊験を授けてくれた四国のお地蔵さまに祈った。

「どうかこの私にもう一度神通力をお授けください。」と。

 この島での壮絶な戦いは雪江タヌキを消耗させ、力を失っている。

 でも何とかして戦没者の魂だけでも祖国にお連れしたい。そのためには再び神通力が必要なのだ。

 雪江タヌキにとって神や仏など知らない。

 すがる事の出来る相手は四国のお地蔵さまだけ。だから必死で祈った。

 

 すると眼前によく見慣れたお地蔵さまが姿を現した。相変わらず慈悲深いお顔で。

「雪絵タヌキよ、よくぞここまで頑張った。最後までのそちの尽力は多大なものであったぞ。」

「いいえ、お地蔵さま。私はいくさの途中、霊力を使い果たしてしまい、多くの兵士の皆様をお救いできませんでした。

 一番大切な時に消耗しきってしまうなど己の未熟さを痛感し、その後の悲惨な光景をただ傍観するしかなく、涙が止まりませんでした。

 玉砕とはかくも悲惨なものかと身もすくみ、立っていられない程だったことを痛感しております。

 未熟さ故の私の罪を今更償うすべはございませんが、せめて戦没された御霊だけでも故郷にお連れしたいと思います。

 そのためには今一度、お地蔵さまからお授けされた神通力が是非とも必要です。

 勝手だと承知しておりますが、どうか私の願いをお聞き届けいただき、私に再び神通力をお授けください。」

 

 少しの間の後お地蔵さまが口を開く。

「良く分かった。雪絵タヌキよ、今までの地獄の如き様を目撃し経験しても尚、お役に立ちたいと申すのだな?だが再び神通力をそちに授けると云う事は、英霊たちを帰還させるだけでは済まないのであるぞ。

 このいくさはまだまだ続く。各地に広がる戦地では多くの兵士たちが英霊となろう。

 そちはその様子を見続ける事になるが、それでも良いか?」

「それで良うございます。こんな未熟者ゆえ、力の及ばない場合も多々ありましょうが、全力を尽くしたいと存じます。」

「あい分かった。その覚悟に免じて、今まで以上の強い神通力を授けて進ぜよう。

 良いか?心して使うのじゃぞ。ワシはそなたの心が心配なのでな。

 この国の戦士が戦う相手の者どもは、深い憎しみに取り憑かれておる。

 国と国の争い以上の憎悪が心を支配し、憎悪が醜さを増し悪魔のごとき怨霊となり果てている。

 そちはやがてその巨大な憎しみの力を目撃する事になるであろう。

 だから心してかかるのじゃぞ。決して精神を病まないようにな。

 

 そしてこれから云う事は一番大事じゃ。こちらも心して聞くがよい。

 

 そなたに力を授ける意味をおのれに問うてみなさい。

 どう使えば一番効果があるか?多くの人々を助けられるか?を。

 良いな?良~く考えて使うのじゃぞ。」

「ありがとうございます、お地蔵さま。」そう言って手を合わせ感謝の祈りを捧げる。

 

 やがてお地蔵さまはすーっと姿を消し、霧の中に消えていった。

 

 雪江タヌキは一礼し、お地蔵さまを彼方の空へ見送る。

 

 

 雪江タヌキはおもむろに激戦の地を見据え、一心不乱に祈り続けた。

 御霊を安らかな境地へいざない、成仏されることを。

 

 またこの地に残る多くの兵士の残留思念を故郷に送るべく自分の身と心を開き、受け止めた。

 誰もこの悲しい地に置き去りにしてはいけない。

 愛しいご家族のもとへお返ししなければ。それが私の務めであるから。

 それ故の神通力である。

 

 やがて全ての残留思念と御霊を受け止め、雪江タヌキは鳥に姿を変えた。

 行き先は取敢とりあえず仲間の居るキスカ島。

 この島には日本の守備隊約5500名が駐屯し、アッツ島から撤退した20余名のタヌキが雪江タヌキの帰還を待っている。

 雪江タヌキは一心不乱に飛び続けた。

 無事キスカ島に辿り着いた雪江タヌキは、先に到着していた残存タヌキ部隊と再会、無事の帰還と戦闘の労を労い合った。

 そして息つく暇もなく、最後の突撃前に戦況報告のため外され離脱した第五艦隊江本弘海軍少佐、海軍省嘱託秋山嘉吉、沼田宏之陸軍大尉が乗船した潜水艦が一時キスカ島に停泊した一瞬の隙に同潜水艦に乗船、一路北部軍司令部のある札幌に向かう。

 樋口司令と謁見、戦況の詳細を説明・報告した。

 司令からは労いの言葉を貰ったが、力足りず玉砕の結果に「申し訳ございません」との言葉しか出ない。

 樋口司令は優しい眼差しで

「そんな事はない。よくやってくれたと、心から感謝している。

 聞けばそなた達タヌキ部隊にも多数の犠牲者がでたとの事。

 あれだけ無理はするなと申したのに。

 しかしあの戦況の中にあって、無理をせずにはいられなかったのであろう?よく頑張ってくれた。」

 その言葉に雪江タヌキの頬に涙が伝わった。

「暖かい労いのお言葉、ありがとうございます。

 でも私たちの戦いはこれが最後ではありません。

 キスカ島に残る守備隊の撤退もお手伝いさせてください。

 アッツ島で玉砕された皆様の想いを載せて、是非救出のお手伝いをさせて頂きたいのです。

 私がこの札幌に来たのは報告の為と、アッツ島の英霊の皆様を送り届けるためです。

 目的は達したので再びあの島に戻り、作戦に参加したいと切に願っています。だからどうかお願いします。私たちに参加する事をお命じください。

 今度こそ、必ずお役に立って見せます。」

 

 そうして樋口司令の了解を得、撤収部隊のいる幌筵に向かった。

 

 

 

 

 

  キスカ島撤退作戦

 

 

 

 

 キスカ島は玉砕したアッツ島より守備隊が多い。

 何故か?

 それはキスカ島の方がアッツ島よりアメリカ本土に近いから。

 常識的に考え、アメリカが奪還作戦を立てるとしたら、まず近い方の島を攻略すると考える筈。

 しかし実際にはアッツ島を先に攻め、玉砕に追い込んできた。

 その結果キスカ島はアッツ島とアメリカ軍が基地を持つアムチトカ島に挟まれてしまう。

 アムチトカ島にはすでに飛行場があり、制空権・制海権を握られてしまった。

 

 先の大本営の命令が北部軍から伝えられ、援軍も補給も無いと分かっている。

 キスカ島の日本守備隊5500名は完全に孤立、このままでは撤退かアッツ島同様玉砕による死しかない。

 

 だからと云って見捨てられては堪らない。

 すでに尊い犠牲となってしまったアッツ島守備隊には悪いが、これ以上の損害は出せないのだ。

 

 隣の島の悲劇に、救出も援軍も出せない自分たちの不甲斐なさに涙する兵士たち。

 でもそれは仕方ない。

 アッツ島守備隊は責任を以ってアッツ島を護るのが任務。

 同様にキスカ島守備隊はキスカ島を護るのが任務。

 となりの島に自分達が勝手に増援には行けないのだ。

 持ち場放棄は重要な軍紀違反である。

 

 

 大本営もアッツ島・キスカ島の深刻な事態は把握していた。

 しかしアッツ島にアメリカ軍が上陸してしまった時点で新たな増援を北部軍などから送ることは、制海権や制空権を握られてしまった以上、ほぼ不可能に近い。

 しかしキスカ島は見過ごせない。

 アッツ島の悲劇を繰り返さないために、何としてもキスカ島守備隊を救出しなければならない。同じ過ちは許されないのだ。

 かくしてアリューシャン方面を放棄し、孤立したキスカ島守備隊の撤退作戦を実行すると決した。

 

 

    第一期潜水艦作戦

 

 

 アッツ島玉砕・陥落の二日前(5月27日)、キスカ島撤退作戦実行。

 伊7潜水艦がキスカ港に入泊、60名を収容し帰途についていた。

 しかしこの潜水艦による撤退・救出作戦は非常に効率悪く、上手くいったとは言えない。

 何故ならこの潜水艦作戦では、米軍駆逐艦やパトロール艇が哨戒活動により、レーダーに捕捉され砲撃を受けことごとく撃沈されたから。

 救出に成功したのはこの時の伊7潜水艦の60名を含む累計872名のみ。

 伊7潜水艦、伊24潜水艦、伊9潜水艦の三隻が撃沈されている。(伊7潜水艦は5月27日以降の再度の出撃で撃沈)

 アメリカ軍の哨戒を掻い潜り、苦労してこれだけの犠牲を払いながら、救出できたのが872名のみでは割に合わない。

 6月23日、北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は潜水艦輸送作戦の中止を発令、ここに第一期「ケ」号作戦(潜水艦での救出作戦)は終わった。

 

 

  第二期水雷戦隊作戦

 

 

 潜水艦作戦の失敗は濃霧の中浮上航行中敵艦レーダーに探知・発見され、レーダー射撃を受け撃沈されたため。

 濃霧は敵航空機による空襲から日本艦隊を守ってはくれるが、日本軍の強みである肉眼での索敵能力(見張り能力)を奪う。

 伊7潜水艦たちがやられた敵艦レーダーの探知を掻い潜るには、逆探と電探が必要。

 当時最新鋭装備である敵探知機である逆探と電探を装備した新鋭高速駆逐艦『島風』を配備する事が絶対条件である。

 そこで第二期作戦は潜水艦部隊11隻、水上部隊[巡洋艦・(島風を含む)駆逐艦・補給部隊・応急収容隊等]計16隻で編成された。

 

 木村少将 麾下きか水上部隊が7月7日19時30分幌筵を出撃。

 部隊の目的は『味方(キスカ島)守備隊の撤退を隠密裏に実行』。あくまでアメリカ軍部隊との接触・戦闘を極力避けるのが絶対条件である。だが敵と遭遇した「もしも」の場合に備え、夜戦の準備も怠らなかった。

 

 7月10日アムチトカ島500カイリ沖にて水上撤収部隊は潜水艦部隊と合流・集結し、キスカ島へ向かう。

 しかしキスカ島に近づくにつれ、霧が晴れてきたため突入を断念。一旦決行予定日を13日に繰り下げとした。

 だが13日も霧が晴れ、翌14、15日に再度繰り延べしたが、両日とも霧が晴れてしまい突入を断念、15日午前8時20分 突入を諦め一旦幌筵へ帰投命令を発する。

 

 手ぶらで本拠地に帰ってきた木村少将に対し、待っていたのは非難轟々の嵐であった。直属の上官、第5艦隊司令部、連合艦隊司令部、更に大本営から「何故、突入しなかった」、「今すぐ作戦を再開し、キスカ湾へ突入せよ」など。

 貴重な燃料を費やしながら手ぶらでは、気持ちは分るが焦って作戦に失敗しては元も子もない。

「無茶を言うな!」と思う木村であった。

 

 7月22日、幌筵の気象台が「7月25日以降、キスカ島周辺に確実に霧が発生する」との予報を出す。

 同日夜、撤収部隊が幌筵から再出撃。

 

 

 この時第五艦隊司令長官河瀬四郎中将麾下第五艦隊司令部が多摩(艦長神重徳大佐)に座乗、実行部隊に同行する。

 どんだけあの時の木村少将の決断に不満を持ったか、不信に思ったかが上層部の行動に出ていた。

 

 艦隊はカムチャツカ半島先端、千島列島北端の占守島より北太平洋を南下、その後一路アッツ島沖まで進路を取る。そこで霧の天候を待ち、機を見てキスカ湾へ高速で突入。

 守備隊を迅速に収容し、再びアッツ島南方海域まで全速で離脱、幌筵に帰投する。というルートで計画、実行された。

 

 

 

 

 

    つづく

 

お山の紅白タヌキ物語 第15話 アッツ島の死闘(2)

2024-02-13 07:40:02 | 日記

*この回も激しい戦闘シーンの描写があります。

中には残酷と思われる場面もありますので、ご注意ください。

 

 

 

 

 

 思いの他頑強に抵抗する日本軍。

 もちろん日本側守備隊は何もせず、ただ漫然と敵の襲来を待っていた訳ではない。

 

 第二地区隊隊長山崎保代大佐の指揮のもと、大規模な防衛陣地を構築していた。

 無数の塹壕やトンネルを掘り、その中を守備兵が自由に往来、機関銃などでアメリカ兵を狙撃・掃射し、その結果想定以上の損害を与える。

 日本軍の待ち伏せなどを受け、想像以上の苦戦にあわてたブラウン第7師団長。

 当初アッツ島は3日で制圧できると踏んでいた。

 

 アーネスト・キング海軍作戦部長の「戦艦を動員し、ジャップを吹き飛ばしたらどうか?」との提案を受け、アッツ島に激烈な艦砲射撃を浴びせる。

 当初の事前偵察でアッツ島守備隊は僅か500名のみである(実際は2650)と考え、上陸は一個師団(第7歩兵師団)で十分足りると想定していた。

 だが戦艦からの艦砲射撃は効果が無かったこと、日本側守備隊の数を見誤っていたこと、日本側守備隊には周到な塹壕戦の準備をしていた事などで、想定外な損害を出すに至り増援が必要と考え、アメリカ海軍北太平洋軍司令官トーマス・C・キンケイド少将に、アラスカで待機する第4歩兵連隊を投入するよう要請する。

 

 だがキンケイドは「ヤダね」と拒否。(ホントにこう言ったかは不明)

 

 ブラウン師団長は海軍に不満を抱く。

「海軍は何も分かっていない。アイツらは馬鹿みたいに砲弾をぶち込むだけぶち込み、さっさと引き揚げるつもりなんだ」と部下の前で公然とぶちまけた。

 一方アメリカ陸軍アラスカ防衛司令部は、逆にブラウン師団長を無能と判断する。

 海軍力を含め日本側の5倍以上の戦力を投入しておきながら、更に増援を要求するブラウンの指揮能力に疑問を抱いたから。

 こんなことでは3日間での攻略など、全く覚束おぼつかないではないか。

 こうしてブラウンは上陸からわずか3日目(16日)に師団長を更迭される。

 新しい指揮官はユージーン・ランドラム少将に交代、作戦が根底から見直された。

 

 それを期に戦いの潮目は変わり、次第に戦況がアメリカ側に有利に傾いてくる。

 

 5月15日未明、舌形台に立て籠る北千島要塞歩兵隊と船舶工兵隊が芝台奪還を目指し、百数十名の兵士で夜襲を敢行。

 タヌキ部隊の幽玄の術の援護を受けた日本兵が寝込みを襲い、アメリカ兵は一時大混乱する。

 しかしそこから体制を持ち直したアメリカ。

 白兵戦に持ち込まれると体格に勝るアメリカ兵が優勢になり、力の競り合いでは日本兵は全く勝てず、銃剣突撃をしても逆に組み敷かれてしまう。

 更に優勢な火力に物を言わせ反撃、斬込夜襲隊は全身を蜂の巣にされ120名の犠牲を出し撃退された。

 

 夜が明けアメリカ側は、仕返しとばかり戦艦3隻で徹底した艦砲射撃を敢行する。

 その様子は凄まじく、戦艦「ネバダ」から14インチ砲で砲撃する度、日本兵の死骸や手や足が霧の中から転がってきた。

 

 このアメリカ軍の砲撃に守備隊のみならず、タヌキ部隊からも多数の犠牲者が出た。

 連日の戦闘に気力・体力を使い果たし、術の精度が落ちた者、全く使えなくなった者が大半となり、とうとう痛恨の死傷者を出してしまった。

 雪江タヌキも神通力の効力を失い、日本軍守備隊への加護が不可能となる。

 生まれて初めて大きな挫折を味わう雪江タヌキ。

 以降、己の無力さに打ちひしがれる事となった。

 そして壮絶で悲惨な最後の目撃者になる屈辱と嘆きを味わう。

 

 

 16日、アメリカ軍はこれを期に部隊を前進させ、北海湾西浦地区にまで進撃する。艦砲射撃による大損害を受け迎撃できない状況に追い込まれた山崎隊長は、北海湾を放棄し熱田湾まで後退、持久抗戦に作戦転換した。

 

 この決意を受け、山崎隊長は舌形台まで決死の移動を試みた。そこに踏み留まる指揮官米川浩(中佐)に撤退するよう説得するために。

 ようやく何とかたどり着くと、状況を伝え撤退命令を発した。

 だがこれは米川中佐にとって耐えがたい命令である。

 何故なら北海湾方面部隊担当地域にはアッツ島最重要施設の飛行場(建設中)があり、多数の軍需物資を貯蔵していたから。

 そんな重要拠点を今まで多くの犠牲を出しながら死守してきたのに、ここにきての撤退は身を切る想いである。

 しかし山崎隊長は「もうすぐ援軍が来る。援軍さえ着けば反撃を開始する事になるからから、それまでは何としても持ち堪えなければいけない。だから、な?」と説得を続け了承を取り付けたのだった。

 

 実はこの時点で山崎隊長は、北方軍司令部に補給と増援要請を行っている。

 だがその要請が受理され、実行されることは無かった。

 後述するが、何故ならこの時、北方軍司令官樋口季一郎陸軍中将は、山崎隊長の守備隊がアメリカ軍の侵攻を食い止めている間に第7師団を振り向け、アッツ島逆上陸作戦の計画を決定していた。あくまで守備隊を援護し、アッツ島を死守するために。

 しかし大本営の出した結論は全く違い、非情なものだった。

 戦争全体を俯瞰してみた時、南方戦線方面が苦戦を強いられている状況で、戦力に余裕のない大本営はその作戦計画を却下、断念せざるを得なかったから。

 

 それだけならまだしも、後に大本営は「アッツ島守備隊山崎大佐は、1兵の増援も物資補給の要請も全く行わず、死を目前に敵の装備などを詳細に報告した帝国軍人の鏡」など、事実に反して勇猛果敢な美談に仕立てている。

 

 

 

 そんな状況下、司令部の動きも意思も知らされていないまま、戦闘現場であるアッツ島旭湾を守備しアメリカ軍主力を足止めしてきた林中隊は、アメリカ軍の戦車5輌とカノン砲5門の攻撃を受け、荒井峠の1個小隊が全滅。

 

 そうした厳しい状況にありながらも虎山に立て籠る林中隊主力は、実質的な戦力が僅か1個小隊程度でありながら激烈な死闘を制し、アメリカ軍2個中隊を撃退した。

 その時アメリカ軍側の戦死者は300を下らない。

 しかしさしもの林中隊も1週間以上アメリカ軍主力を旭湾近辺に足止めしていたが、21日に虎山を突破され、22日アメリカ軍主力の北上を許し、力尽きた。

 

 林は山崎から旭湾地区警備隊長の任を解かれ後退を許される。

 そして獅子山東側陣地の防衛を新たに命じられた。乏しい火器(わずか2門の四一式山砲)しか持たない林中隊はようやく陣地にたどり着く。

 まもなくアメリカ軍の大部隊が追撃、それまでアメリカ軍を翻弄し続けてきた林であったが、集中砲火を浴びてついに林は腹部に砲弾の破片を受け、腸が露出するほどの重傷を負う。

 それでも林は衛生兵に腹を何重にも包帯で巻かせ、雪原に横たわりながら部隊指揮を続けアメリカ軍を足止めする。

 だが奮闘空しく、山崎隊長から撤退命令を受けた直後、迫撃砲弾の直撃を受け爆死。

 残存兵は断腸の想いで熱田湾に向かって撤退した。

 

 20日、大本営より「海軍と協同し西部アリューシャンの部隊を後方に撤収すること」との大命出る。

 大本営は北方軍に対しアッツ島への増援計画の中止を通告。

 更に翌21日、大本営参謀本部参謀次長秦彦三郎が札幌の北方軍司令部を訪ね、北方軍司令官樋口季一郎陸軍中将にアッツ島増援中止に至った事情を説明、北方軍司令部は大きな衝撃を受けた。

 

 23日、札幌の北方軍司令部よりアッツ島守備隊へ次のような電文を打つ。

 

「軍は海軍と協同し万策を尽くして人員の救出に務むるも、地区隊長以下凡百の手段を講して敵兵員の燼滅を図り、最後に至らは潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」

 電文にて事実上の「玉砕」命令が発せられた。

 

 その命令電文を受け、現地山崎部隊からは「国家永遠の生命を信じ、武士道に殉じる」と返電した。

 

 同23日、アッツ島にアメリカ軍が上陸後、初めて友軍である海軍航空機からの航空支援があった。

 それは第752航空隊所属一式陸上攻撃機19機である。

 上空に爆音を轟かせ飛来する航空機を見上げ、残存守備隊が翼の日の丸を確認すると、「友軍機だ!」「日の丸だぞ」と叫ぶ。

 アメリカ軍との死闘で追い詰められ、仲間を大量に失った日本側守備隊。

 ここにきての友軍機は希望の星に見えた。

 陸上攻撃機は湾内アメリカ軍の艦船を爆撃する。

 

 この光景を見た守備隊の士気は大いに上がる。だが自分たちが見捨てられているとは考えもしなかった。

 

 25日、前日(23日)に日本軍からの空襲を受けたアメリカ軍は報復に燃え、航空機での空襲や艦砲射撃を激化させる。その結果、海と空からの支援を受けたアメリカ地上部隊の進撃が加速した。

 

 そしてついに、熱田湾の司令部と旭湾方面に通じる道が、アメリカ軍に分断される。

 いよいよ最後のときが近づいたことを認識する。

 

 26日、アメリカ軍は兵力を増強し猛攻するが、それを受け米川部隊が乏しい武器で応戦、アメリカ軍側に甚大な損害を与えた。

(アメリカ側のその戦闘で小隊44人の兵士のうち20人が戦死したとの記録が残っている。)

 

 だが日本側の損害も大きく、これまで常に最前線で戦い、部下将兵を鼓舞し続けてきた独立工兵第302中隊長小野金造大尉が重傷を負い拳銃で自決、指揮官の米川もここで戦死した。

 

 一方、旭湾方面から後退を続けた旭湾地区警備隊の残存部隊は、日本軍司令部のある熱田湾前の石山まで撤退した。

 山崎は増援を待ち望みながら毎日諦めることなく、「兵馬倥偬の間、過誤なきを期し難きも、死も目前に迫り、かつ通信また断絶のおそれをあるをもって、機を逸せず、取りあえず観察せる事項を報告す」と日本北部軍に報告し続ける。

 そして北方軍司令官からついに「玉砕」命令を受電。

 

 29日、山崎は最後の総攻撃を行うことを決意、残存の兵に熱田の本部前に集まるよう命令する。

 

 最後の突撃と聞きアッツ全島の各地から将兵が集まった。集結までに半日を要したが、最終的には300人が結集する。

 しかし、その多くが負傷をしており、中には片腕を失いフラフラしている者、小銃を杖替わりに歩く者が散見された。

 その現状を見て山崎は全体を3個中隊に編成。第1中隊は無傷で元気な兵、第2中隊は軽傷の兵、第3中隊は重傷者と軍属や非戦闘員とした。

 指揮官の山崎は第1中隊の先頭に立ち突撃を直卒する。

 

 この最終局面で意外にも皆ふっきれ、さわやかな表情であった。

「これで苦しかった戦いから解放される。ここを死に場所に最後の働きをしよう。」

 雪江タヌキは自分の無力さに涙し、目をそらさず彼らの最後を見届けようと決意した。

 20時、全員が日本本土に向かい最後の別れを告げる。

 

 山崎は訓示を始めた。集まった部下に

「部隊が全滅したことを指揮官として深く詫びる。そして我は武人として壮烈な戦死をとげることを望む。自分も諸君とともに死ねることは喜びであり、それでも奇跡が起きることを信じ、一丸となって敵軍に最大の打撃を与えよう。」

 山崎は訓示の後、最後の電報を東京の大本営宛てに打電し、無線を破壊した。

 動けなくなった負傷兵は自決するか、それもできない場合は軍医が殺害する事とした。

 何故負傷兵を殺害せねばならないのか?それは「戦陣訓」にある。

 それは兵全体に徹底された「生きて虜囚の辱めを受けず」。

 この掟に縛られ山崎も本来将兵の生命を護るべき軍医も同様で、自分の想いとは裏腹に従わざるを得ない。

 山崎は「兵ほど悲しく哀れなものはない、できることなら今すぐにでも代わってやりたい、それができない部隊長の気持ちを察してくれ」と泣きながら彼らに語った。

 そして15人の軍医は黙々と重傷者を拳銃もしくは注射で殺害していった。

 

 一方、第五艦隊江本弘海軍少佐、海軍省嘱託秋山嘉吉、沼田宏之陸軍大尉が戦況報告のため最後の突撃から外され、アッツ湾東岬に移動して潜水艦による回収を待つことに。

 

 この時タヌキ部隊はその半数が戦死、遺体と共に透明の術で身を隠し雪江タヌキと共に残り、最後の突撃を見届ける決意をした。

 

 いよいよ決戦の時。

 3個中隊が一斉に突撃すれば、たちまち殲滅される。

 ではどうする?まず山崎の健常者第1中隊が中央突破、軽傷者で編成された第2中隊は迂回して進撃、第3中隊は後続で合流する部隊と合流してから後続するようにと待機。

 そう作戦を立て、22時30分、立ち込める霧に乗じ突撃条件が満たされ、山崎は2個中隊を率いて進撃を開始。

 30日午前3時25分、アメリカ側第32歩兵連隊B中隊を発見、全軍突撃を命じる。

 丘を駆け上がり監視所を襲撃、大隊長以下11人を銃剣で殺害した。

 その後第1中隊はその後休息中の第17歩兵連隊第3大隊と接触、目の前のアメリカ兵を残らず刺殺した。 

 この時彼らは既に食料も尽き、空腹と疲労でまともに動けなかったはずだったが、突撃時どこにそんな余力を残していたか不思議に思えるぐらいの俊敏さであった。

 そうとは言え、体格と腕力に劣る第1中隊も残念ながら死傷者を出す。

 恐ろしい形相でこと切れた日本兵の死体と、アメリカ兵の死体が折り重なる惨状となった。

 

 その後進撃する第一中隊に工兵隊指揮官ジョージ・S・ビューラー大尉は

「なんという悪夢だろう。騒音と混乱と殺戮の狂気だ」と思わず口にする。

 

 それでも物凄い勢いで突撃する日本兵と激しい白兵戦を繰り広げた。 工兵隊が日本軍を足止めしている間、第7歩兵師団の副師団長アーチボルド・ヴィンセント・アーノルド准将が、工兵隊の丘の反対側で工兵、衛生兵、コック、司令部要員など戦える者総てをかき集めて待ち構え、工兵隊を突破して丘の頂点を駆け上がってきた日本軍にかき集めたアメリカ兵が自動小銃や手榴弾を手にして工兵隊の丘に駆け上がり、日本軍の殲滅に取り掛かった

 

 アメリカ軍中隊の中隊長ハーバード・ロング中尉の証言。

「自分は自動小銃をかかえて島の一角に立った。霧がたれこめ100m以上は見えない。ふと異様な物音がひびく。すわ敵襲撃かと思ってすかして見ると300〜400名が一団となって近づいてくる。先頭に立っているのが山崎部隊長だろう。右手に日本刀、左手に日の丸をもっている。どの兵隊もどの兵隊も、ボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。手に銃のないものは短剣を握っている。最後の突撃というのに皆どこかを負傷しているのだろう。足を引きずり、膝をするようにゆっくり近づいて来る。我々アメリカ兵は身の毛をよだてた。わが一弾が命中したのか先頭の部隊長がバッタリ倒れた。しばらくするとむっくり起きあがり、また倒れる。また起きあがり一尺、一寸と、はうように米軍に迫ってくる。また一弾が部隊長の左腕をつらぬいたらしく、左腕はだらりとぶら下がり右手に刀と国旗とをともに握りしめた。こちらは大きな拡声器で“降参せい、降参せい”と叫んだが日本兵は耳をかそうともしない。遂にわが砲火が集中された…」

 山崎は最後まで生存して陣頭で指揮を執っていた。

 

 その間に日本軍の一部の部隊はアメリカ軍総司令部の背後まで達しており、司令部で取材中のアメリカ従軍記者が「もうダメか」と覚悟したほどであった。

 だが、そこにアメリカ軍の増援部隊が到着、激しい白兵戦の末日本軍を撃退、ランドラムや従軍記者たちは窮地を脱することができた。

 山崎は戦死し、残った日本兵も砲火に倒れ、又は手榴弾で自決し日本軍守備隊は「玉砕」した。

 

 雪江タヌキたちタヌキ部隊は、その最後を見届け鳥に姿を変え、キスカ島まで撤収した。

 その壮絶な最後を見届けて。

 

 

 

 

    つづく