uparupapapa 日記

ようやく年金をいただける歳に。
でも完全年金生活に移行できるのはもう少し先。

『シベリアの異邦人~ポーランド孤児と日本~連載版 第33話「アダムと母の教え」

2023-02-22 15:04:41 | 日記

 ヨアンナの食堂も次第に軌道に乗り、今ではいつも活気に満ちている。

 造船所が近くにある事と、漁師が足繁く通う関係で絶えず客足は減る事がない。

 ヨアンナは齢40代となっても、その品の良い美しさは衰えていない。

 未亡人に言い寄ろうと画策する男どもには事欠かなかった。

 その中には格好をつけ、自分のインテリジェンスな一面をアピールするため、共産圏の閉じた社会の外の聞き齧ったばかりの外国の話題を口にする輩も現れる。

 

 彼らは自由な外の国の話題に飢えていた。

 ヨアンナの食堂の外ではこの国で御法度な話題も、ここの中だけでは許される。

 さりげなく西側の音楽が流れ、西側のファッションを真似た労働者も散見された。

 

 そんな空気の中、イギリスやフランスの流行り歌や、「アメリカのコーラは旨い」だの、「ケネディはいい男だが、お坊ちゃまだね。」みたいなにわか評論家の客が多数湧いて出た。

 

 ある日そんな客の中に、何処から手に入れたのか「日本国憲法」の要約・ポーランド語版を見せびらかす男性客がいた。

 海外の政治や制度を研究する政府の諮問機関から流出したものらしい。

  

 当時東側指導部では諜報戦以外にもアメリカの動向に注目していた。

 アメリカとソ連。

 どちらも戦勝国のリーダーとして覇権を競っていたが、敗戦国と新たに得た衛星国の統治では苦労していた。

 その分野でアメリカに負けるわけにはいかない。

 

 そうした理由からソ連はアメリカの西ドイツと日本の統治のやり方には目を光らせている。

 それは政治・経済・社会制度など、多岐に渡っていたが、特に法制度は西側に対抗する立場上、神経をすり減らした。

 

 試行錯誤を繰り返しながらもソ連の意向に忠実に添い、尚且つ表面上は自由と人権に配慮した文言を散りばめた法律を制定させる。

 そのためには西ドイツと日本の法制度を研究する必要があった。

 

 その中のひとつに日本国憲法を研究した冊子があったという事だろう。

 ヨアンナの店に通う男どもが見せびらかす物の中には、いかがわしい書物などがいくつもあった。

 ヨアンナはそれらに興味を示さなかったが、日本の話題にだけは何故か関心を示す。

 その事に気づいたある客が、日本のものなら何でも良いだろうと持ち込んだものがそれだった。

 目論見通もくろみどおり、ヨアンナは目を見開いて興味をみせた。

「こんなもので良かったらアンタにやるよ。」

 そう言って得意げに渡した。

 どうせ彼には興味のない難解且つお堅い内容だったので、自分には必要ない物だし。

 

 ヨアンナは幾度となくその冊子を読み、何かを感じる風だった。

 多感な歳に育ったアダムはそんなときの母の様子に、

「一体どんな良い事が書かれているのだろう?

 聖書ですら、そんなに熱心に読んでいる姿を見た事はないのに。」

 そう思い、内容を知りたいと感じ始めた。

 

 母には日本での大切な思い出が沢山ある事は知っている。

 それとあの本は関係あるの?

 アダムはある日、母に聞いた。

「ねえお母さん、その本には何が書かれているの?

 僕にも読んで聞かせてくれる?」

 母はにっこり笑って応えた。

「この本にはね、お母さんがずっと憧れ、欲しいと思い続けていた事が書かれているのよ。」

「お母さんは何が欲しいの?僕だけでは足りないの?」

 母は言った。

「お母さんにとってアダムは命より大切よ。

 でもその愛するあなたとの暮らしを守り、幸せに生きていく道標がここには書かれているの。

 お母さんも、亡くなったお父さんもそのために戦ってきたのよ。

 この国の人たちがそれを手に入れるために戦い、命を落としたの。

 

 アダム、私の愛しい子。

 

 あなたの未来を明るいものにするために、お母さん達は戦ったのよ。

 分かる?

 あなたがこの内容を理解する日が来たら必ず読み聞かせてあげるわ。

 それまでしっかり勉強してね。」

 

 アダムは思った。

「チェ!やっぱり母さんは結局僕に勉強しなさいって言いたいんだな。」

 世の母親たちの共通する願いは、我が子がしっかり勉強する事だと悟るアダムだった。

 

 それから幾年か経過したが、アダムの母はその時の事を忘れていず、彼が15歳になって間もなく、あの冊子を読ませ感想を聞いた。

 残念ながらアダムは外国の憲法など、無関心であったようだ。

 

 母は云った。

「ほらね。だからしっかり勉強しなさいって言ったでしょ。」

 このときもアダムは心の中で顔をしかめ、「チェ!」と舌打ちをした。

 

 構わず母は云った。

「私たちの祖国は、永く外国に蹂躙じゅうりんされてきたわ。

 その事はアダムでも分かるでしょ?」

 アダムが頷くと、

「この国に自由は無いわ。

 役人に逆らうと怖い目に会うって知ってるわね。

 自分の考えを自由に言えず、正しい事を正しくできないのよ。

 それはね、私たちにその権利が与えられていないからなの。

 納得できない事があっても、国が決めた事には逆らえないのよ。

 

 でも、この本に書かれている内容はね、憲法と云って、その国の人たちの大切な権利と守るべき仕組みが決められ、国民に向かって約束されたものなの。

 母さんはここに書かれている文章を読むとね、涙が出るほど感動するの。」

「涙が出る程?そんなに素晴らしい内容なの?よくわからないなぁ。

でも、日本って戦争で負けたんでよ?

 だからその憲法も勝ったアメリカから押し付けられたって学校の先生も嘲っていたよ。」

 

 ソ連の衛星国となり果てた祖国ポーランドの先生が、生徒にそんな程度の見識しか示せないのがこの国の悲しい現実だと母は思った。

 

「ねぇアダム、先生にお母さんがこんな本を読んでいるなんて言ってはダメよ。

 悲しい事に、いつ密告されるか分からないのだから。」

「ウン、分かっているよ。

 社会科の勉強しているふりをして、先生に外国の法律と憲法について質問したんだ。

 そしたら先生は、祖国ポーランドが一番だってさ。

 僕はフーンって聞いていたんだけど。」

 

 何とも頼もしい先生だとヨアンナは思った。

 ヨアンナはアダムに日本国憲法に書かれている一節を読んで聞かせた。

「第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。

 また、国民は、これを濫用してはならないのであって常に公共の福祉のためにこれを利用する義務を負ふ」

とあるのよ。

これは人権保持の義務といって、人間が持つ固有の権利の歴史的な意義を保持するため、国民の責任を定めているの。分かる?」

 

アダムは首を横に振った。

ヨアンナはフゥ、とため息をつくと、

「アダム、お母さんはね、幼い頃からたくさん辛い目にあってきたわ。

 それもこれも、この国が外国から支配されていたせいなの。

 そういう苦しい経験や、悲しい経験をいっぱいしてきた私たち大人はね、みんなひとつの願いを持っているのよ。」

 

「どんな願いなの?

神様は叶えてくれないの?

僕が一生懸命祈ってもだめなの?」

 

ヨアンナは少し微笑みながら優しく諭すように云った。

「私たちの願いはね、幸せに暮らす事よ。

 一生懸命仕えれば神様はその願いを叶えてくださるかもしれない。

 

 でも、それを阻む理不尽な仕組みや、不正や悪意を持った権力は、自分たちの意思と力で排除しなければならないの。

 この国の悪の元凶は外国に支配されている事よ。

 だから私たちが幸せを掴むためには、まず戦い、勝ち取らなければならないわ。

『国が国民を統治するのではなく、国民が自らの意思で国を統治する』

 そんな国であるべきなのよ。

・・・・。そうねぇ、私たちの大切なものは、人が与えてくれたりするものでは決してないのよ。

 何もせず、待っているだけでは決して手に入らない。

 自分が努力して頑張って、時には戦って勝ち得るものなのよ。

 でもね、何も命を懸け力づくで争い、勝ち取れ!という意味ではないわ。

 時にはそういう事も必要なのかもしれないけれど、そんなことを言いたいのではないの。

 

 自分たちを怖がらせ、威張り散らす大きな力を持つ者たちに対しても、決して怯まず、自分の意思と信念を曲げず、その覚悟を相手に示す姿勢が大事だと思うの。

 私たちの人生や暮らしや希望や夢を実現する権利を、外国人が握る今のポーランドは悲しいし、間違っているわ。

 

 まず自分たちが頑張って掴み取るの。

 その後神様に幸せを願うべきだわ。

 お母さんはそう思うの。

 

 だからこの本を読んで感じるのよ。

 

 この憲法のこの条文は、その大切さを示しているわ。

 自分たちの権利って、そう簡単に手に入らないし、それを手に入れたからと云って、あとは無条件で保障され続けるものではないってこと。

 

 私たちにとって大切な自由と平等と人権は、自分たちが絶えず努力して維持させるものだって教えてくれているのよ。

 その自覚と覚悟を持ちなさいって言っているの。

 お母さんが経験してきた事はね、それを教えてくれたわ。

 人の権利が尊重され、守られてきていたら起きなかった悲劇を潜り抜けてきたの。

 だから例えこの憲法が外国から押し付けられたものだったとしても、彼らは必死で戦って得たものなのよ。

 

 戦いに勝って押し付けた国アメリカも日本の戦う姿を見てその立派で真摯な姿勢に、この国にはこのくらいの崇高な理念でも理解し、実現できるだろうと思って授け、託したのがこの憲法だと思うの。

 

「でもねお母さん、日本はやっぱりアメリカに負けたんでしょ?

だからこの憲法を押し付けられたんだよね? じゃぁソ連に勝てないポーランドは絶望だね?」

「どういう事?」

「だって日本はアメリカに負けて幸運にもこの憲法を押し付けられ国を統治しているけど、僕たちの国ポーランドは戦争に勝てないから人を奴隷のように扱うソ連に統治され、自由になれないんだよね?

ソ連は僕たちに良い憲法を与えてくれるどころか、虐めてばかりじゃない。

 それじゃ、やっぱり勝たないと良い憲法を望んでも無意味だと思うよ。

 僕たちの国は戦争に勝てる強い国にならないとダメなんじゃない?」

  

 

 

 (ここからは人を殺す、殺されるとのワードが多数登場します。ご注意ください。)

 

 

 

「確かに侵略してくる者に無力では、悲劇しか得られないわ。

 お母さんは沢山の人達が死んでゆくのを見ているのよ。

 自分の身を守るためには、侵略に負けないだけの武器が必要よ。

 それに侵略者を憎む気持ちも分かるわ。ただね、覚えておいて。

 人を憎むという事は、自分が憎悪の地獄に堕ちるという事なのよ。

 人を憎み続ける姿って悲しく醜いものよ。

 だからね、憎しみに駆られて戦ってはダメ。

 憎しみに自分が取り込まれないように注意しなさいね。

 それからチョット考えてみて?

 武器を持って戦うにしても自分の身を守る武器って、本来は人を殺めるための器具や機械なのよ。

 自分を守ると云いながら、相手を殺すためのもの。

 自分を守るためなら、それを使って相手を殺しても良いの?

『諸刃の剣』って知ってる?そのまんまの意味のほかに、そういう意味も隠されていると思うの。

 母さんはね、今までたくさんの人が身を守る武器を持たなかったがために殺された場面を見て来たわ。

 ポーランドの同胞も、多くのユダヤの人たちも。

 ずーっと昔の歴史には、インカ帝国がスペインに滅ぼされているわ。

 アフリカの人たちが奴隷として売られたのも、自分の身を守る術を持たなかったからよ。

 じゃぁ、武器を持てば良いの?

 自分の身を守るために、人を殺すのは正しい事なの?

 お母さんは違うと思うの。

 正しい人殺しなんて絶対ないわ。

 人殺しは悪よ。

 

 お母さんは昔、目の前で何人も人が殺されるのを見て来たって、言ったわよね。

 

 誰だって殺されたくはないわ。

 

 だから反対にその殺そうとした人間を殺さなければならない時、アダムならどうする?」

「そりゃぁ、殺されたくないもの。他に方法が無い時は相手を殺すしかないと思う。

 だってそうでしょ?」

「そうね、やむを得ない場合はそうするしかないわね。

 でもねアダムを殺そうとした悪い人でも、その人には産んでくれた母がいるのよ。

 たくさんの人をあやめ続けた凶悪犯でも、息子が死んだら悲しむものよ。

 やむを得ず殺されなければならなかったとしても、母は悲しむの。

 だから例え正当防衛であっても、凶悪犯を死刑にするのも、やむを得ないのかもしれないけど、正しい事だとは言えないわ。」

「じゃぁどうするの?」

「社会の安寧を維持するために必要だったとしても、やむを得ないというだけで、正しい事とは思ってはいけないと思うの。

 やむを得ないから、他に方法が無いから、凶悪な相手を殺して良いわけではない。

 でもそうするしかなかったとしっかり受け止めて、そういう事態を容易に招かないよう、責任を持って日頃から最善の努力をすべきだわ。」

「でも例えば僕たちの国ポーランドがいつも虐げてくるソ連をやっつける事は、みんなの願いでしょ?

 でも相手が武器を使って暴力をふるってくるのに、自分たちは武器も持たず、抵抗もできないのなら、正しい事なんて不可能だし糞くらえだ!!」

「糞くらえ!なんて汚い言葉ね。

 母さんは何も抵抗できる手段を持つなと云っているんじゃないわ。

 正しい事とやむを得ない事は同じじゃないって知っておいて欲しいの。

 誰だって自己防衛の本能はあるわ。

 相手がいきなり自分に向かって拳を振り上げてきたら、咄嗟に自分の腕と肘で頭を守ろうとするでしょ?

 やむを得ない時はそうするしかないの。

 だからソ連がいつも傍若無人な振る舞いをしてくるなら、私たちはそれを撥ね退ける力を持つべきではあるわ。

 でもね、その力とは相手を殺す武器だけではないと思うの。

 決して負けない強い意思を皆が持つ事が一番の武器よ。

 それに次いで必要なら、銃を取らなくてはならないわ。

 でも何度でも云うけど、自分にも相手にも生んでくれた母がいる事、自分が死んだら悲しむ人がいるっていう事、それを忘れてはいけないわ。

 アダムが銃を取らなければならない時があるとしたら、相手から銃口を突きつけられた時よ。

 でも世の中の母親は皆んなそう、自分の子供に銃なんか持ってもらいたくないの。

 喜んで我が子を戦場に送り出したいと思う母親はいないわ。

 できれば戦わないで逃げて欲しい。

 でもそうすると残った家族たちに悲劇が襲うし・・・。

 だから悩むの。

 戦争はね、最後の手段。覚えておいて。

 

 それから相手に対抗するために武器を持つのも、自分だけが背伸びして持とうとしてはダメ。

 分不相応な武器を無理して貯め込んだら、人は無理した分、使いたくなるものよ。

 むやみに使ってはいけない物を必要以上に持ってはダメ。

 相手に侵略されないように持たなければならないにしても、自分だけで対抗するのは間違っているわ。」

「自分ひとりじゃダメって、それじゃぁどうしたら良いの?」

「それはね、同じ価値観を持った多数の隣国と手を結ぶのよ。

 自由と平等と人権を大切にする価値観を持った国々と協定を結び、お互いに助け合うの。お互いが相応の負担をして最低限侵略から守れる武器を持ち、備えるの。

 備えとはね、冷静になって対処する事よ。

 武器だけではなく、意識や連携だけでもなく、冷静に情報を分析する力もなきゃダメ。

 アダムの父は情報将校だったって知っているわよね?

 相手の状況を調査して冷静に分析して対処できなきゃ、備えたとは言えないわ。

 お母さんはアダムにもお父さんのように、冷静に身の回りを分析して対処できる人になって欲しいな。

 だから今、世の中全ての大人たちが、自分達の経験と教訓を活かして、過ちを避けるあらゆる努力をすべきだわ。

 

 アダムには人の願いが分かる大人になって欲しい。

 そしてその願いを叶えるために頑張る人になって欲しい。

それがお母さんの願いよ。

 

 

 だからそういう価値観を謳った日本の憲法は素晴らしいと思うの。

 但し、私たちの祖国ポーランドの現状では、日本の憲法第9条(戦争放棄)は残念ではあるけど、そぐわないと思うわ。

 敵を作らない努力をすべきだけど、現実的に今私たちポーランドを支配するソ連は危険すぎる脅威なのだから。

 私たちはソ連から完全に独立し、私たちの理想の憲法を持つべきよ。

 そのために頑張ってきたし、アダム達の世代にも受け継いでほしいの。

 でも、もう一度言うけど、どんなに素晴らしい憲法を持っていてもそんな理想を造り維持するのは国民よ。

 ひとりひとりが意思を持ち、国を作るのは国民なの。

 私たちが持つべきものはその精神だってこと、アダムにも分かって欲しいわ。

 

 だからあなたも、もう一度この憲法の条文をよく読んでみて。

 人類が永く戦いかち得た理想と理念を、憲法という形で表した国民に対する最高の保障だって分る筈よ。

 母さんが幼い頃滞在した日本という国はね。

 そう言う憲法がとっても良く似合う国なの。

 ホントよ。

 あなたにも見せてあげたいわ。

 

 今お母さんがアダムに云って聞かせたのは、とても大切なことよ。

 これを伝えるためにお母さんは一度死んでいるのに蘇ったの。」

 

 「エッ?一度死んだってどういう事?」

 「何でもないわ、ただの言葉の綾。気にしないで。」

 「????・・・・」

 

 良く分からないが・・・・とにかくアダムは再び渡された冊子を内容が理解できるようになるまで何度も読み返した。

 そしてその内容が理解できるようになってからは人が変わったように、熱心に勉強するようになった。

 

 

 

          つづく

 


『シベリアの異邦人~ポーランド孤児と日本~連載版 第32話「アレックとアダム」

2023-02-15 09:26:57 | 日記

 ポーランド北部のグダニスク(ドイツ名ダンツィヒ)に移り住んだヨアンナ一行。

 移住後彼女は息つく間もなく、生活の糧を得なければならない。

 青年会支援者たちの力添えもあって、街の片隅に小さな食堂を開くことができた。

 

 そこは彼らの憩いの場となり、近くの造船所で働く工員たちも客として徐々に増えてきて、何とか生活の目途が立つくらいの繁盛を見た。

 

 ヨアンナは生きるため、我が子を育てるため必死で働いた。

 

 

 一方ワルシャワでは、ヨアンナ宅でソ連の治安部隊に巻き添えの銃撃を喰らい瀕死の重傷を負っていたアレックも、何とか一命をとりとめる。

 ようやく体力も回復し自由に動けるようになると、エミルやハンナの元に元気な姿を見せたくなる。

 そう思うといても立っても居られない性格のアレックは、直ぐ様ヴェイへローヴォ孤児院で働くエミルたちに逢いにやってきた。

 

 もちろんヴェイへローヴォ孤児院出身の昔からの仲間たちからは、愛犬が飼い主の帰りを歓待する時のように、病み上がりの彼をモミクチャにして喜んだ。

 「痛い!痛い!!痛いぞコラ!!」

 それでも歓迎の儀式は止まない。

 アレックは自分をここまで歓迎してくれる仲間たちの心根が嬉しくもあり、あまりに手痛い歓迎ぶりに、訪れた事をちょっと後悔もした。

 

 そして落ち着いた頃、ヨアンナ達の住むグダニスクにも顔を出す。

 すると、ここでもまた同様の凄まじい喜びの声と手荒い歓迎を受けた。

 いつも冷静でおしとやかなヨアンナでさえ、嬉しさのあまりモミクチャにする。

 

 ヴェイへローヴォ孤児院出身者の伝統って、こうだっけ?

 

 その日のヨアンナのお店は急遽閉店し、アレックに一緒についてきたヴェイへローヴォ孤児院の仲間を加え、盛大な歓迎の宴が遅くまで催されたのは言うまでもない。

 

 そういう激しい歓待を受けるのが、アレックの人柄だった。

 

 アレックはヨアンナの息子アダムを見て、

「暫く見ない間に大きくなったなぁ!」と大げさに驚く。

 幼いアダムもそんなアレックおじさんが大好きだった。

 アダムは皆んなの希望の星。

 そのそばで絶えず目を離さず支え続けてくれたエヴァ夫妻と幼馴染のエミリア。

 可愛い娘エミリアは、ヨアンナを「おばちゃま」と呼び、かけがえのない息子アダムの一番の友達に成長していた。

 

 腕白だったアダムも次第に聡明な少年に成長し、父親の面影が随所に見られた。

 エヴァ一家や周囲の手厚い支援もあり、人並みに学校にも通うことができた。

 アレックも時々フラッとやってきて、アダムにお土産やら、昔ばなしをする間柄になり、殊更可愛がる。

 アダムはアレックおじさんと呼ぶ程の仲になるのは自然の流れだった。

 

 (ここまでのくだりは、次話にてもう少し詳細に紹介するので暫しおまちを)

 

 

 

 *でも勘違いしないでね。

 アレックもアダムの母ヨアンナも、勘繰る仲には永久にならないから。

 

 

 

 

 

 

    アダム溺れる

 

 

 

 ある夏の暑い日、アダムは学校の休みを利用して、仲の良い友だちと近くの海岸に繰り出し遊んでいた。

 友のひとりが手づくりのビーチボールに見立てた皮製の粗末な大きめの球を持参する。

 その日はバルト海沿岸にしては珍しく30℃近い猛暑日だったが、南の陸から北のバルト海に向かって吹く風が流れる日でもあった。

 数人で釣りをした後ボール遊びに興じていると、遊びの輪から離れ風に流されたボールが、波打ち際へと転がっていった。

 アダムは咄嗟に追いかけ、寄せては引く波の中から海へと夢中で走り、ザブザブと波をかき分け入ってゆく。

 しかしボールはどんどん遠くの沖の方に流され、アダムがどんなに追いかけても追いつけない。

 やがて気がつくと、気温の割に驚くほど冷たい海水がアダムの胸に達し、怖くなってボールを追うのを諦め、岸に戻ろうとした。

 しかし陸から沖に向かって吹く風は向かい風になり、どんなに岸に戻ろうともがいても、もがいても、押し戻されていく。

 その様子を浜で見ていた友たちは、当初はすぐにボールを取り戻し、岸に帰って来るものと楽観していた。

 だがいつまで経っても岸に戻れないアダムの様子に、次第に不安になってくる。

 

 アダムは体力を消耗し疲れ始めていた。

 疲労が表情に現れる。

「ああ、アダムがおぼれる!」

 初めて事の重大さに気づいた友のひとりが、近くにいた大人に助けを求めた。

 たちまち人が集まり、近郊の漁師が使う小さな磯舟で助けに向かった。

 その磯舟でさえアダムを救助し岸に戻るとき、その向かい風の強さにオールを押し戻されるほどだった。

 しこたま海水を飲み、ぐったりしているアダムに、助けた漁師が

 「危なかった・・・。

 この俺の舟まで流されるかと思った!

 九死に一生を得られて良かった、良かった!

 なぁ坊主、もうあんな向こう見ずな事、やるんじゃないぞ!」

 

 「ありがとう・・・。ごめんなさい。」

 アダムは無事に戻れて安堵したのか、まだ肩で息をしながら、うつむき加減に小声でそう言った。

 

 しかし海水を飲み溺れかけた者は必ずと言って良い程、重い病気に罹ったような脱力感と、悪寒の症状に陥る。

 具合が悪くて立っている事も、座り続ける事もできない。

 肩から大きめのタオルを掛け、30分以上ぐったりし、紫色に染まった唇でガタガタ震えながら目の前の焚火で暖を取る。

 アダムが元気を取り戻し、家に帰れるまで回復するのには小1時間以上はかかった。

 心配して付き添ってくれた友たちもそれぞれの家路についたときは、すっかり日が暮れていた。

 

 アダムが家に戻り、事の一部始終を聴いたヨアンナは、意外にも落ち着いている。

 取り乱したり喚くこともなく、最後まで黙って聞き、間をおいてからこう言った。

「アダム、今あなたはどう思っていますか?」

「心配かけてごめんなさい。」

 蚊の鳴くような声でそう言った。

「助けてくれた人に、ちゃんとお礼を言いましたか?」

「うん、僕、ちゃんと言ったよ!」

「アダムは母さんにとって大事な、大事な息子。

 お母さんだけでなく、天国のお父様もいつもあなたを見守ってくれていることを忘れないでね。

 きっとよ。」

 

 翌日お店を開ける前に、ヨアンナとアダムは改めて助けてくれた漁師を探し当て、丁寧にお礼を言った。

 

 アダムは幼い少年の心に深く刻んだ。

 もう二度と軽はずみな行動はとるまいと。

 

 エミリアはそれをきっかけに、アダムの行動を注意深く見守った。

 もちろん母エヴァからの言いつけではあったが、本当にそれだけか?と思うほど積極的にそばを離れず、いつも監視し関りを持とうとする。

 アダムが「うるさいなぁ!」と煩わしさを露わにするほど付きまとった。

 

 お陰で小学校・中学校で

「エミリアはアダムの奥さんかぁ?」

と囃し立てられ、誰もが認める不動のカップルと見なされた。

 

 恥ずかしさから逃げるアダムと、追うエミリア。

 

「あぁ、青春だなぁ。」

 と誰もが思った。

 

 

 

   つづく


『シベリアの異邦人~ポーランド孤児と日本~』連載版 第31話 「国がソ連に飲み込まれる・・・」

2023-02-11 04:00:00 | 日記

 ここからは戦後ポーランドの歩みを紹介しながら展開していきます。

 場合により物語が時系列から事柄ことがら 別に外れる事、前回のストーリーからも少しながらさかのぼったりと、ややこしくて分かりにくい事をご容赦ください。

 

 

 

 ソ連進駐後のポーランドの歩み

 

 第二次世界大戦終結後の1945年、ロンドン亡命政府と共産主義会派のルブリン委員会が合同、国民統一臨時政府成立。

 しかしソ連赤軍が駐留、臨時政府を傀儡政権化した。

 亡命政府系要人は再び亡命するか、逮捕・処刑された。

 

 戦後まもない1945年当時、すでにソ連は西側連合国に対する表向きのポーズで「社会主義へのポーランドの道」の標語や「プロレタリア独裁はポーランドでは必要ない」との発言が強調され、柔軟路線を追求した印象を与える事に腐心した。

 

 表向きの民主主義。

 

 しかし戦後ポーランドは特に混乱を極めた国であった。

 

 国土の東側三分の一をソ連に不当にむしり取られ、ドイツ領の西側三分の一を宛がわれるという不条理なソ連の都合に苦しめられた。

 つまり国土の東の3分の1が削られ、西に移動したという事。

 

 ポーランドは農業国である。

 農民にとって土地が全て。代々受け継がれ大切に育ててきたその肥沃な土地をソ連が奪い取る。

 東の農民は土地を取り上げられ、西の新たな土地へ行けと命令された。

 

 でも西はドイツ人農民が既に入植している土地である。

 

 そのドイツ人農民を追い出し、自分たちが入植する?

 それにはあまりに諸問題が多すぎ、抵抗と軋轢あつれきと混乱と憎しみが交差した。

 

 どれだけの農民が血の涙を流し、どれだけの家族が飢えと死に瀕した事だろう?

 

 戦後すぐのポーランドは、ソ連及び西側各国からの引き上げ難民や兵士、生き残りのユダヤ人難民の帰還などで、人口爆発現象に見舞われていた。

 

 農地を奪い合い、生活不安から救いを求め、ルブリン農民党が支持を集めるなど、混乱の極致に達していた。

 

 ルブリン農民党?

 そんな政党が存在するのは西側世論対策で民主的と人権が表面上保障され、複数政党制が認められた事情があったから。

 

 その時西側同盟諸国はそんな欺瞞ぎまんに目をつむり、何もせず手をこまねいていたのか?

 

 何も考えず、何も感じていない訳ではなかった。

 

 スターリンはヤルタ会談にて大西洋憲章を認め、署名しているのだ。

 つまり赤軍占領下諸国に於ける民主的選挙の実施を約束し、解放欧州に関するヤルタ宣言にも署名している。

 

 それが例え嘘っぱちの署名でも、表向きだけのポーズでも、形だけは約束通りヤルタ宣言を遵守しているのだ。

 

 スターリンは実に狡猾に動き回り、西側を手玉に取った。

 何も手出しができない西側諸国は苦悩する。

 

 見せかけの民主主義、見せかけの自由だと分かっていながら、巧妙な偽の民主的選挙の実施を傍観し、着々と完成させるソ連の支配をみすみす認めていかざるを得なかった。

 

 そんな訳でポーランドには新しい政党が存在したのだった。

 国民の不満爆発を抑え従わせるには、不満の受け皿が必要。

『雨後の竹の子』のように誕生した政党たちに対し、ソ連当局は目を光らせながら、ソ連共産主義支配にとっての不穏分子を容赦なく切り捨てた。

 

 ポーランドには、自由も人権も尊厳も許されていない。

 あるのはソ連の影の支配だけ。

 1948年並いるそんな政党たちを抑え、ソ連が黒幕のポーランド労働者党、ポーランド社会党左派が合同し、ポーランド統一労働者党(PZPR)が成立し政権を掌握、一党独裁体制に移行した。

 

 1952年共産主義を基調とした憲法制定、国名をポーランド人民共和国に改め新たなマルクス・レーニン主義、共産主義国家が誕生した。

 見た目は民主主義を標榜するポーランド新国家を建設。

 

 それはソ連の衛星国に過ぎなかった。

 

 そんな国の国民に許される選択肢は極めて少ない。

 あるのは自己保身のために、『見ざる』『言わざる』『聞かざる』を徹底し、権力に対し従順に過ごす『ふり』を全うする知恵を活かす事だけである。

 その中で許されたお目溢おめこぼしが自分達に与えられた全て。

 それを工夫して生きてゆく。

 そこから少しでも逸脱し、反抗の炎の目を燃やしたら、あるのは収監か強制労働、処刑のいずれかが待っていた。

 

 事実、おびただしい人々が、その法則を身をもって経験している。

 

 息のつまる傀儡かいらい・独裁政治。

 しかし、そんな緊張した生活に人間どれだけ耐えられるのだろう?

 

 

 

  ワルシャワ~瓦礫からの復興~

 

 

 

 

 1945年ワルシャワの全建物の84%が瓦礫と化していた。

 そのうち住宅が7割超、場所にもよるが、中心部はほぼ壊滅状態だった。

 それに伴い、人口も戦前は100万都市だったのが、二度にわたるワルシャワ蜂起とソ連の進駐後、わずか数千人にまで減っている。

 

 ワルシャワの復興などは、誰の目にも不可能とみられていた。

 首都をウッチに移す計画さえ浮かんでいたほど。

 

 だが市民の熱意と不屈の闘志は不可能を可能にし、奇跡の復活を遂げるまで努力は続いた。

 1945年2月3日首都再建を決議、2月14日には首都復興局が編成された。

 この動きは異例であり、無謀とも思えた。 

 

 だってソ連軍がワルシャワに進駐したのは1月12日。

 それから僅かほぼ20日後に首都再建を決議?そして首都復興局を編成?

 西側諸国のソ連に対する目を、ソ連がどれだけ気にしていたのか?

 更にポーランド人のワルシャワ市街の復活に対する熱意が、如何に大きかったか?

 ソ連はポーランド人の自由を弾圧しておきながら、同時に瓦礫からの元通りの復興は承認したのだ。

 

 当時のヨーロッパはほぼ全域が戦場であり、破壊された都市は数え切れない。

 

 復興の動きが各国に見られたと云っても、それは限定的復活でしかない。

 歴史的な建造物の再建のみがその対象なのだ。

 街ごと蘇らす再建計画などは、人類が経験したことのない未知の世界である。

 

 しかし彼らはその偉業をやってのけた。

 

 『戦時中に破壊された歴史的建造物、しかもそれが我が祖国ポーランドの首都であるならば、街全体の再建が当然である。

 国家とその文化的建造物は一体なのだ』

と考えていた。

 

 それがポーランド人、とりわけワルシャワ市民の気概だった。

 そして当局により1949年の社会主義リアリズムが公認芸術とされるまで、自由な美的感覚の建築物の再建が許された。

 (逆の言い方をすれば、当局が推奨する社会主義リアリズムの登場即ち、それ以降の自由な美的建築物の建造は不許可になったという事。)

 破壊された中世などの歴史的建造物に施されていた壁の彫刻などの再現ができないなら、意味がないではないか!

 

 

 1952年、復興事業の第一段階終了、首都復興局は解散する。

 しかしその後も引き続き再建作業は継続され、その偉業は後にユネスコの世界遺産に登録されたほどである。

 

 だが社会主義に於ける土地・建物の個人所有権の矛盾などが絡み、元の所有者に返還されないなどの問題もはらんでいた。

 そうした諸問題を抱えながらも再建は続いていたのだった。

 

 そんな最中さなか、ワルシャワが再び国際舞台に登場する出来事が起きた。

 

 1955年のワルシャワ条約締結である。

 実はワルシャワ条約と銘打った条約は大まかに3つある。

 ひとつ目は1920年、ポーランド第二共和国とウクライナ人民共和国に結ばれた条約。(ポーランド・ソビエト戦争の戦後処理)

 ふたつ目がこの物語の1955年のワルシャワ条約機構を成立させた条約。

 三つ目が1970年ドイツ連邦共和国(西ドイツ)とポーランドが結んだ国境画定の条約である。

 

 1955年当時のワルシャワはまだ再建途中であるのに、何故条約締結の舞台に選ばれたのか?

 それはスターリンの考える演出だった。

 ワルシャワを首都とするポーランドの力強い復興の姿を西側に見せつけ披露する。

 それこそが国際舞台でのソ連を中心とした東側同盟の成立、その高らかな宣言の舞台として脚光を浴びる最適な場所と云えた。

 

 実は1953年スターリンは構想半ばで死亡している。

 でも死した後もその遺志は受け継がれ、西側自由主義諸国の北大西洋条約国に対抗したワルシャワ条約機構が成立、歴史に名を残したのだった。

 

 しかしそれは、ポーランドが政治・経済のみならず、軍事面でもソ連に完全支配されていた事を意味する。

 

 ワルシャワを破壊したのは、ドイツだけではない。

 ソ連も同じだけワルシャワを破壊した悪魔なのだ。

 (ソ連は直接手を下していないが、蜂起を呼びかけておきながらワルシャワ市民を裏切り、一切手を貸さず蜂起をわざと傍観した結果、ドイツの戦闘による破壊の増長を招いたことになり、市民の犠牲は増え、街は瓦礫の山が拡大した。)

 

 その事をワルシャワ市民たちはどう思っていたのか?

 もちろん愉快であろうはずはない。

 歴史に名を残した条約を誇りに思うはずもない。

 

 不満は常に燻っていた。

 

 

  

 一方ヨアンナとアダムはその間、どうしていたのか?

 

 ヨアンナとアダムのワルシャワ脱出の逃避行に、当然の如くエヴァとミロスワフ、エミリア一家もついてきた。

 今ではもう彼らはセット(?)なのだ。

 一行はポーランド北部のグダニスク(ドイツ名ダンツィヒ)に移り住む。

 その地は亡き父フィリプが情報将校として赴任していた当時の拠点に近く、ヨアンナの第二のふるさとヴェイへローヴォ孤児院にも比較的近い自由産業都市であった。

 (ヴェイへローヴォ孤児院に近いと云う事は、そこに居る青年会の旧友たちからの支援も得られ易く、都合が良いと云う事。)

 だがここもドイツ・ポーランドの争いにより、旧市街を中心に廃墟が広がる爪痕を残していた。

 

 それでもさすがに中世からの求心力が残る中心地。

 復興の速さはワルシャワ同様、目を見張った。

 

 特に古くからある生産拠点ダンツィヒ造船所を修復、レーニン・グダニスク造船所として生まれ変わり、いち早く賑わいをみせていた。

 

 ヨアンナ達がそんな活気あふれる地を安住の地として選択するのは、ごく自然な事だった。

 

 

 

 

       つづく

 

 

 


『 シベリアの異邦人 ~ポーランド孤児と日本~』 連載版 第30話「ヨアンナが生きる別の世界」

2023-02-09 12:21:29 | 日記

第29話で殺害されたヨアンナの別の運命に視点を移してみよう。

 

 私たちの生きる世界は普通ひとつだけと認識しているが、実は微妙に異なる無限の世界が存在するとの説がある。

『パラレルワールド』

 聞いた事があるだろう。

 

 例えば自分の人生だけとっても、ほんの少しずつ違う別の運命を辿る別の人生が別の世界では存在する。幾重にも、幾重にも無限に存在するというのだ。

 

 例えばある時、落としたハンカチを拾おうとして交通事故にあったり、または別の(隣の)パラレルワールドではそれが回避できたり。

 ほんの小さなきっかけの違いで、無数且つ別々に存在する世界がある事を。

 微妙に、でもその先は大きく変わる別世界が何重にもあることを踏まえてほしい。

 

 その前提で今後の物語は始まる。

 

 

 

 

 

             戦後編

 

 

 

 ヨアンナとアダムの住むささやかな家に赤軍兵の一団が踏み込もうとした少し前、ヨアンナはフィリプの死を知らされず、普段と変わらぬ日常を過ごしていた。

 アダムは幼馴染のエミリアと遊ぶため、隣のエヴァの家にいる。

 エヴァはアダムとエミリアが仲良く遊ぶ様子を眺めるのが何より楽しい。

 一方ヨアンナは、10日前に越してきたばかりの家で、やり残していた荷物の収納作業に忙しい。

 

 そんな時、エヴァの家のささやかな庭に咲く花の周りに、1匹の蜂が飛んでいた。

 アダムはエミリアと遊ぶのに夢中で気がつかない。

 アダムが小枝を打ち振りながら無邪気に歌っていると、小枝にぶつかりそうになった蜂が怒ってアダムの腕を刺した。

 

 この事故は元の世界では起きていない。

 何故ならアダムが振った小枝の振りは、元の世界ではほんの1秒程のズレがあり、振りが数ミリだけ小さかったから。

 蜂がそばを飛んでいた時のその数ミリ・数秒の違いが、アダムを襲い針を刺すか、何事も無く通り過ぎるかの運命の分かれ道になった。

 

 元の世界ではアダムが何事も無く過ごしていたため、ヨアンナは自宅に居続けた。

 そしてソ連の治安部隊の急襲を受けた。

 

 でもこの世界では、アダムは蜂に刺され火がついたように泣き出す。

 それを見たエヴァが慌ててアダムを抱き上げ、隣のヨアンナの元に。

 ヨアンナとエヴァは近くの医者に診せるべく、家を出た。

 

 医者のところに向かう直前、先に玄関を飛び出したエヴァの前に、よく見知った隣りのおばさんがいた。

 おばさんは「そんなに慌てて一体どうしたの?」と聞いてくる。

 エヴァが簡潔に事情を話すと、「分かったわ、ようがす!私が留守を守っていてあげるから、早く行ってらっしゃい!」という。

 「ありがとう、おばさん!悪いけど頼んだわね。」

 と言ってアダムを抱えたヨアンナと急足で出ていった。

 

 そのタイミングで、アレックがヨアンナ宛てに(アダムのための)差し入れを持ってやってきた。

 つまりその時ヨアンナの家には、肝心のヨアンナ本人は不在で、急に留守を頼まれた近所のおばさんと、ヨアンナたちと入れ替わりに、差し入れ持って到着したばかりのアレックのふたりだけが居たことになる。

 

 まさにその直後、ソ連治安部隊の兵士たちが乱入してきたのだった。

 

 ロシア語の大声で乱暴にわめくひとりの兵士。

 「ここは国家反逆罪の大罪人フィリプの家か?ただ今から家宅捜索をする!!

 抵抗するものは容赦なく射殺する!!お前たち家の者は直ちにこの部屋を出ろ!」

 

 いきなり乱入したロシア兵の傍若無人な態度に、いきり立つ留守番のおばさん。

 

 確かにロシア語のわめきは聞き取りにくい。

 何言ってるか分からないけど、いきなり乱入して喚き散らすなんて、傍若無人過ぎるでしょ!おばさんはそう思い、メラメラと腹が立った。

 気持ちは分かるが、だからと云って果敢にも言い返すか?

「何なのアンタ達は!!ここはヨアンナの家よ!ここのあるじが留守中の家に勝手に入ってこないで!!出て行きなさい!!!」

 

 彼女には怖いものは無いのか?

 

 ポーランド語をあまり解さないロシア兵は向き直り、おばさんを睨む。

 そこにアレックが

「どんな用か知りませんが、お尋ねのヨアンナは今ここに居ません。

 出直してください。」と云う。

 アレックからの差し入れを受け取ったばかりだったおばさんは、布のかかったパイの皿を持ちながら再度

「出て行きなさい!!」と叫ぶ。

 そのパイの皿の淵から黒い金属が見える。

 それは只のパイを切り分けるための器具に過ぎなかったが、たまたまそれに目が行ったロシア兵には銃に見えた。

 

 彼はこの状況を冷静に判断する能力に欠けていた。

 と云うより、相手が誰であろうと、それが何であろうと、自分に危険や疑問を感じたら躊躇なく平気で引き金を引くたぐいの雑で冷酷な人種だった。

そして咄嗟にこう思った。

 (あの女の持つ布の中身は何だ?銃じゃないのか?えぇい!面倒くさい!何であろうとかまうもんか!ホントにこいつらはイラつくゼ!どうせポーランド人だろ?目障りなこいつらなんぞ始末して、捜索は終了だ。)

 

 それだけの身勝手な発想だけで銃を乱射した。

 その後、何の事後調査もせず、

「さぁ、帰るぞ!!」

 と云って引き上げた。

 

 

 

 おばさんとアレックはそれぞれ数発づつ銃弾を受け、アレックは意識不明の重症、おばさんは即死だった。

 

 

 医者の手当を受け、我が子を抱きかかえ帰宅したヨアンナとエヴァ。

 何も知らずドアを開けると、血の匂いと遺体などが散乱している。

 血まみれのその惨状に、何が起きたか理解できないまま途方に暮れる。

 

 先程の銃声と叫び声を聞いていたお向かいに住む近所の人が何事かと窓の外を覗き、ヨアンナの家を急襲したロシア兵数人が家を出るのを目撃していた。

 人をあやめても平然とその場を去るその後ろ姿に、様子をうかがっていたおかいさんはすくみ上った。

 

 ただ立ちすくむヨアンナとエヴァ。

 

 何が起きたのか?

 詳細も分からないまま立ち尽くしていると、隣人がやってきてソ連兵の仕業であることを伝えた。

 

 またしてもヨアンナの身辺で起きた悲劇。

 隣のおばさん、お留守番なんかさせて本当にごめんなさい!!

 その次にうつ伏せで血塗れの男性に改めて目をやると、

 「まぁ!アレック!!アレックじゃない!アレックまでどうしてここにいたの?

 あぁ、まだ息があるのね・・・・どうか助かって!!どうか・・・どうか助かって!!」

 

 おお、神様!!

 

 お二人に申し訳ない。

 

 私はどうしたら良いの?

 何てお詫びしたらよいの?

 

 たちまち近所の人々が集まり、アレックをにわか作りの担架に乗せ焼け残った病院に搬送、おばさんのご遺体の搬送等を手分けして粛々と進めた。

 その辺は市民蜂起の中で鍛えたれた手際の良さが役立った。

 

 

 

 そしてその翌日、青年会からミロスワフを通じ、更に残酷な追い打ちをかけるように、ひと月前の銃撃戦でフィリプが死亡したとの情報が伝えられる。

 

 ヨアンナは言葉を失った。

 もう声が出ない。

 立ち尽くすが、力が入らない。

 眩暈がする。

 現実と乖離した、歪んだ室内に居る気がする。

 アレックの状態も気がかりだが、その上夫のフィリプが死んだなんて・・・。

 

 エヴァが黙ってヨアンナを抱きしめる。

 静かな、しかし止めどもなく続く嗚咽おえつ

 

 どれだけの時間そうしていたのか?

 でも悲嘆にくれている場合ではない。

 

 ソ連兵がまた来る可能性がある以上、ただちに逃げなくてはならない。

 エヴァとミロスワフはヨアンナを説得した。

 ここは危ない。ただちにワルシャワを去り、安全なところに身を隠すべきだ。

 

 でも何処に?

 

 青年会組織の行動能力はまだ死んでいなかった。

 

 すぐさま逃亡先を手配する。

 ヨアンナとアダムはエヴァ夫妻に促され意を決した。

 

 ヨアンナにとって苦渋の決断をした。

 たまたま私の家にいただけで犠牲になってしまった隣のおばさんとアレック。

 本当にごめんなさい。

 神様、せめて一命をとりとめたアレックだけでも助けてください。

 そして再び元気になり復活させてください。

 

 アレック、あなたがこんな状態なのに、そばにいる事ができない私を許して。

 必ず元気になって、その姿を見せてくださいね。

 あなたの笑顔をまた見られる日を心待ちにしています。

 

 それまでさようなら。

 

 夫フィリプと暮らした短い間、苦しいけど幸せだったわ。

 

 そんな思い出深い旧市街と、戦乱を避け移り住んだ郊外。

 ずーっと外れの僅かに残った建物や、徹底的に破壊された廃墟の地ワルシャワを去った。

 

 後ろ髪を引かれながら。

 

 

       

        つづく

 

 


シベリアの異邦人~ポーランド孤児と日本~連載版 第29話「新たな征服者」

2023-02-05 02:17:05 | 日記

 1944年蜂起終息目前の10月のある日、ヨアンナは体調の異変に気付いた。

どうやら妊娠したようだ。

 

  ヨアンナはフィリプに告げると、フィリプはただ無言で見つめ続けた。

 

 もしかして望まれない子供だった?

 ヨアンナは一瞬不安になった。

 しかしよく見るとフィリプの頬には一筋の涙が流れている。

 「ありがとう!ありがとう!ヨアンナ!!ありがとうございます神様!!!」

 思わず天井を見上げ、ヨアンナと神に感謝した。

 

 そしてそっとヨアンナを抱きしめ、いつまでもいつまでも抱擁する。

 

 その翌朝からフィリプは人が変わった。

 どこがどう変わったのかうまく説明できないが、男は幾度か脱皮の機会が訪れる。

 まさにフィリプはその時だった。

 自分の子が生まれる!信じられない!!

 当然だが実際に出産を経験する女性と違い、男には赤ちゃんが生まれるという実感を体験する本当の意味での機会はない。

 

 でも個人差はあるが、男にも父親になるという実感を掴む瞬間がある。

 彼にとって我が子の妊娠を告げられた時がその時だった。

 蜂起が失敗であったと知る悲惨な時期。

 自分も妻もいつ命を落とすか分からない。

 でも命に代えても守りぬこうとする本能的な決意と覚悟が生まれた。

 

 やがてワルシャワ包囲戦は生き地獄の終焉を迎える。

 そんなおびただしい数の生と死が隣り合わせに混在する状況の中で、ヨアンナが妊娠したという一条の希望の光が周囲に差し込む。

 あの激烈な飢餓と戦闘による劣悪な生活環境に耐え、ヨアンナのお腹の中の子は奇跡的に順調に育った。

 狂喜乱舞するフィリップ。

 その姿はかつての日本への冒険飛行を成功させた英雄のそれからは想像できないほどの、未来のマイホームパパの素養を垣間見せる。

 これ以降フィリプと過ごせた時期が、ヨアンナにとっての至福の時だったと云えるのかもしれない。

 

 だがそんな明るい一家の未来の幸せを蹴散らすように、またも暗雲が立ち込めた。

 ワルシャワ市民がドイツ軍に降伏したすぐあとの1945年1月12日、ソ連軍が雪崩を打ってワルシャワに侵攻してきたのだ。

 

 市民蜂起を扇動しておきながら、土壇場で裏切り多くの市民を死に追いやったソ連赤軍を、かろうじて生き残った者たちは恨みと悲しみと、怒りと己の無力さに満ちた恨めしい表情で彼らを迎えた。

 

 

 案の定、彼らは自分たちの味方ではなかった。

 1918年以前の時代も、ポーランド・ソビエト戦争の時も、昔から彼らは何ら変わらない。自由も人権も奪う鬼の支配者だった。

 彼らはそれまで居座ったドイツ軍にとって代わり、それ以上の抑圧を強いた。

 

 彼らが真っ先に行った統治は、困窮する市民の救済ではない。

 国内軍としてドイツと戦った英雄の逮捕と処刑だった。

 

 自分たちが決起をけしかけておいて、イザ自分たちが支配するという段になり、ものを言い、抵抗という行動を起こす将来の不満・危険分子を事前に始末するという、ドイツ軍より狡猾で悪辣で醜悪な統治者であった。

 

 フィリプはドイツに代わる新たな侵略者に対し口惜しさを滲ませながら、今は逃亡するしかないが、必要なら抗戦もするという意思を告白した。

 そうするしかなかった。

 フィリプは国の誇るポーランドの将校だったのだから。

 自分にとって、責任ある行動とは?

 本当はヨアンナとやがて生まれてくる我が子のそばにいつも居たい。

 自分がじかに守ってやりたい。

 でもそんな当たり前の心情を押し殺さなければならない。

 自分がいたら返ってヨアンナたちの身を危険に晒すことになる。

 それに我が務めは家族を守り、祖国ポーランドのため戦い抜く事なのだ。

 今はソ連の進駐を許しているが、こんな理不尽な統治を西側の連合軍がいつまでも許す筈はない、新たな戦闘準備が出来次第きっと駆逐してくれる筈。

 それまでは歯を食いしばってでも戦い抜く。

 自分たちが不屈の闘志で戦う姿を見せなければ、誰が救済してくれると云うのだ?

 

 苦難は続くが、彼は国が誇る屈指のポーランド人だった。

 

 ヨアンナはまたも身を裂かれる想いに駆られた。

 私の人生はいつも大切な人が去ってゆくばかりだった。

 でも仕方ない。今はこんな世の中なのだから・・・。

 フィリプには何としても生きていてほしい。

 ここにいては確実に見つかり、その結果は死しかないから。

 でも必ず私の元に帰ってきて!!

 そう約束してください。

 フィリプは次々に逮捕・処刑される仲間を目撃するや、言葉通り残った仲間たちと逃亡しながら抵抗することを決意した。

 

 

 

 ソ連の諜報・治安部隊は血眼になって国内軍の残存活動者を捜索している。

 ドイツ軍を追い払った後のポーランドの支配と治安維持に、国内軍残存兵の存在は邪魔なのだ。

 見つけ次第掃討すべし。それが当局の命令である。

 

 フィリプの居場所が暴かれるのも時間の問題だった。

 ヨアンナとフィリプは危険を察知した最後の晩、脱出まで残り2時間だけの夫婦最後の夜を過ごした。

 

 別れの朝

 

「フィリップ・・・・。どうかご無事で。

愛してるわ。愛してるわ、愛して・・・・・」

後ろ姿が涙に滲んだ。

 

 フィリプは他の仲間たち旧国内軍残党と共に、喜びも悲しみも深く心に刻んだワルシャワの地を離れた。

 

ヨアンナをエヴァとミロスワフ夫妻に託して。

 

 

 すでにワルシャワ市内に残るは瓦礫ばかり。

 人の住める場所はわずかしか残っていない。

 妊娠中のヨアンナは愛する夫フィリプと別れ、危険が迫る直前、戦闘から避難していたエヴァ夫妻が住むワルシャワ郊外から少し離れた家に急遽身を寄せた。

 

 そこにはハンナの夫エミルと、親友のアレックなども時々立ち寄る。

 ミロスワフもエミルもアレックも皆、昔からの仲間であり、市民蜂起をイエジキ部隊の一員として共に戦った仲。

 蜂起が失敗し終息した後は、瓦礫の後始末や復興の担い手としてここに残り、生き残った者の責務として頑張らなければならない。

 但しエミルはひと段落後には妻のハンナの元へ戻らねばならないが。

 

 エヴァの夫ミロスワフは蜂起の戦闘で左肩と右足の太ももを負傷したが、何とか歩き回れるほどに回復した。

 蜂起終息後は細々と物資の流通が再開し、郊外に出るほど食料を手にし易くなってきた。

 エヴァとミロスワフはフィリプとの約束で、ヨアンナとお腹の子を全力で守る決心をしている。

 負傷回復間もないミロスワフは、引きずる足でワルシャワ近郊の農産地からの食料流通の仕事に携わった。

 

 当然のように賃金報酬などは発生しない。

 輸送対象のジャガイモなどの一部をほんの少しだけ頂くのが収入の総てである。

 それでも自分たちの食料確保と生活費の捻出にはなった。

 それにエミルやアレックからの援助も有難い。

 彼らだってその日を生きるのに精一杯だろうに。

 

 エミルは時々ハンナの話をしてくれる。

 孤児院周辺での出来事や、エミルがワルシャワに来る前のハンナの様子など、懐かしそうに話してくれるのだった。

 あのお話し好きのハンナ。

 エミルと別れ、さぞ寂しい思いをしている事だろう。

 

 ヨアンナはハンナに対し、申し訳ないといつも思っていた。 

 そして、帰れる状況になったら、すぐにハンナの元へ帰るよう強く進言した。

 エミルが帰ったら、きっとヨアンナが妊娠した事を報告してくれるだろう。

 喜んでくれるかな?ハンナの事だもの、顔をクシャクシャにしてはしゃぎまわってくれる筈。

 

 エヴァはヨアンナとお腹の子のため、生活全般に介助の手を差し伸べた。

 友として、ひとつ屋根の下で暮らす家族として、その全てを受け入れた。

 ヨアンナは逃亡する夫の身を案じながら、次第に育つお腹の子に話しかけながら平和で幸せな明日が来る事をひたすら願う。

 

 かつての自分の子供時代。

 

 父アルベルトと母マリアが健在な頃、ヨアンナは幸せな生活を享受していた。

 やがて生まれてくるこの子に同じだけの幸せを与える事ができるのだろうか?

 フィリプの帰還と、無事な子供の誕生。

 今はひたすら祈るばかりだ。

 

 エヴァの日課は朝、ヨアンナのお腹に耳を当て、

「ヨアンナⅡ世ちゃん、おはよう!今日もお外は良い天気よ。

 エヴァお姉さんは早く2世ちゃんのお顔が見たいな。

 元気で素敵な笑顔を早く見せてね。」

と云うのだった。

「あら、私は母親になるのにエヴァはお姉さんなの?同い年なのにズルいわ。」

ヨアンナが笑いながら突っ込むと、

「アラ、いやだ!私はいつまで経っても若いままのお姉さんでいるつもりよ!」

と応える。

 しかしその2か月後、当のエヴァも妊娠発覚。

 お姉さんと呼ばれるのを諦めるしかなくなった。

 病み上がりのミロスワフは尚一層馬車馬のように働くしかない・・・らしい。

 でも戦争終結が近づくにつれ、人々に生きる力が蘇ってきたようだ。

 

 ソ連の影響下の弾圧と統制にもかかわらず、殺し合いと極端な物資不足からの解放は、大きな希望の光だった。 

 一方同時期、ポーランドのいたるところで新たな支配者に抵抗すべく、フィリプを含む国内軍がレジスタンス活動をおこし、命がけの抵抗を続けた。

 

 

 

 

 だがここで残念ながら歴史的事実として敢えてしるすが、被害者は占領支配されたポーランド人だけではない。

 ソ連に占領されたポーランドに次々と戻ってきたユダヤ人難民に対するポーランド人の行為も指摘しておかなければならないだろう。

 

  ******

 

 参考までに

 

 第二次世界大戦が終結し24万人の難民ユダヤ人がポーランドに大挙帰還し押し寄せたそんな状況の中、一年後の1946年7月4日。『血の中傷』事件が発生した。

 ポーランド人暴徒による殺害事件であり、42人が殺害、80名の負傷者が出た。

 (後にポーランド政府は正式に謝罪している)

 

 (因みに大戦の戦争責任について、ドイツはポーランドに謝罪しているが、ソ連は一切していない。)

 

 *『血の中傷』とは、ユダヤ教の祭事にはキリスト教徒の子供の生き血が必要で、多数の子供達が犠牲になっているという根も葉もないデマが昔から伝統的にポーランドを含む全ヨーロッパに流され、ユダヤ人憎悪と迫害のの元凶となっていた。

 中世の魔女狩りが集団ヒステリーをもたらし、パニックが暴動となった状態と同様である。

 はたから見たら馬鹿げた根拠のない因習としてしか見えないが、本気で信じた者が多数いた歴史的事実こそが驚きである。

 

 戦後のポーランドはユダヤ人の安息の地ではなかった。

 

 いくさに疲れ、打ちひしがれたポーランド人の心はささくれ立っている。

 大切な家族を失い、日々の生活にも追われ余裕が持てない。

 自分たちより弱い存在に当たり散らさねば、到底我慢できない。

 そんな社会状況の中のユダヤ難民の帰還は、あまりに危険過ぎた。

 更にその後も続く迫害の後、とうとう9万人まで人口が減少した。

 そんなやるせない悲しい歴史的事実も存在するのだ。

 

  ******

 

 狂気の大量殺りく時代。

 

 誰が正気で

 誰が狂気で

 誰が正義で

 誰が悪か?

 

 

 

 話を戻す。

 

 ナチスドイツが崩壊した1945年5月8日。

 ポーランドではソ連という新たな支配者にとって代わられただけではあったが、ヨーロッパに於ける戦争は終結した。

 少なくとも戦争による死の危険は無くなった。

 見せかけの平和が訪れた新しい時代。

 ヨアンナ、フィリプにとっての二人の愛の結晶の出産の日が来た。

 

 1945年6月22日、

 出産に立ち会っていた関係者たちに歓喜の声が響き渡る。

 待望の子は男子で、アダムと命名された。

 

 アダムとイブのアダム。

 

 記念すべきポーランドの解放の象徴と思われたヨーロッパ大戦直後。

 希望に燃えた新生ポーランドの象徴として、人類誕生の象徴であるアダムとイブにあやかり、『アダム』と名付けられた。

 10月6日続いてエヴァとミロスワフに女児誕生。

 エミリアと命名。(イブではない。念のため)

 ようやく長い間、暗く沈んでいたワルシャワ近郊の小さな家に、眩いばかりの太陽の光が差し込み、待望の春が来た。

 

 そしてエミルのハンナの元への帰還の日がやってくる。

 ヨアンナ出産の報告という使命も帯びて。

 盟友アレックは、戦後の混乱とミロスワフの身体の状態が完全復活するまでここに残ると宣言、相変わらずの男気をみせ、エミルに笑顔で手を振った。

 涙顔のエヴァやヨアンナたちとは対照的に。

 (ハンナと結ばれたエミルに対し、ヨアンナとエヴァの評価は曝上がりだった)

 

 

 

 一方フィリプは・・・・・。

 

 その間、何とか逃亡に成功し、反共パルチザンとして数年間共産政府要人テロ活動作戦などにも参加、目下逃亡中であった。

 だが1950年2月、追い詰められ銃撃戦の末、あのポーランド将校たちが銃殺された遺恨のある『カチンの森』近くで、とうとうソ連兵に射殺された。

 

 フィリプの最後も井上敏郎の最後と同じ、晴れた日の青い空を目に焼き付け、迎えに来た天使の降臨を目で追う。

 そして静かに瞼を閉じ

「ヨアンナ・・・。」と呟く。

 栄光と波乱に満ちた生涯だった。

 

 

 その一月後、反体制パルチザンとして射殺された夫フィリプの身元が割れ、ソ連治安部隊が10日ほど前にエヴァの家から独立、隣に引っ越したばかりのヨアンナの居宅を急襲する。

 

 目的は国内軍活動家関係情報探索のための家宅捜索だった。

 要するにフィリプの仲間の動静を調べるためである。

 

 はるか昔、5歳の時のヨアンナがソ連赤軍に襲われたあの時と同様、彼の国の治安部隊は冷酷且つ残酷だった。

 現れるなり何かわめくように叫び、国家反逆の大罪人であるフィリプの妻のヨアンナに対し、いきなり数発の銃弾を浴びせた。

 ようやく5歳になるアダムはその時、エヴァの子エミリアと遊ぶため、たまたまエヴァの家にて難を逃れた。

 

 その結果アダムだけが生き残る。

 

 シベリア孤児だったヨアンナ。

 まだ幼いアダムを残し、行く末を案じながら息を引き取った。

 

 ヨアンナの忘れ形見であるアダムもまた、母同様5歳で孤児となりエヴァ夫婦に引き取られる事となる。

 

 

              

 

 

       つづく