どうでもいいです、の話

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保守記事.101-8 ぼくたちの将来は。。。。

2006-12-11 18:00:47 | 記事保守
日田市のギャラリーで写真展 16歳少女ひきこもりの暗闇抜け(西日本新聞) - goo ニュース
2006年12月9日(土)10:12
ひきこもりから立ち直りつつある少女が日田市のギャラリー喫茶で写真展を開いている。高校を休学中のmitsuさん(16)。家族や友人の支えもあり、 「ゆるゆるでいい(ゆっくりでいい)」と、1歩を踏み出した。会場には携帯電話で撮影した田んぼの中の鉄塔、電柱、スーパーなどの風景12点を展示。暗闇 から抜け、今を生きる喜びが表現されている。 (日田支局・新西ましほ)

 mitsuさんは中学3年になり、学校に行けなくなった。卓球部のキャプテンを務め、友人も多かったが、部活動や受験、クラス内のゴタゴタの中で「心と体がバラバラになった」という。

 怒らない、泣かない毎日。学校へ行こうとするが、体が動かない。学校へ着いても教室に入れず、トイレにこもって泣き続けた。教師は「甘えているんだ」という。過食と拒食を繰り返しながらも、何とか高校に合格したが、入学して間もなく、再び不登校になった。

 「悩んで、悩んで、なぜ悩んでいるのかが分からなくなって、人と接することができなくなり、外に出られなくなった。真っ暗な中で日々、自分自身と闘っていた」

  「今まで頑張ったね。もう頑張らなくていいよ」。家族からそう言われて、散歩に出られるようになった。見上げると、久しぶりの空はゆったりとしていて、毎 日違った表情をのぞかせる。携帯電話のカメラで何げない風景を撮影、パソコンで加工し、自身のホームページに掲載。「写真を見て外に出てみました」「頑張 ろうね」などの感想が寄せられ、元気を取り戻していった。

 展示作品「独りじゃない」は自身の影を撮影。「太陽に照らされたら、必ず影が できる。独りじゃない、みんな一緒なんだよ」。そんな思いを込めた。「ノンタイトル」は田園にポツンと立つ鉄塔。美しい空を強調した。電柱を撮影した「機 械星」は「宇宙に浮かぶ機械の惑星」をイメージした。

 写真展は幼なじみから持ち掛けられた。ギャラリー喫茶のオーナー、内柴雅道さん(60)は「自分の中の寂しさなどの感情を客観的にとらえ、表現する目を持っている」という。

 今は小さなハードルを設定し、1つずつ乗り越えている。「友だちに連絡を取る」「人と会う」「個展を開く」。夢は広告デザイナー。アルバイトをしながら定時制高校に通い、写真関係の専門学校に進学しようと考えている。

  mitsuさんは「今でもまだ、怖い。でも、今の私は太陽の光も浴びられるし、写真も撮れる。出会いがいっぱいあって、自分を見つけられた。人の存在の大 きさを感じられるようになって、つらくても頑張れると思えるようになった。『ゆるゆるでいい』と、教えてくれたみんなのおかげです」と話している。

   ☆   ☆

 写真展「ケータイで撮った私の好きなもの」は同市淡窓1丁目のギャラリー喫茶「喫茶去(きつさこ)」で14日まで。


■心の問題に詳しい福岡県大牟田市の不知火病院、徳永雄一郎院長(精神科医)の話

  過食、拒食の背後には「うつ」があった可能性がある。大切な人やモノ、目標を失うなど「対象の喪失」がきっかけになるケースが多い。彼女の場合は写真を撮 り、ホームページで公表することで、別の生きがいや目標が見つかり、それを第三者から認められ、評価されたことが心の回復につながったのだろう。

=2006/12/09付 西日本新聞朝刊=




保守記事.44-2 踏ん張れるか?

2006-12-11 13:40:35 | 記事保守

鹿島鉄道、廃線の危機 継続めざし住民らが新会社 

2006年12月11日06時10分
 現役最古のディーゼル車が走る鹿島鉄道(茨城県石岡市―鉾田市、27.2キロ)が廃線の危機にある。そんな中、沿線住民らでつくる市民団体が新会社を作 り、運行を引き継ごうと奔走している。地元自治体の公募に名乗りを上げ、12月中にも審査結果が出る。住民による新会社が鉄道事業を引き継けば全国初の ケースとなるが、準備期間は短く、資金難や利用客の減少など数々の難題が待ち受けている。

 霞ケ浦湖北を走る鹿島鉄道は、80年以上の歴史を持つ単線非電化の私鉄。1936年に製造された現役最古の気動車「キハ601」などを目当てに、全国から鉄道ファンも訪れる。

 だが、利用客は減少し続け、02年から親会社の関東鉄道(同県土浦市)と県、地元自治体の財政支援でかろうじて存続してきた。昨年8月、つくばエクスプ レス(TX)が開業。TXと競合する関東鉄道のドル箱、高速バスが打撃を受けたこともあり、「支援」の仕組みが崩れた。結局、来年3月で鉄道事業から撤退 することが決まり、運行を引き継ぐ会社に存続を託すことになった。

 11月末に始まった公募は、12月11日まで実施。新事業者には来年度以降5年間、自治体が6億5000万円を上限に支援を行う。廃線に反対する市民団体「『鹿島鉄道』存続再生ネットワーク」(長谷川功代表)は応募に向け、11月から会社設立に取り組んできた。

 だが、課題は多い。資本金は最低目標の1億円に対し、現時点で出資の確約がとれたのは、約7000万円ほど。鉄道施設や技術者は鹿島鉄道から引き継ぐ意向だが、同鉄道は「具体的な交渉は審査を通ってから」との立場で、先行きは不透明だ。

 利用客の減少は、JR常磐線(石岡駅)への乗り換えを重視したダイヤ改定で歯止めをかける計画という。長谷川代表は「この地域の交通サービスを維持するには鉄道が必要だが、残された時間が少なく、撤退を1年ほど延期してもらわないと間に合わない」と話す。

 ローカル鉄道の廃線は、ここ数年全国で相次いでいる。公募は今回が3例目で、茨城県の日立電鉄では事業者が決まらず、05年3月で廃線。一方、和歌山県の南海電鉄貴志川線は岡山電気軌道(岡山市)が事業を引き継ぎ、今年4月から和歌山電鐵として再生した。

 公募には今のところ、東京の旅行会社も名乗りを上げている。ただ、「市民団体と連携したい」としており、再生ネットの行方が存廃を左右することになりそうだ。

【過去記事】保守記事.44 よみがえるか?

保守記事.36-1-2 負った子に教えられ。。。。

2006-12-11 13:18:11 | 記事保守

不振フォード、好調マツダに学ぶ 10年前と立場逆転

2006年12月10日13時58分
 巨額赤字に苦しむ米自動車大手フォード・モーターが、傘下のマツダとの協力関係を深めている。新車開発や海外戦略での連携に加え、マツダでの勤務経験者 がフォードで要職に就く例が目立つ。マツダは90年代半ばの経営危機からフォード主導の再建で復活した。フォードにとっても貴重な「成功モデル」だ。10 年前と両社の立場は逆転し、「親」のフォードがマツダから学ぶ姿勢を見せている。

 11月中旬、米ロサンゼルスにいたマツダの井巻久一社長兼会長に、9月にフォードの最高経営責任者(CEO)に就いたアラン・ムラーリー氏から電話がか かってきた。「共同開発車の進み具合など両社の現状を教えて欲しい」と切り出し、通訳を介して約30分、聞き役に徹した。

 その少し前、テレビ電話で会談した際も、すぐ手書きの礼状を送ってきた。井巻氏は「マツダとの関係を大事にしたい思いの表れか」と感じた。

 フォードは7~9月決算で3四半期連続となる58億ドル(約6670億円)の当期赤字となった。08年までに16工場の閉鎖と最大4万4000人の人員削減、自社工場を担保に180億ドルの借り入れも計画している。

 一方のマツダの06年度連結決算は6期連続の増収増益、過去最高となる1480億円の営業利益を見込む。低燃費の小型車「デミオ」などは 欧米でも販売好調だ。マツダの筆頭株主(発行済み株式の33%超)であるフォードは05年度、少なくとも14億2000万円の株式配当を受け取った。

 市場でうわさされる「マツダがフォード株を買い支える」など直接的な支援策をマツダは全面的に否定する。ただ、開発面では着実に協力関係を深めている。

 フォードの中型車「フュージョン」「マーキュリーミラン」などの車台に、マツダの「アテンザ」の技術を提供。新型SUV(スポーツ用多目的車)「CX―7」の車台技術もフォードの新型車に提供する方針だ。

 フォードの海外戦略の一翼も担う。マツダは新工場に慎重だった姿勢を転換。09年操業をめどにフォードと合弁でタイに小型車工場を建設する意向で、フォードの苦手な小型車を補完する役割を期待されている。

 また10年代前半稼働を目指し、米国中南部か中米での新工場も検討している。自前の工場建設のほか、閉鎖するフォード工場の活用や両社合弁の工場案も浮かんでいる。

■「部下と酒を」忠告実践

 マーク・フィールズ元社長→高級車部門のプレミア・オートモーティブ社長、ルイス・ブース前社長→欧州フォード社長、ジョン・パーカー前副社長→アジアパシフィック・アンド・アフリカ担当グループ副社長、ジョゼフ・バカーイ元専務→欧州フォード副社長……。

 フォードの要職にあるマツダ経験者の主な顔ぶれだ。いずれもマツダでの成功を評価された。

 世界初のロータリーエンジン搭載車で知られたマツダだが、93年度決算(単体ベース)では過去最悪の441億円の経常赤字に沈んだ。96年6月、フォードから初めてヘンリー・ウォレス氏が社長に乗り込み、03年までフォード出身社長が4人続いた。

 トヨタ自動車並みの五つもあった販売系列を三つに減らし、01年には2210人が早期退職。広島県の宇品第2工場などを閉鎖した(04年春に再開)。中小型車に車種を絞り込んだ。

 一方で、ブランド重視を新戦略に掲げた。97年、新たにエンブレムを制定。全車種とも、車の顔であるフロントグリルに、エンブレムを中心に据えた五角形のデザインを採用し、独自の外観を目指した。

 現場も変えた。新車開発には欠かせない粘土による原寸モデル作りは、作業を大幅にデジタル化し、自動切削を取り入れることで、従来の約2週間から1~2日で制作可能にした。単調な作業を省き、浮いた時間を創造に向けた。

 02年春、満を持して発売した「アテンザ」は世界累計で約100万台を販売した。以降、マツダ車は世界で340もの賞を獲得している。

 改革の旗はフォード出身者が振ったが、マツダとの共同作業だった。井巻氏がバカーイ氏に「部下と酒を飲み、上司が支払うこと」と忠告する と、さっそく部下を大勢引き連れ、酒場に出かけた。外国人と日本人社員が一緒に仕事をするのが普通の光景になり、社風も変わった。今でも、マツダを経験し たフォード幹部は懐かしがり、井巻氏らと連絡を取り合っているという。

 ただ、フォードとマツダでは規模が違い過ぎて、マツダでの成功モデルがそのまま通用するとは限らない面もある。

フォード出身者も加わり、日本語で会議をするマツダの社員たち=8日午後、広島県府中町のマツダ本社で
米フォード・モーターとマツダの比較

【過去記事】保守記事.36 人気者は、つらい。。。