悠々time・・・はなしの海     

大学院であまり役に立ちそうもない勉強をしたり、陶芸、歌舞伎・能、カメラ、ときどき八ヶ岳で畑仕事、60代最後半です。

「抽象の世界」東京オペラシティアートギャラリー

2006-04-04 23:57:25 | 文化・文明

(写真は、東京オペラシティの中庭)

今日は珍しく、自分がここ暫らくブログを書いていないことの経緯説明
から語り始めることになった。

<お花見やら展覧会やら>
このところ10日間あまり、数カ所のお花見訪問を筆頭に、美術館訪問、
与勇輝人形展、知人の展覧会、ちょっと足を伸ばして蔵の街散策やら
が続き、さらに、今、各地の自治体で取り組んでいる「自治基本条例」
を作るための市民協議会の会合やらもあり、珍しくブログを書く時間が
全くない状態がつづいた。


<パソコンがクラッシュ>
ようやく時間が出来たので、その気になって書き始めたら、まだ新しい
のだが、少々過酷なまでに使っているパソコンがクラッシュしてしまい、
その上、暫くデータをバックアップしておかなかったために、取りあえず
何とか一度、正常な状態のときと同じ状態で起動させて、その状態の
とき素早くデータのバックアップを試みようとしているのだが、基盤が損
傷してしまったのか正常な起動が出来ないため、悪戦苦闘している。

<大量生産、大量消費時代の欠陥>
勿論、正常な状態に戻るかどうかについては、再セットアップしてみれ
ば分かるのだが、数年前に同じことが起こってメーカーにチェックして
もらったら、原因は不明だがIC基盤が故障していたので取り替えたこ
とがあり、費用は無料だが、原因は不明とのことだった。嘘の回答をし
てもらうよりは、大量生産による不可抗力の製造ミス、といって謝って
貰う方がすっきりする。メーカーも大量生産の課程で時々発生する基
盤の損傷などは、原因が分からないのが実情だろう。

パソコンの表の顔は日本の一流メーカーの名前だが、その際に内部を
チェックしてみたら、部品の半分以上が東南アジア製だった。先ほど、
風呂の中でニュースを聞いていたら、トヨタが、部品の欠陥により、
救急車を含む車、7万5千台のリコールを国土交通省に申し出た、と
報じていた。松下電気の欠陥ストーブの死亡事故もそうだが、本来、
大量生産、大量消費時代の欠陥といって、ただ笑って済ませる問題で
はない。

<便利すぎるのも問題>
これを契機に、また、この他のトラブルもあり、家の中にある三台のパソ
コンを切り離して、独立したパソコンとした。相当早くから家の中の機器
を無線ランで構築したあったのだが、最近、セキュリティーの面から返っ
て原始的な方法も、安全であることを実感している。

これまでの投資が無駄になるが、世間では、定年を迎えたサラリーマンが、
田舎暮らしの畑仕事で、返って人間らしい生活を楽しんでいる人たちが多い
と聞く。それと同様に、パソコンの人間らしい使い方があっても良いのでは
ないか、と思うようになった。スローな生活を楽しむのであれば、ワンセグ
も急ぐことはないのだ。

<抽象の世界>
ところで本題に入ろう。過日、ポップアートについて話をしたが、連続して
書くつもりが、今日、冒頭で述べたような事情で中断してしまったため、
今日は、ポップアートはひと先ず置いておいて、東京オペラシティアート
ギャラリーの現代芸術展「抽象の世界-色・かたち・空間」(東京オペラ
シティコレクションより)の作品79点の中から、2点の抽象画を見てみたい。

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赤塚祐二 (Untitled 179810)
油彩、キャンバス」
162.0×130.5CM 1998



コレクションの説明書によると、赤塚祐二について次の
ように書いてある。

「赤塚祐二の絵画には、いわばテーマというものが存在
 しない。描く行為それ自体によって内なるイメージを
 探りながら、曖昧なかたちとして画面に定着させてゆ
 くのである。感覚と手が直結して生まれるその作品は、
 予測不能な流体の動きを思わせる」


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堂本右美 (無題 YD-9828)
油彩、キャンバス」
53.0×45.5CM 1998



 同じく、堂本右美について次のように解説している。

「堂本右美はダイナミックなストロークによってキャンバス上に自由
 な世界を表現してゆく。キャンバスの外に大きくはみ出した線が、
 見えない空間の広がりを暗示し、軽さと重さ、スピードと停滞とい
 った、相反する要素の重なりが、空間に奥行きを生み出している。
 瞬時に生み出されるように見えるこれらの奔放なイメージは、日々
 繰り返される膨大なスケッチやドローイングによって、獲得された
 ものである」


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<抽象画は芸術といえるのか>

抽象画の世界は、描いた人と、見ている人が、思い思いに、イメージを
膨らませながら想像の世界を創り上げるものであり、表現する側の感性
と、受け止める側の感性の世界観の衝突である。

タイトルに書いてあるように、「色・かたち・空間」を使って、インスピレーシ
ョンをイメージ化したものが、抽象画だとすれば、所詮、描いた本人以外
には分からない世界である。もし、簡単に解説できるものであったなら、
それは抽象画ではない、のではないか。

ある芸術論の書物を読んでいて、最も感銘を受けた言葉は、絵画も世界
に二人以上の人間がいて、描いた絵を評価してくれる人がいなければ、
どんな絵画もただの紙切れである、という意味の言葉であった。評価す
る人がいるところに、芸術か否か、という感覚が生まれるのだ、という
意味は、たった一人、宇宙に取り残された人間が、心を癒すために絵を
描いたとしよう。その絵を芸術だ、といったところで評価する人間がいな
いのだから無意味である。

そういう意味では、抽象画を理解することができる人が多くならなければ
抽象画は、抽象画だ、と意識されるだけの存在にしか過ぎないといえる。

ところが、岡本太郎の抽象画を鑑賞すると、強く胸を打ち、あるいは感
性を震わせるものがある。つまり、抽象画といえども、見る者の感性を
震わせるような、何か、がなければその作品はただの紙切れなのである。


           <岡本太郎の家の庭>


    

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