悠々time・・・はなしの海     

大学院であまり役に立ちそうもない勉強をしたり、陶芸、歌舞伎・能、カメラ、ときどき八ヶ岳で畑仕事、60代最後半です。

胸突坂と神田川

2009-12-16 03:00:28 | 文化・文明



<胸突坂>

目白台にある旧細川邸・永青文庫の前の道を南に向かうとそこは急な坂で名は胸突坂という。
上るときに膝が胸に突き刺さるほどの急な坂という謂われだが、坂を下りたところに水神社
(神田川の守護神)があるので別名水神坂ともいう。

今では歩き易いように手すりが取り付けられている上に、なだらかに整備されているため、
さ程急な坂には見えなかったが、それでも先日ここを通ったときに、幼稚園生の子供を連れ
て乳母車に赤ちゃんを乗せた若い奥様が下りて行ったときにはさすがに驚いたが、子供は
楽しそうに一人で下りていくし、乳母車の若い母親は手慣れた様子だったので余計な手伝
いをしない方が良いのではないかと思い様子を見ていたが、すずしい顔で下りて行ったのを
見ると正解であった。

この坂は熊本藩細川家の殿様が江戸城に登城する道筋として開墾整備した坂道だというが、
細川家下屋敷なので殿様はあまり使わなかったのではないか推測する。しかし、誰が通るに
しても夏の急な坂道はさぞ大変なことであったろうと思うと、自分自身が江戸時代に入り込んだ
ような気がしてきた。




<関口芭蕉庵と芭蕉の木>

右手に見える建物は関口芭蕉庵である。芭蕉が一時期住んでいたのだが庭には芭蕉の木
が植えてあるので、芭蕉庵に芭蕉の木か、と感心した。




写真の真ん中あたりに天に向かって伸びているように見える白い枝のような葉のような
ものが芭蕉の木である。写真の手前に写っている欄干は駒塚橋の欄干である。


<駒塚橋>

駒という名が付けられているこの橋の名前の由来は馬に関係がありそうだ。一説
によると、将軍が鷹狩りに来た時に駒(馬)を留めて休憩したことにちなんだのだ
という説や、昔この辺りは砂利採集の盛んなところであったがその砂利を運搬す
るための馬を繋いだ場所だったという説もあるという。すぐ目の前に水神社があ
りそこから上は急峻な崖(胸突坂)なので、どのみち駒(馬)から下りなければ
ならない場所に架かった橋であったということだろう。


<目白台と関口町>

関口芭蕉庵の関口というのはこの一帯の地名である。ただし、胸突坂を上るとき
坂の右手、芭蕉庵や椿山荘側が関口で、左手の旧細川邸・永青文庫側は目白台で
ある。

このあたりは神田川を間において文京区と新宿区の区界となっており、神田川の少し下は
新宿区戸塚町、西早稲田町の早稲田大学である。従ってこの急な坂は早稲田大学のスポ
ーツ部員が足腰を鍛える鍛錬の場所にもなっている。



この写真は関口芭蕉庵の神田川沿いの正面入り口である。この通りの左側が神田川で
神田川沿いのこの一帯は春には桜並木のすばらしい景観の公園になっている。




<神田川沿いの桜の名所・・・江戸川公園と新江戸川公園>







これは胸突坂を下りきったところに架かる駒塚橋の上から見えるフォーシーズンズ
ホテル椿山荘である。この川の先、目白通りと神田川の下側を通る新目白通りが
交わる江戸川橋辺りまでの一帯が江戸川公園である。




ここは駒塚橋の上で椿山荘を背にして反対側の目白方面を見た神田川沿いである。
この右手は水神社、新江戸川公園で、新江戸川公園と旧細川邸・永青文庫は行き
来が出来るようになっている。


<水神社にたむろする猫>

 

駐車場の右手奥が水神社であるが、ここには何故か猫が沢山いた。この写真では
自動車の上で昼寝する猫一匹という感じであるが、実は沢山いる。餌を与えない
ように、という説明書きがあったように記憶しているが猫の天国であることには
違いないようだ。もしかしたら猫が水神社=神田川を守っているつもりなのかも
しれない。


<神田川>

そもそも神田川とはいかなる川なのであろうか。この辺りの河川は荒川水系の支
流と聞くが、神田川はその支流の一つである三鷹市の井の頭公園内の池に源を発
するという。そこから東へ24.6㎞流れて東京を横断し最後は隅田川に合流する。
都内の中小河川では最大の規模であるという。しかも徳川家康が江戸に入府して
から江戸の飲料水を確保するために、井の頭池、善福寺池、妙正寺池から端を発
する川と江戸湾に注ぐ川を繋いで全川を開墾したものだという。

その飲料水が「神田上水」であるが、神田川は丁度関口芭蕉庵のある辺りからそ
のまま東に流れるが、このあたり即ち目白近辺に堰を設けて「神田上水」は分流
し小石川、本郷方面に飲料水を供給したという。芭蕉は元々は伊賀の生まれで
藤堂藩伊賀付侍大将家の家来であったが、この堰を作る工事に従事したころは
深川に居を構える前のことで藤堂家の家来としての仕事だったようである。芭蕉の
俳句は主人(伊賀付侍大将家)の嫡子(俳号蝉吟)からの影響であるという。

なおその後、水害対策として隅田川への合流や江戸城周辺の神田川支流の開削
が行われ、さらに江戸城防備の目的で当時平川と呼ばれていた神田川と、水道橋
やお茶の水周辺の川を改修、あるいは台地を造成して川の付け替えや神田上水の
延長が図られたという。明治時代以降も何度か改修が行われているので、江戸開
府前と家康入府後の河川の姿の変貌だけでなく、江戸時代以降から明治時代を経
て現代の姿になるまでに良くも悪くも神田川は大きく変貌を遂げているのである。


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<早稲田大学正門方面、右手の奥に大隈講堂>

胸突坂を下りて駒塚橋を渡り少し歩くと新目白通りにぶつかる。目の前にリーガ
ロイヤルホテルが見える。信号を渡ってホテルの脇の通りを進むと左手に大隈
庭園、大隈講堂、正面に早稲田大学正門、右手は大学の校舎である。そこを左
手に曲がってバス停あたりで後ろを振り向いた光景がこの写真である。


<江戸時代の風景>

江戸時代のこの辺りは、草深いところであったろうと推測できる。神田川を土地の
底辺とすれば神田川の北側一帯は小高い台地であり、山や樹木に囲まれ辺りは
鬱蒼としていたのではないかと思われる。

江戸の胸突坂はもっともっと急峻な坂で、雨や風の強い日は難渋を強いられたで
あろうし、今でも神田川の川縁は急な勾配であるから、松尾芭蕉も加わったとい
う神田川に堰を作る工事もさぞ大変なことであったろう。

江戸時代に、一つの地域として高台と平地との境がもっとも急峻だったのはこの
辺りではなかったかと想像する。昭和20年代から30年代初期のお茶の水や水
道橋周辺も神田川を境にして山側と平地側との高低差が歴然としていたが、道路
工事が進み、また周囲にビルが建ち並ぶようになると江戸時代のような感じが少
なくなってしまったが、現在の目白台や関口一帯、即ち、東は今の目白通りと新
目白通りが交わる江戸川橋から、西は水神社、胸突坂がある駒塚橋の少し先あた
りまで、つまり、現在の桜の名所である江戸川公園から旧細川邸下の新江戸川公
園辺りまでの神田川沿いの一帯がをもっとも高低差が急峻な一帯ではなかったか
と思われる。

高台と平地との間の行き来もままならないほどの鬱蒼とした崖や樹木に囲まれな
がら必死に生活した江戸時代の武家や町民の生活に想いを掻き立てられながらの
散策は想像という夢があり楽しいものであった。時代劇小説がまた楽しくなる。


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