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大学院であまり役に立ちそうもない勉強をしたり、陶芸、歌舞伎・能、カメラ、ときどき八ヶ岳で畑仕事、60代最後半です。

浮世絵師「渓斎 英泉(けいさい えいせん)」

2006-02-22 22:26:54 | 文学・文芸・芸術




<歌舞伎市村座「積恋雪関扉 小町姫」三代目歌川豊国作>
     (つもるこいゆきのせきのと)
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<浮世絵師「渓斎 英泉」>

渓斎 英泉(けいさい えいせん、寛政2年(1790)~嘉永元年(1848))は、
江戸の下級武士の出身で、苦労しながら狂言作者を目指したり葛飾北斎
に私淑したりしたが、最後は菊川英山の門人となって浮世絵師になったと
云われている。

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<退廃的で妖艶な美人画>

最初は、華麗な美人画を描いていたが、後に、江戸後期にあたる文化文
政時代の退廃的な美意識を象徴するような独特の、妖艶な女性美を描く
ようになった。顔立ちも、あごが少し長く、下唇がやや厚いような女性が多
く、意志の強い、情念を抱いたような女性や遊郭の女性を通じて、独特の
女性美を追求した。

英泉は清長や歌麿に比べると世間(専門家)の評価は高くないが、それ
は清楚でさわやかな美人画ではなく、妖艶で、退廃的で、官能的な美人
画のせいと考えられる。何となく世間を憚る美人画、ということから一般
には知名度は高くなく、美術館などでもあまり見かけないが、しかし収集
家の間では高額で取引されていると聞いた。

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<風景画「木曾街道六十九次」(歌川広重と合作)>

美人画の英泉だが、歌川広重との合作「木曾街道六十九次」のうちの
二十四図を彼が描いており風景画にも定評がある。もともとは、版元の
依頼により「英泉」が描き始めたものであるが、彼は気ままな性格から
途中で筆を投げ出してしまったため、版元は已む無く歌川広重に残りを
依頼したものである。六十九次だが絵は七十図で、英泉が二十四図、
広重が四十六図といわれている。

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<「続浮世絵類考」>

晩年は戯作者、人情本作家として生きたようだが、江戸の有名な戯作
者である大田南畝・蜀山人(おおたなんぽ しょくさんじん)が寛政二年
頃に、浮世絵師の解説書にあたる「浮世絵類考」を著しているのだが、
その後何回かにわたり加筆されているが、天保四年に渓斎英泉も「続
浮世絵類考」(俗称)として加筆している。

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<歌川国貞(うたがわくにさだ、天明6年(1786)~元治元年(1864)>

歌川派の創始者は歌川豊春、その門下に豊国、豊広などがいたが、
その豊国の門下に、国貞、国芳、国政、国安、豊重(養子で二代目
豊国)など、豊広の門下に広重がいた。国貞は豊国門下の最逸材で
三代目豊国を継いだ。今回、歌川国貞(三代目歌川豊国)について
詳しく述べないが、役者絵、美人画、挿絵などの大家の一人である。
彼も英泉に似て退廃的な美人画も描いたが、江戸の美意識である
「粋」とか「張り」を表す美人画を描いて、当代の人気絵師となった。

江戸末期の歌川派隆盛を築いた功績者と思われるが、現代では、
歌麿や広重や北斎の評価に比べると何故か低い。

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<「英泉」と「国貞(三代目豊国)」の美人画>

今日は、英泉と国貞(三代目豊国)の美人画を見比べてほしい。
一見、似ているように見えるが、それぞれの美意識からくる女性の
描き方が異なるようである。

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渓斎英泉(けいさいえいせん)作

   「美艶仙女香 初雪」(びえんせんじょこう はつゆき)




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歌川国貞(うたがわくにさだ)作

     「当世三十二相 世事がよさそう」
    (とうせいさんじゅうにそう せじがよさそう)





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