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大学院であまり役に立ちそうもない勉強をしたり、陶芸、歌舞伎・能、カメラ、ときどき八ヶ岳で畑仕事、60代最後半です。

本土寺「秋山夫人の墓」と水戸光圀

2009-11-23 16:20:22 | 文化・文明


徳川家康の側室、秋山夫人の墓。

秋山夫人と言う呼び方の由来は別掲の本土寺の項で書いたが、下山の局、下山殿とも称される理由については墓所の表札には書いてないのでここで補足する。

<下山の局、下山殿>
武田信玄の親族の筆頭に穴山信君(梅雪)と言う人物がいる。梅雪は信玄の正室の次女(見性院)の夫であり、信玄の姉に当たる人物を母にもつ武田一族の名門である。しかし信玄の死後従兄弟の武田勝頼と対立し、織田信長に組し徳川家康と誼(よしみ)を通じていたため穴山家は武田滅亡後も生き残ったが、本能寺の変が起こったために急ぎ甲斐へ戻る途中で明智側に、あるいは土民に殺害されたと言われている。家康は、梅雪の死後穴山の嫡男穴山勝千代(信治)を武田信治として家督を継承させたがその後信治が16歳で早世したため穴山・武田は断絶した。家康は武田の血統を残すために武田の血が流れる名門穴山梅雪の養女於都摩(おつま)を16歳で側室としたが、武田の名門・養父穴山氏が河内の下山館を本拠にしていたことから於都摩(おつま)の方を下山殿、下山の局とも称されたという。

<武田信吉、小金城主に>
その秋山夫人が16歳か17歳のときに生んだ子が武田(松平)信吉であり、家康の五男に当たる。武田信吉は天正18年(1590)に下総小金城3万石に封じられたが、秋山夫人はその翌年の天正19年(1591)、24歳の若さで小金で病死し、本土寺の参道脇に葬られたという(年表に間違いがなければこのとき武田信吉は8歳であった)。本土寺は距離的にも小金城(今は小金大谷口城址)と目と鼻の先にある。

<なぜ光圀なのか>
さらに表札には、現在の墓石は信吉の甥、水戸光圀が貞亨元年(1684)に建立したものであると書いてあるが、松戸市の文化財マップの記述によれば、光圀が鷹狩りに来た時にこのお墓を発見し、本土寺の本堂脇に墓石を建立したと書いてある。1684年というのは光圀56歳、隠居の6年前であるが、この時代、この年齢で本当に鷹狩りにきたのだろうか。

<小金→佐倉城主→水戸城主・水戸で病死>
信吉はその後文禄2年(1593)10歳のときに下総佐倉城10万石に移ったが、9年後の慶長5年(1600)17歳のときに関ヶ原の戦いがあり、そのとき西軍に組し水戸城を居城としていた佐竹義信を、家康は、2年後の慶長7年(1602)に出羽の国へ転封、その後に佐倉城主であった信吉を15万石で入封した。
しかし、翌慶長8年(1603)、信吉は21歳の若さでで病死した。

<徳川頼宣→頼房(初代水戸徳川家の祖)>
その後水戸城は家康の10男で信吉の異母弟徳川頼宣(頼将、頼信、後に紀州徳川家の祖となる)が20万石で後を継ぎ、その頼宣が駿河国へ移った後を11男で同じく異母弟の頼房が常陸の国下妻から25万石で入封となり、以後徳川御三家としての初代水戸徳川家の祖となった。

<2代目水戸藩主徳川光圀と武田信吉>
その頼房の3男で水戸藩2代目の藩主となったのが光圀であるが、信吉からみると甥にあたる。光圀は信吉とは45歳の年の差があり、信吉が亡くなってから25年後に生まれている。光圀の鷹狩りがあったとしても、なぜこの時代に秋山夫人のことで光圀という人物がでてくるのかという疑問は消えない。


<光圀の心>
秋山夫人の墓石建立に至っては信吉の死後81年後であり、光圀56歳のときである。光圀に何があったのか、心の中を推し量って見たいが、ここから先は私の推測である。

貞亨元年(1684年)は藩主になって22年、諱(いみな)を元服のとき家光から贈られた光国という文字を光圀に改めている。この時期に心境の変化があったのかも知れない。

光圀は兄を差し置いて藩主になったことを大変後悔していたといい、そのため自分の子を兄の養子とし、兄の子(綱條)を自分の養子として跡継ぎ(3代藩主)にして長幼の礼を尽くしている。信吉に対しても、水戸における徳川家の本当の先達として強い尊敬の念があったのではないだろうか。この信念が信吉の母、秋山夫人の墓所改葬、墓石建立につながっているのではないだろうか。


<儒教の精神>
孔子を始祖とする儒教、儒学は、五常(仁、義、礼、智、信)の徳性を大事にし、五輪(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)の関係を維持することを基礎とすると言われるが、光圀の考え方の根底にあるものは儒学、儒教の強い信念であると思われる。

<儒教の精神の実践>
光圀が藩主になったとき(1661)に、水戸徳川家初代藩主頼房の遺志を受け継いで現在の常陸太田市にある瑞龍山を水戸徳川家の墓地と定めたが、瑞龍山はそれ以降明治時代に至るまで水戸徳川家代々の藩主が眠る墓所となっており、当の光圀も眠っている。松平(武田)信吉の墓所は当初、現在の那珂郡瓜連(うりづら)の常福寺にあったが、光圀は諱を光圀に改める2年前の延宝5年(1677年)に信吉の墓所を水戸徳川家代々の墓所と定めた常陸太田市の瑞龍山に改葬している。このとき同時に生母の墓も同じ市内にある菩提寺から改葬している。これらの行動は上記思想の実践であろうと思われる。

現在、瑞龍山にある水戸徳川家墓所は日本最大の儒式墓所として国の史跡に指定されているそうである。








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