<戦争の悲惨さ、残酷さを伝える市民劇団>
先月8月21日(日)の話になりますが、千葉県の我孫子市民会館で
市民劇団「あびこ舞台」の戦後60周年記念特別公演「声なき氷像」
を拝見しました。旧満州へ渡った人たちの悲惨な運命と、生き残って戦
後日本へ帰ってきた残留孤児の過酷な人生を描いたものです。残留孤児
に6才の少女と沢山の小学生が出演、ハーモニカを吹く開拓団の老人に
86才の新人、若い俳優さん、中高年齢の劇団員の方々、みんなすばらし
い演技を見せてくれました。大変感動しました。若い頃から、戦争の母
物語とか、この種の映画を沢山観てきましたが、今回もあの悲惨な運命
過酷な人生に涙が止まらなくて困りました。詳細は他の方のこの舞台に
関するブログを発見し、下記にリンクしましたの見てください。
これは公演前日のお知らせです。
ブログ<Echoo!-エコログ>
http://echoo.yubitoma.or.jp/weblog/imaiyshd/eid/173342
下の2枚の写真は舞台終了後のカーテンコールの時に劇団主宰者であ
る飯牟礼一臣さん(70才、芝居の原作者、元市会議員)の挨拶と俳優
紹介、花束贈呈の場面ですが、次の写真の後方真ん中にいて赤い花束を
持っている方はこの芝居の座長で、芝居の中でも重要な役をされていた
藤江孝さんです。藤江さんについては私も芝居以外のことで少々知って
いるのですが、私がこの劇団の芝居を観るのは初めてです。今回は座長
の藤江さんの親しい知人グループに誘われて観に行きましたが、実は芝
居の内容もあまり詳しく知りませんでした。戦後60周年記念、声なき
氷像、というタイトルと題名から、過去の戦争に関するものだというこ
とは分かっていましたが、念のため、行く前にインターネットで我孫子
市のことについて調べてましたら、この市はなかなか文化活動が盛んな
町で、かつてこの町の手賀沼周辺には白樺派の人たちが住んでいたこと
が分かりました。また、市民劇団もいくつかあり活発な活動をしている
ことが分かりました。
しかもこの劇団が、
第2回手賀沼演劇賞「最優秀グランプリ」「最優秀脚本賞」
に輝いていることを知りました。
また、地元我孫子市に先立つ7月には横浜から呼ばれて、鶴見会館で
1000人の観客を魅了したことも分かりました。戦後60周年の節目
にいい芝居を観せていただきました。主宰者(代表)の飯牟礼さん、
座長の藤井さん、そして劇団員のみなさん、これからも活躍を期待して
います。
<戦後60周年、今何をすべきか>
今年は戦後60周年ということで、新聞などでも特集記事を書いていま
すが、声高かに叫ばれている割には上滑りのような印象がします。若い
世代にも真剣に考えている人たちは多いのですが、やはり実体験がない
ために傍観者的感覚の人たちが多いことも確かです。また、年輩者でも
70才以上、つまり終戦時に10才くらいの年令に達していないと子供
の頃目にした終戦後のひもじい記憶がだんだん定かではなくなってきて
おり、加えてこの年代の方々の親も多くは亡くなっている可能性もあり
遠い昔の、今の自分にはあまり関係のない過去の出来事、になってきて
いることも確かなのです。そういう中でどうやって戦争の悲惨さを伝え
て行くのか。
朝日新聞の夕刊が「ニッポン 人・脈・記」という記事を連載している
が、9月5日号(「満州」の遺産⑩)で、79才になる宮尾登美子は、
当時満州の開拓地にいたが「生後50日の長女を背に・・・、満州は空
襲もない楽土だと信じていた。・・・・収容所に捨ててあった麻袋で服
を作り、おむつを盗む。娘を売ってうどん代にと考えたことさえあった、
と書いている。なかにし礼も、「父もソ連軍による強制労働で肺を病み、
あっけなく死んだ」という。彼の小説「赤い月」は文学座が舞台化し各
地を回っているが、その中に、日本人の仲間を救うために若い女性が
ソ連兵に体をあずける場面がある。戻ってくると視線は冷たい。この場
面は、あびこ舞台では一人は気が触れ、一人は自殺した。また、あびこ
舞台の主人公の残留孤児は、宮尾登美子の「うどん代」の気持ちと裏腹
に、親が子を生かすために中国人に子を預けた結果が残留孤児となった
ものであり、戦争の悲惨さ、残酷さに置いて相通ずるものである。
宮尾登美子が旧満州での体験を赤裸々につづった「朱夏」は彼女が引き
揚げてきてから30年以上過ぎていたといい、自分の罪や人間のエゴ、
全部さらけださないと価値がないでしょ、ずいぶん悩み、書いたあとも
恥ずかしかった、と述べている。
なかにし礼は、日本という国家に3回見捨てられた、という。まず軍が
見捨て、外務省も居留民を日本に帰す意志はない、引き揚げも国家では
なく民間の力だった、そんな国家とつるんで加害者となった自分たちを
問い直す、それが僕の小説の原点です、という。
この記事は、見出し文字が“人間の深淵さらけ出す”“飢え・極寒 抑
留と逃避行”とあり、旧満州国の司法部や文教部の次長をしていてモス
クワやシベリアに抑留され、帰国後に「ソ連獄窓十一年」を書き残した
前野茂を父に持つ翻訳家松岡和子が、父の姿が重なるというシェークス
ピアの、主役が十二年間孤島に流される「テンペスト」の後書きで
「記録する大切さを引き継ぎたいし、日本人が満州のことを忘れちゃ
だめだと思うから」と触れている、ということばで締めくくっている。
戦後60周年たち、これからやらなければならないことは「語り継ぐ」
こと、だということが答えかもしれない。
<我孫子に住んだ文化人>
我孫子駅前に建っている、かつて我孫子に住んだ文化人の碑
に書かれている名前は・・・
武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦、柳田国男、
嘉納治五郎、バーナード・リーチほか。
(真ん中の写真は大正6年春、武者小路邸にて
白樺派の3人、左から実篤、柳宗悦、志賀直哉)
<白樺文学館ホームページ>
http://www.shirakaba.ne.jp/main.htm
(このURLのリンク先に我孫子市もあります)
彼らが住んだ頃、手賀沼はきれいな沼であったが、その後
生活排水が流れ込んで、長らく日本一汚い湖沼の不名誉を
担っていたが、利根川から地下を通って水を引き入れて、
手賀沼の汚れた水を浄化して江戸川へ、これも地下を通って
流すことによりようやく最近日本一の不名誉から逃れること
に成功した。
文化的にも、我孫子市は過去の文化的な香りを再興しようと、
いろいろ頑張っているようだ。市民劇団の活躍もその表れか。
先月8月21日(日)の話になりますが、千葉県の我孫子市民会館で
市民劇団「あびこ舞台」の戦後60周年記念特別公演「声なき氷像」
を拝見しました。旧満州へ渡った人たちの悲惨な運命と、生き残って戦
後日本へ帰ってきた残留孤児の過酷な人生を描いたものです。残留孤児
に6才の少女と沢山の小学生が出演、ハーモニカを吹く開拓団の老人に
86才の新人、若い俳優さん、中高年齢の劇団員の方々、みんなすばらし
い演技を見せてくれました。大変感動しました。若い頃から、戦争の母
物語とか、この種の映画を沢山観てきましたが、今回もあの悲惨な運命
過酷な人生に涙が止まらなくて困りました。詳細は他の方のこの舞台に
関するブログを発見し、下記にリンクしましたの見てください。
これは公演前日のお知らせです。
ブログ<Echoo!-エコログ>
http://echoo.yubitoma.or.jp/weblog/imaiyshd/eid/173342
下の2枚の写真は舞台終了後のカーテンコールの時に劇団主宰者であ
る飯牟礼一臣さん(70才、芝居の原作者、元市会議員)の挨拶と俳優
紹介、花束贈呈の場面ですが、次の写真の後方真ん中にいて赤い花束を
持っている方はこの芝居の座長で、芝居の中でも重要な役をされていた
藤江孝さんです。藤江さんについては私も芝居以外のことで少々知って
いるのですが、私がこの劇団の芝居を観るのは初めてです。今回は座長
の藤江さんの親しい知人グループに誘われて観に行きましたが、実は芝
居の内容もあまり詳しく知りませんでした。戦後60周年記念、声なき
氷像、というタイトルと題名から、過去の戦争に関するものだというこ
とは分かっていましたが、念のため、行く前にインターネットで我孫子
市のことについて調べてましたら、この市はなかなか文化活動が盛んな
町で、かつてこの町の手賀沼周辺には白樺派の人たちが住んでいたこと
が分かりました。また、市民劇団もいくつかあり活発な活動をしている
ことが分かりました。
しかもこの劇団が、
第2回手賀沼演劇賞「最優秀グランプリ」「最優秀脚本賞」
に輝いていることを知りました。
また、地元我孫子市に先立つ7月には横浜から呼ばれて、鶴見会館で
1000人の観客を魅了したことも分かりました。戦後60周年の節目
にいい芝居を観せていただきました。主宰者(代表)の飯牟礼さん、
座長の藤井さん、そして劇団員のみなさん、これからも活躍を期待して
います。
<戦後60周年、今何をすべきか>
今年は戦後60周年ということで、新聞などでも特集記事を書いていま
すが、声高かに叫ばれている割には上滑りのような印象がします。若い
世代にも真剣に考えている人たちは多いのですが、やはり実体験がない
ために傍観者的感覚の人たちが多いことも確かです。また、年輩者でも
70才以上、つまり終戦時に10才くらいの年令に達していないと子供
の頃目にした終戦後のひもじい記憶がだんだん定かではなくなってきて
おり、加えてこの年代の方々の親も多くは亡くなっている可能性もあり
遠い昔の、今の自分にはあまり関係のない過去の出来事、になってきて
いることも確かなのです。そういう中でどうやって戦争の悲惨さを伝え
て行くのか。
朝日新聞の夕刊が「ニッポン 人・脈・記」という記事を連載している
が、9月5日号(「満州」の遺産⑩)で、79才になる宮尾登美子は、
当時満州の開拓地にいたが「生後50日の長女を背に・・・、満州は空
襲もない楽土だと信じていた。・・・・収容所に捨ててあった麻袋で服
を作り、おむつを盗む。娘を売ってうどん代にと考えたことさえあった、
と書いている。なかにし礼も、「父もソ連軍による強制労働で肺を病み、
あっけなく死んだ」という。彼の小説「赤い月」は文学座が舞台化し各
地を回っているが、その中に、日本人の仲間を救うために若い女性が
ソ連兵に体をあずける場面がある。戻ってくると視線は冷たい。この場
面は、あびこ舞台では一人は気が触れ、一人は自殺した。また、あびこ
舞台の主人公の残留孤児は、宮尾登美子の「うどん代」の気持ちと裏腹
に、親が子を生かすために中国人に子を預けた結果が残留孤児となった
ものであり、戦争の悲惨さ、残酷さに置いて相通ずるものである。
宮尾登美子が旧満州での体験を赤裸々につづった「朱夏」は彼女が引き
揚げてきてから30年以上過ぎていたといい、自分の罪や人間のエゴ、
全部さらけださないと価値がないでしょ、ずいぶん悩み、書いたあとも
恥ずかしかった、と述べている。
なかにし礼は、日本という国家に3回見捨てられた、という。まず軍が
見捨て、外務省も居留民を日本に帰す意志はない、引き揚げも国家では
なく民間の力だった、そんな国家とつるんで加害者となった自分たちを
問い直す、それが僕の小説の原点です、という。
この記事は、見出し文字が“人間の深淵さらけ出す”“飢え・極寒 抑
留と逃避行”とあり、旧満州国の司法部や文教部の次長をしていてモス
クワやシベリアに抑留され、帰国後に「ソ連獄窓十一年」を書き残した
前野茂を父に持つ翻訳家松岡和子が、父の姿が重なるというシェークス
ピアの、主役が十二年間孤島に流される「テンペスト」の後書きで
「記録する大切さを引き継ぎたいし、日本人が満州のことを忘れちゃ
だめだと思うから」と触れている、ということばで締めくくっている。
戦後60周年たち、これからやらなければならないことは「語り継ぐ」
こと、だということが答えかもしれない。
<我孫子に住んだ文化人>
我孫子駅前に建っている、かつて我孫子に住んだ文化人の碑
に書かれている名前は・・・
武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦、柳田国男、
嘉納治五郎、バーナード・リーチほか。
(真ん中の写真は大正6年春、武者小路邸にて
白樺派の3人、左から実篤、柳宗悦、志賀直哉)
<白樺文学館ホームページ>
http://www.shirakaba.ne.jp/main.htm
(このURLのリンク先に我孫子市もあります)
彼らが住んだ頃、手賀沼はきれいな沼であったが、その後
生活排水が流れ込んで、長らく日本一汚い湖沼の不名誉を
担っていたが、利根川から地下を通って水を引き入れて、
手賀沼の汚れた水を浄化して江戸川へ、これも地下を通って
流すことによりようやく最近日本一の不名誉から逃れること
に成功した。
文化的にも、我孫子市は過去の文化的な香りを再興しようと、
いろいろ頑張っているようだ。市民劇団の活躍もその表れか。
歌舞伎がご趣味とプロフィールで拝見いたしましたが、こちら讃岐金比羅さんの麓に日本最古の芝居小屋「金丸座」があり、毎年桜の咲く頃「金比羅大芝居」が二週間公演されます。全国的な人気興行でチケット入手が困難ですが、何とか地元の利を生かして鑑賞を楽しんでいます。
300年タイムスリップして江戸情緒に浸ることの出来る舞台が楽しめます。