<そもそも因果の花とは>
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
そもそも、因果とて、よき・悪しき時のあるも、公案を尽くして
見るに、ただ、めづらしき・めづらしからぬの二つなり。
同じ上手にて、同じ能を、昨日・今日見れども、面白やと見えつ
る事の、今また面白くもなき時のあるは、昨日面白かりつる心慣
(な)らひ、今日はめづらしからぬによりて、悪しと見るなり。
その後、またよき時のあるは、先に悪かりつるものをと思ふ心、
また、めづらしきに返りて、面白くなるなり。
"""""""""""""""""""""""""""""
そもそも、因果というものには、良い時と悪いときがある
ことを、よくよく工夫し尽くして考えてみると、結局は、
ただ「珍しい」か「珍しくない」か、の二つに帰結する。
同じ上手が、同じ能を演ずるのを、昨日今日と続けて見た
場合でも、昨日は大変面白いと感じたものが、今日は少し
も面白くないと感ずることがあるのは、昨日見て、面白か
ったと感じた印象が心に残っているため、同じ演技を今日
は珍しいと思わず、今日の能は良くないと思うのである。
その後にまた、同じ上手の、同じ能を見て、今度は面白い
と感ずることがあるのは、これは、前回は良くなかったとい
う気持ちが、今度は反転して、また珍しさを感ずるように
作用して、それで面白い、と思うのである。
*******************************
![]() | 世阿弥―花と幽玄の世界講談社このアイテムの詳細を見る |
********************************
<されば、この道>
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
されば、この道を極め終りて見れば、
花とて別(べち)にはなきものなり。
奥義を極めて、よろづにめづらしき理(ことわり)を
我れと知るならでは、花はあるべからず。
""""""""""""""""""""""""""""
されば、能の道を極め、研究し尽くして考えてみると、
花というものが、特に別個に存在しているわけではな
いのである。
能の芸の奥義を体得し、あらゆる場合にわたって、どう
すれば、珍しさを生み出せるか、その道理を自分自身で
悟らない限り、花は見つからないのである。
*******************************************
<私見>
上記は、世阿弥の能芸に関する「秘伝」の一部である。
最後の章、さればこの道を極め終りて見れば・・・以降
を読むにつけ、稀代の剣豪、宮本武蔵を想像する厳し
さである。
最後は、すべての欲得、すべての殻を脱ぎ捨てて、厳し
い能の修行の行き着く先は、無、であり、虚、であると
云っているようにも思える。
人人心心の花か。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
世阿弥は、次のように言っている。
「この別紙口伝は、能の芸において家の大事となるもの
ゆえ、一子相伝とする。たとえ跡継ぎが一人しかいな
くとも、その者が無器量であれば伝えてはならぬ。
家はただ続くから家なのではない。継ぐべきものがあ
るから家なのだ。家の跡継ぎもそこに生まれただけで
そこの跡継ぎとはいえない。その家が守るべきものを
知る者のみ、その家の人(跡継ぎ)といえるのだ」と。
"""""""""""""""""""""""""""""""""""""""
この別紙口伝の條々を先年、弟の四郎に相伝したが、
一子元次も能の器量があるので、重ねて相伝するも
のである。秘伝である。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
最後に、世阿弥著「花鏡(かきょう)」から次の
言葉を以って、世阿弥語りを終わることとしたい。
一、是非、初心を忘るべからず
二、時々の初心を忘るべからず
三、老後の初心を忘るべからず
(念のため)
初心に返って・・・は意味のはき違いである。
常に成長しているので、返ってしまうと、能の
未熟な時に戻り、修行の成果は元の木阿弥
になってしまうのである。あくまでも、
初心を忘るべからず、なのである。
<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます