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大学院であまり役に立ちそうもない勉強をしたり、陶芸、歌舞伎・能、カメラ、ときどき八ヶ岳で畑仕事、60代最後半です。

北のあじさい寺・・・雨の紅葉につつまれた静寂の本土寺

2009-11-18 21:35:10 | 自然
平成18年6月以来3年5ヶ月ぶりにブログ執筆を再開するにあたり、11月17日久しぶりに松戸市平賀にある雨の紅葉に包まれた静かな本土寺(ほんどじ)を訪れた。


私たちを迎える本土寺の入り口に建つ仁王門


本土寺は長谷山本土寺といい、日蓮入滅の寺として有名な池上の長栄山本門寺と鎌倉比企ヶ谷の長興山妙本寺とともに日蓮の高弟日朗門下の三長三本と呼ばれる本山の一つなのだそうだが度々の法難にあい今は700年前の面影をうかがい知ることはできないという。しかし常磐線北小金駅を下車して細い道を少し行くと長~い参道が見えてくるが、春の終わりから夏にかけて沢山の参拝客が紫陽花を観に来ることで有名である。ここは知る人ぞ知る鎌倉の名月院と並ぶ江戸の北の名刹あじさい寺なのである。このごろでは紅葉が美しいところから秋には 四季の寺紅葉の本土寺 とも称している。



写真の上の方が白くぼやけているのはカメラのレンズに雨の雫がたれたものである。どのように映るのかそのままシャッターを切った。




確かに雨の中の「紅葉」は何とも言えない「たおやか」な美しさが感じられた。私は雨や霧に包まれた花のたたずまいが大好きである。しかし雨のせいか人影はまばらであった。真っかな紅葉もあれば、まだ紅くなり切れていない葉もあり、また蒼い葉もありで、それはそれで雨の滴りを受けて風情があった。22日、23日の連休の夕方にはライトアップするのだろう、雨の中で業者が作業をしていた。明日からは晴れる予報なのでそれはそれで楽しみである。



雨をたっぷり吸い込んだ蒼い草、その上に落ちた大きな紅葉の葉、最近まで葉を宿していたはずの裸の樹、その先には雨に打たれた池、晴れやかさと落ち着きが感じられる秋雨の光景。



小道の先の池には春になると菖蒲が一杯咲き誇り、周囲の紫陽花とともに見事な花の饗宴が私たちを楽しませてくれる。











下から見上げる五重塔は一段と天に聳えるように見える。


ついでの話だが、松戸市平賀と言う地名は、700年前頃この辺一帯に勢力を誇っていた源氏の名門平賀家の屋敷があったところで、本土寺の説明書きには、日蓮の二番目の高弟日朗聖人が平賀家の屋敷跡に法華堂を勧奨したのが本土寺の始まりであると書いてあった。

その日朗聖人は平賀家の3人の子息の長男であると同時に、日蓮の二番目の高弟であり、日蓮亡き後池上の本門寺を率いた人物だそうである。次男は日像聖人といい、また三男は日輪聖人といい、いずれも日蓮の高弟とのことである。

歴史を紐解くと、平賀一族の名は現在の東広島地方に多くでてくるが、信州の佐久地方にも名前が見える。江戸時代の平賀源内もその一族だという説もあるが定かではない。





この寺には「秋山夫人の墓」がある(昭和41年松戸市文化財指定)。

この表札に書いてあることを私の補足を加えて説明すると次の通りである。秋山夫人とは徳川家康の側室で武田信玄の家臣秋山虎康の娘(名を於都摩)であるところから、於都摩の方、秋山夫人または下山の局と呼ばれた。その秋山夫人が生んだ子が武田(松平)信吉で家康の五男に当たる。武田信吉は天正18年(1590)に下総小金城3万石に封じられたが、秋山夫人はその翌年、小金で病死し本土寺の門前に葬られたという(年表に間違いがなければこのとき信吉は8歳であった)。本土寺は距離的にも小金城(今は小金大谷口城址)と目と鼻の先にある。さらに表札には、現在の墓石は信吉の甥、水戸光圀が貞亨元年(1684)に建立したものであると書いてあるが、なぜ水戸光圀なのかと言うこと、なぜ下山の局と呼ばれたのかと言うことについても書いてないので更に補足が必要である。長くなるので別掲で述べる。それにしても、本土寺も松戸市も説明不足、宣伝が下手とみえる。


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