2011年3月11日。マグニチュード9.0の大地震が発生した。「東日本大震災」である。1000年に一度の大地震・大津波そして福島第一原発の原子力災害。なにもかも予想だにしなかった大惨事だ。特に原子力発電所の「安全神話」が揺らいでいるのは、日本に大きな転機をもたらす予感がする。
去る5月6日。浜岡原発の停止の要請が首相からなされた。その前日のテレビ放送では(国立)理化学研究所の所長が「原子力を含め人間が作ったものに絶対安全というのはありえない。」と明言した。国のエネルギー政策が転換しそうな予感もする。
それを受けて節電、つまり「電気の使い放題」という社会のありかたも変わっていきそうだ。当たり前に使っていた水道を始め、「普通の生活」がいかに貴重かなどとも言われ始めた。
渋谷駅前広場にたむろする「漂流少女」と呼ばれる少女らの意識にも変化の兆しがあるとか。様々な分野で何かが変わりつつあるように感じられる。
こういったことが、短歌の世界にどんな影響を与えるだろうか。
社会全体の高度経済成長・二回のバブル経済の間に定着した、人々の考え方が変化するのではないか、と僕は思う。つまりこの数十年間、当たり前と思われていたことが、見直されるのではないかということだ。(節電により繁華街の夜は暗くなったが、ヨーロッパに長く滞在した人はこう言ったそうだ。「まるでヨーロッパの夜のようだ。」)
短歌の分野で言えば、前衛短歌の強い影響、バブル経済にあと押しされたと穂村弘が言う、ライトバース、ニューウェーブの潮流が見直されるのではないかということだ。
主題の明確な作品、新しさと称して「奇抜なことを誉めたたえる」のでなく地に足が着いた作品が再評価されるのではないかということだ。5・7・5・7・7の定型さえ守れば「何でもあり」と言うのも、やたら難解な言葉を連ねたものも、軽いノリで作られた短歌も忘れ去られていくだろう。
すでに岡井隆・吉本隆明らが発言し、「短歌研究」誌上では議論の混線が続いている。「作品の主題」「調べをととのえる」などのことが総合誌上で展開されている。
斎藤茂吉は「短歌の新しさ」についてこう言う。
「誰でも新しい短歌、将来の短歌といふことを思ふが、さて其の新しい短歌は古の歌に比して立優ってゐるか否か、それを時に念って見なければならぬではないか。」(「短歌一家言」)・岩波文庫「斎藤茂吉歌論集」190ページ。
塚本邦雄もまたこう言う。
「(著作の)当否を決するのは時間と呼ぶ畏るべき批評家である・・・。」
