岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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1933年(昭和8年)の斎藤茂吉と土屋文明

2011年07月22日 23時59分59秒 | 短歌史の考察
1933年(昭和8年)は近代日本史上、重要な年となった。満州事変を非難された日本が国際連盟を脱退したのである。こうして国際的孤立を深めた日本は、戦争終結の機会を失った。国際連盟の会議場から立ち去る松岡洋右外相を、「わが国代表、堂々の退場」と新聞の見出しが躍り、ラジオでも放送され、日本全体が湧きたった。

 ところが最近、「新説」があらわれた。「国際連盟を脱退することにより、満州国の問題が国際連盟の議題にのぼるのを阻止しようという「その時代のグローバリズム」だったというのだ。論拠は戦後の松岡自身の証言である。しかしこれは当事者が後日語った「あと知恵」であって、信憑性はない。こんな詭弁もあるのかと驚くばかりである。松岡の証言は、歴史学の史料批判に耐えられるものではない。

「私は本当は戦争に反対だったのだ」という典型的自己保身だ。

 この年が一つの転機となり、日本はみずから米・英との交渉を困難にした。グローバリズムとはベクトルの方向が逆だ。満州事変で国際的批判を浴びた日本だが、そのさなかの1933年1月に関東軍(南満州鉄道及びその付属地とリャオトン半島を守備する日本軍)が「熱河侵攻」< 山海関・満州と華北の境界 >を越えて、河北の熱河省< 現在の河北省 >を満州国に組み入れようとする軍事作戦)を行ったことは、国際連盟の空気を悪化させた。満州国に関するリットン報告は日本に妥協的なものだったが、「日本を焦土にしても満州の独占的利権は譲れない」という、松岡の前任者の「焦土外交」は後に現実なものになり、日本は焦土と化した。松岡外交もその線上にある。そして1933年(昭和8年)2月、日本は国際連盟を脱退し、同時に脱退についての詔書が発布された。

 この年に斎藤茂吉は、戦意高揚の時事詠を詠んでいる。

・うつせみは和(のど)に死なじと甲(よろ)ひつついにしへ人もなげきけるかも・

・このゆふべ労働(はたらき)びとのほとつらは首(かうべ)をあげてかへりくる見ゆ・

・民族のエミグラチオはいにしへも国のさかひをつひに超えにき・

・街にいで来て熱河戦闘の実写真をまなぶた熱くなりて見て居り・

 二首目で分かるように「経済恐慌を脱するには満州は日本の生命線である」との当時の国策に沿った作品である。(岩波文庫「斎藤茂吉歌集」171ページ。)


 同じ年、土屋文明は次のような作品を詠んでいる。

・吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながらほしいままなり機械力専制は・

・横須賀に戦争機械化を見しよりもここに個人を思ふは陰惨にすぐ・

・無産派の理論より感情表白より現前の機械力専制は恐怖せしむ・

 三首目で分かるように機械力(=機械化された戦争)が続いたあとに、人間はどうなるだろうか、という危惧・現実直視・現実批判がある。(小市巳代司編「土屋文明百首」44ページ。)


 斎藤茂吉と土屋文明はともに伊藤左千夫の弟子で、斎藤茂吉が8歳年上だが、年譜を見ると、茂吉は日清戦争時に戦争ごっこに夢中になったが、土屋文明は日清日露戦争時によもに戦争ごっこに夢中になる年齢ではなかった。「三つ子の魂百まで」という諺があるが、幼児期の過ごし方の違いが、この辺にあらわれているのではないだろうか。

 またこの事実は、迂闊な時事詠を軽々しく詠む危険性を教えている様に僕には思えるのだが、いかがだろうか。

 なお戦中戦後の茂吉の言動については、品田悦一著「斎藤茂吉」にくわしい。岡井隆著「茂吉の短歌を読む」の「第1講・茂吉短歌の読み方/茂吉歌集の大概」「第4講・昭和前期の茂吉」でもまとめられている。

 品田のものは「実証主義・文献学的著作」であり、岡井の著作は「概略をつかむ入門書」的なものである。



付記:参考文献・江口圭一著「15年戦争の開幕」、竹内理三ほか編「角川日本史辞典」、井上光貞監修「三省堂日本史小事典」。

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