岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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正岡子規「歌よみの与ふる書」覚え書(2)

2013年03月22日 23時59分59秒 | 短歌史の考察
正岡子規「歌よみに与ふる書」(2)

 こういった半ば挑発的な言い方の一方で「与ふる書」第四回と第五回とでは、世上名歌と言われるものを具体的に批判し、第六回では旧派から出された子規への批判に反論している。そして第八回、第九回では子規の選んだ秀歌を採り上げ、秀歌たる所以を説き、第十回ではこれからの短歌について述べている。

 何しろ文明開化の時代に書かれたものである訳だし、「古今集」についての評価も分かれるところであるが、第三回と第七回とには現代にも通じる問題提起が含まれている。

「与ふる書」の第三回では、和歌の世界の閉鎖性とでもいうべきことを論じている。子規の言うところを箇条書きにすると、次のようになる。

1、歌人は「支那(=ママ)の詩を研究するでも無く、西洋には詩といふものが有るやら無いやらそれも分からぬ文盲浅学」である。

2、歌人は「歌を一番善いと申すは固より理屈も無き事にて・・・俳句には俳句の長所あり、支那の詩には支那の詩の長所あり、西洋の詩には西洋の詩の長所あり・・・その長所は固より和歌の及ぶ所にあらず」ということが理解出来ていない。

3、調べには「なだらかなる調べ」「迫りたる調べ」があるのにもかかわらず「歌よみは総てなだらかなる者とのみ心得候と相見え」る状態である。

 短歌、俳句、詩を無意識のうちに区別し、相容れないものと決めつけたり、調べはなだらかにするに如かずと思い込んではいないだろうか、と考えさせられる。ただし「迫りたる」でも「なだらかなる」でもあくまで調べ(=リズム)は尊重すべきで、リズムを無視した韻文(=詩歌)は有り得ないとは思う。

 第七回は用語の問題である。

 「和歌」の腐敗は「用語の少なき」が原因であり、「外国語」を用い「外国に行はる文学思想」を取れ、漢語、洋語、サンスクリット語を用いるとも「日本人が作りたる上は日本の文学に相違」ないのであって、漢語と洋語、俗語など用語の拡大を勧めている。

 尤も現代の様にカタカナ語が氾濫する状態は想定してはいないので、やたら目新しい言葉を使うのもどうかと思うが、必要以上に「うたことば」「雅語」に縛られる必要はないだろう。

 子規はまた、第八回の終わりで、「非合理の事にて文学的には面白き事不少候(=すくなからずそうろう)。生の写実と申すは、合理非合理事実非事実の謂い(=いい)にては無之候(=これなくそうろう)」と述べ、物語性、フィクションの導入も示唆している。「写生」の有り方に対して非常に重みを持った言葉ではなかろうか。
                
                      (終わり)

 以上の文は、僕の書いた初めての評論である。文章は稚拙だが「近代短歌に学ぶ」という姿勢が前面に出て、このブログの原点とも言える。




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