岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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正岡子規「歌よみの与ふる書」覚え書(1)

2013年03月21日 23時59分59秒 | 短歌史の考察
正岡子規「歌よみに与ふる書」覚書(1)


 短歌を作り始めてから、身の回りの出来事に多少なりとも敏感になった様な気がしている。今まで見過ごしていた四季の移ろいは勿論、自分の心を見つめるということもする様になった。

 短歌など作ったこともなく、右も左も分からない中で、メモ帳を常に携帯し、見るもの聞くものを片っ端から31音に詠んだ。近代の歌人の秀歌と呼ばれるものもノートに筆写した。正岡子規、伊藤左千夫、島木赤彦、斎藤茂吉、佐佐木信綱、落合直文、尾上柴舟、若山牧水、北原白秋、与謝野晶子など、その人数は27人に及ぶ。歌論書も入門書ではあるが岩田正、岡井隆、俵万智らの著作を読み、今は土屋文明の著作を読んでいる。

 このようなことをするうちに、正岡子規の存在の大きさを思うようになった。短歌との出会いが百人一首であった僕にとって、「短歌=百人一首的世界」という何か先入観の様なものがあった。しかし、それは大きな間違いであったようである。「御公家様のお遊びであった和歌」を「文学としての短歌」にまで高めたのは子規である。そして子規の後継と自他ともに認める「アララギ」が歌壇の中心となってから、「アララギ派」「反アララギ派」の双方にとってその焦点は「写生」の捉え方であったように思う。

 作歌の基本を「写生」に置くにせよ、それを否定するにせよ、子規の歌論、特に「歌よみに与ふる書」(以下「与ふる書」としるす)

 「与ふる書」は明治31年2月12日から3月4日まで「新聞日本」に連載された子規の歌論である。その内容は要約すれば「万葉主義の提唱と古今主義の否定」だが、我々が作歌する場合の大きな参考にもなろうかと思うので、その概略について纏めておきたいと思う。

 「与ふる書」の第1回と第2回では、6人の歌人を採り上げて批評している。

 この中で子規は万葉集以来のすぐれた歌人として源実朝を挙げている。そして「人丸(=柿下人麻呂)赤彦(=山部赤人)の余唾(よだ=余った唾)を舐るでも無く」「貫之(=紀貫之)定家(=藤原定家)の糟粕(=カス)をしゃぶるでも無く、自己の本領屹然として」おり、その実力は「只器用といふのでは無く、力量あり、見識あり、威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる」という評価を下している。

 賀茂真淵については、万葉集を褒めてはいるが、「世人が万葉中の詰屈なる歌を取りて『これだから万葉はだめだ』などと攻撃するのを恐れたるかと相見え申し候」とその不徹底ぶりを指摘している。楫取魚彦(かとりなひこ=真淵の門人)は「万葉を模したる」歌人ではあるが、「猶これと思ふ者は極めて少」なく、貫之、定家については、「歌らしき歌は一首も相見え不申候(=相見え申さず候)」「門閥を生じたる後は・・・・全く腐敗致候(=腐敗致し候)」と真に辛辣な評価を下している。香川景樹(=旧派和歌の歌人)の歌は「ひどく玉石混交」であるとし、「今の景樹派」は「俗なところを学びて景樹よりも下手であると言い放っている。

   (続く)



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