岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

近藤芳美の軍隊経験とその作品

2011年09月01日 23時59分59秒 | 短歌史の考察
僕が短歌を本格的にやり始めたのは、2000年(平成12年)。今年でちょうど11年目になる。近藤芳美は2006年(平成18年)に亡くなっているから、僕にとって近藤は「同時代の歌人」とは言い難い。いわばすれ違った歌人である。

 かろうじて近藤の作品を読めるのは、手許にある2冊のアンソロジーと、古書店で手に入れた1960年代に出た筑摩書房日本文学大系「現代歌集」だけだった。

 最近或る人から電話を頂いた。「戦争詠として宮柊二の< 山西省 >はよく知られていますが、近藤芳美はどうなのでしょう。何か御存知ありませんか。」

 以前、佐藤佐太郎の「純粋短歌論」についての問い合わせがあって知っていることを答えたことがあったが、近藤芳美の「戦争詠」についてはよく分らない。ただ次の作品はよく知られているから覚えている。

・世をあげし思想のなかにまもり来て今こそ戦争を憎む心よ・

・国論の統一されてゆくさまを水際立てりと語り合ふのみ・

どこか沈黙・傍観という感じが際立つ。(これは僕だけの感じ方ではなく、岡井隆・小高賢もそう感じている。岡井隆著「私の戦後短歌史」41ページから42ページ)作品だけから読みとっても、そう感じられる。宮柊二の「山西省」のような臨場感がないし、シベリア抑留体験者の作った歌のような切迫感もない。(カテゴリー「作家・小論」の「近藤芳美・小論」参照)従軍経験がないような印象がする。(かなり前に記事の中に従軍経験がないと書いたこともあった。それは訂正しておく。)それほど近藤自身の戦争体験・従軍体験の表白が少なくとも人口に膾炙した作品、近藤自身の自選によるアンソロジーの作品のなかにも全く感じられないのである。

 ところが島田修二の作品には次のようなものがある。

・アジア史に人間の罪誌(しる)しつつわれが裡(うち)なる兵士老いたり・「青夏」

ここで言う兵士は作者自身または亡き「戦友」だろう。かつて自分がアジア近隣の国に攻め込んだ軍隊の一員であった事を深く胸に刻んでいる作品である。近藤芳美の作品にこのようなものがあるのか僕は知らない。だが近藤芳美には詠めない作品のような気がするのだが。


 それでも気になるので、書棚の奥から2冊ほど書物を引っ張り出した。

 それによれば、近藤芳美の軍隊経験は以下の通りだ。

1・1940年(昭和15年)9月、補充兵として船舶工兵の部隊に配属され華中へ。

2・1941年(昭和16年)訓練中に足を負傷。肺結核であることも判明して、南京、上海と後方へ送られ、広島宇品港に帰り、原隊復帰の準備をする。

3・1942年(昭和17年)5月召集解除。年末に再度招集。即日帰郷。

4・1943年(昭和18年)9月上京。

 斎藤茂吉が「のぼり路」「霜」の作品群のほか、膨大な「戦争詠」を詠んだ時代である。また宮柊二が山西省(現・河北省)で死地をかいくぐっていた時期でもある。佐藤佐太郎は喀血して床に就いていた。


 この年譜以外に、近藤の第1歌集「早春歌」の「後記」には次のような記述がある。

「(1940年・昭和15年)9月25日、広島で入隊、数日後には宇品から御用船に乗せられた。僕たちは揚子江を何日も遡って、武昌につれて行かれた。そして、武昌の工場の廃墟の屯営で、船舶工兵としてはげしい訓練を受けた。・・・翌16年2月、作業中脚に負傷し、兵站病院に運ばれた。はげしく肉体を自らさいなんだ後、吐息をつくやうな思ひだった。部隊はいつか大陸の何処かに転進し、病院に残された僕は間もなく胸を病んで居る事を軍医に知らされた。僕は南京上海と病院を転々と後送されて行った。・・・僕は南方のどこに居るかわからない隊を追ふため、乗せられた船で宇品(=広島)にむかった。しかし其の途中再び発熱、宇品から、広島の三滝療養所に入れられた。退院し除隊になったのは17年初夏である。」

 やはり召集されたものの、戦闘らしい戦闘には加わらなかったようだ。徴兵され大陸に渡ったものの、実質上は待機状態が続いたことになる。それが宮柊二や島田修ニとの優劣の問題ではないのは言うまでもないが、戦争を主題とした作品の詠み方の違いにつながっているのは間違いないだろう。特攻隊の訓練を受けながら、出撃直前に終戦を迎えた兵士の境遇に似ていなくもないが、そういう印象の作品もない。(あったらお教え頂きたい。電話でも葉書でも結構。)


 1975年(昭和50年)に出版された歌集「吾ら兵なりし日に」に挿入された短文には、

「しばらく作戦らしい作戦はなかったが、・・・ゲリラ討伐の小作戦に参加することもあった。わたしは上陸舟艇の秞手であった。」とある。やはり召集されたが、戦闘らしい戦闘には加わらなかったようだ。原隊は南方を転戦の末、全滅したと短文で終っているが、それは短歌作品ではない。

 その歌集「吾ら兵なりし日に」について、近藤自身は次のように言う。

「しかし整理を思い立つたびに、一種の嫌悪感に原稿紙を裂き捨てなければならなかった。作品というにはあまりの粗雑さのためである。人眼を怖れてのそれらの歌は、当然表現の配慮、ないし推敲ということの入る余地もない筈のものであった。」(「吾ら兵なりし日に・あとがき」)

 またあとがきの追記には、

「一兵士・・・むしろ一病兵だった日のわたしの短歌はこれだけである。・・・(この歌集は)むしろ、非売品といった程度のものがよい。」とまで言っている。


 いわば作品として不完全なものを、しかも戦後30年も経って何故近藤は歌集としたのだろうか。軍事郵便検閲をかいくぐって、家族に送った葉書に書いたものを妻の弟の手帳に書きとってもらっていたのを、「短歌研究」に発表(1959年・昭和34年)の数年前に夫人が探し出してくれたと近藤はいうが、歌集(冊子)にしたのは、1975年(昭和50年)。

 年表を見ると1975年(昭和50年)にはロッキード事件があり、近藤の「静かなる意思」に登場する政党が、戦前との政治の継続性を問題視した年である。(カテゴリー「短歌史の考察・近藤芳美の代表歌集」参照)

 期せずしてそれと同時期の出版となったのだが、そう考えるとかなりプロパガンダ的歌集だとは言えまいか。(少なくない歌人が近藤の作品を「プロパガンダ」と呼ぶのはこの辺りにあるのかも知れない。)

 その近藤に宮柊二の「山西省」のような、臨場感を求めるのは難しいのかも知れない。とは言え、近藤が戦争の「経験」を世に問うたことは貴重なことだ。たしかあの時期(1975年)には治安維持法をめぐる歴史問題も浮上していた。

 その近藤芳美やその作品が語られるのがめっきり減った。「岡井隆の先輩」「道浦母都子が師事した」「朝日歌壇の選者」と間接的に語られる場合が多くなって来た。「忘れ去られようとしているもの」は戦争ではなく、近藤芳美という歌人の存在ではないか。そちらの方がより深刻な問題だと僕は思う。

 近藤の第1歌集「早春歌」は優れた抒情歌集だが、近藤の真骨頂は「社会詠」だろう。(「早春歌」に佐藤佐太郎の「歩道」影響を見出しているのは岡井隆。「近藤芳美集第1巻・解説」)だから近藤の切り拓いたものは「社会詠」と僕は思う。

 それだけに「社会詠」を詠みあげた近藤芳美の作品が直接語られることが少なくなったのは何とも残念だ。(たとえばネット上の「近藤芳美|人名辞典」の記事は半分以上が同姓同名の別人の記事か間接的な記事だ。)

「新しき短歌の規定」の執筆、「土屋文明論」「石川啄木研究」など戦後短歌に占める位置は大きなはずだと思うのだがいかがだろうか。




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