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岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

「詩人の聲」:2014年11月(3)

2014年12月04日 23時59分59秒 | 短歌の周辺
「詩人の聲」2014年11月(3)


11、伊藤比呂美 11月30日(日) 於)数寄和(西荻窪)


 15回目の公演。事前に「説教節が完成した。乞うご期待。」と聞いていたので、説教節の新作の台本が、読まれると思っていた。説教節は、説教浄瑠璃とも言われ、「山椒大夫」などの作品で知られる。浄瑠璃は現代では、文楽と呼ばれ、人形を使った演劇の一種と考えていい。

 (僕は大学の専門課程の「日本演劇史」で、浄瑠璃や文楽についての講義を受けた。)

 江戸時代末期に、河竹黙阿弥という、浄瑠璃作家がいたが、その黙阿弥の曾孫にあたる、河竹登志夫の門下の教授の講義だった。

 この知識があったので、「伊藤比呂美が説教節を完成した。」と聞いたとき、てっきり新作が、聴けると思っていた。

 だがこの公演は、説教節の、現代語訳が完成した、お披露目の会だった。まず伊藤から、説教節のあらましの説明があった。

 説教節、浄瑠璃と聞くと、何やら古めかしい印象がある。しかし、伊藤の話では、人間の葛藤、それも極めて現代的な葛藤を表現していると言う。事実、伊藤は自分が体験してきた、葛藤と重ね合わせて、説教節の性格を説明していた。

 また説教節の特徴として、決まり文句がいくつかあるとのこと。(「心は二つ、身は一つ」など。)いわば、伝統的な型があるのだ。ところが、そのあとの伊藤の話が意外だった。

「決まり文句がありますが、それはブロック遊びの、パーツのようなもので、組み合わせしだいで、いくらでもバリエーションがある。」

 これは「コロンブスの卵」だった。型はあっても、必ずしも古いとは限らない。内容次第で、現代的なものになる。僕はそこに、短歌との類似点を見た。

 伊藤は出版社の依頼で、説教節の名作の何本かを、現代語訳して、その一部を「聲」に載せたのだった。(平凡社、河出書房新社)

 聲は力まず心に響く、そしてリズミカルに物語を語ってゆく古典の現代語訳は、硬い、音楽性に欠けたものになりがちだ。しかし伊藤の現代語訳には、リズムがある。聴き手を惹きつける魅力がある。

 短歌を口語で表現すると、リズムが失われる場合が多々ある。かと言って、完全な文語では、古めかしさが目立つ。

 最近の僕の短歌は、文語1:口語2ほどの比率になってきた。謂わば文語は、僕の短歌の「隠し味」だ。この日に得たものを、リズムと格調を失わないで、短歌に口語表現を取り入れる参考にしたいと思う。




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