岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

2012年・斎藤茂吉生誕130年:二つ記念講演から

2012年05月26日 23時59分59秒 | 作歌日誌
今年が斎藤茂吉の生誕130年にあたるというのは、「星座α」の歌会の席上知った。130年といえば、金環食のようなもので滅多に遭遇するものではない。だから何とか体調を整えて神奈川文学館の展示を見て、記念講演を聞きに行こうと思った。茂吉を理解するには、全集を読むだけでなく、見たり聞いたりするのも必要だとも思った。だが体調は芳しくない。そこで展示を見、記念講演は四回のうち二回を選んで神奈川文学館に足を運ぶことにした。

 まず展示:「茂吉再生」というタイトルが気にかかった。いつ、どのように「再生」するのか、あるいは何を以って「再生」というのか。それが気になった。展示にも作品同様に主題があるはずである。全体は三部構成。「歌との出会い」「生を詠う」そして「茂吉再生」だった。戦後短歌の行方が不透明な時期に歌集「小園」「白き山」を出版し、遺歌集として「つきかげ」を残した。これが「再生」の意味だった。短歌は「第二芸術」だといわれて、第四の「短歌滅亡論」が盛んにいわれる時期に茂吉が歌集をあいついで出版したのが、いわば「短歌を救った」のである。

 展示では二つが大変印象的だった。青山脳病院の写真と義理の弟斎藤西洋への書簡である。青山脳病院があのように巨大だったとは思わなかった。また斎藤西洋への勉強の仕方の細々(こまごま)としたアドバイスはいかにも茂吉らいしいし、現代でも応用できる、核心をついた勉強方法だと思った。

 さて講演会。尾崎左永子、岡井隆の二人の歌人の講演のチケットを買っておいた。二人ならではのはなしが聞かれると思ったからだ。


:「茂吉先生の秀歌とわたくし」:尾崎左永子:五月三日。

 ・わたくしは佐藤佐太郎に十七歳で入門、その後十七年のブランクもあった。五十歳を過ぎて自分の目で茂吉を見られるようになった。

 ・生(命)を見つめる、男の真剣な生き方には女は近づき難い。こうした生き方は若い人とは違う。

 ・図々しいほどの思い切りのよさが、蔵王の短歌には」ある。

 ・茂吉の写生は「汎神論的」でみたものだけが真実ではないというもの。

 ・茂吉の歌から学んだのは「直接に端的に言う」ということだった。

 ・ショウペンハウエルの歌やドンキホーテの歌などには、悲しいユーモアのようなものがある。

 ・それはまた永遠の寂しさといっていいだろう。

 ・それでいて売犬の歌や菊科の花の歌には、生き物に対しての優しさが感じられる。

 ・食べ物に執着した茂吉と裕福な照子夫人とは合わなくて、茂吉も苦労しただろう。

 ・簡素だけれども一息に詠み、技術を技術と感じさせないところが、茂吉の「多力者ぶり」だ。

 ・茂吉の歌には固有名詞がはいるのは稀だが、固有名詞によって感性が固定されるからだろう。

 ・一旦消えてまた復活するのは歴史上よくあること。茂吉はそういう歌人だ。



:「斎藤茂吉とその師友たち」:岡井隆:五月二十日

 ・2012年の今年は斎藤茂吉の生誕130年だが、来年は没後60年にあたる。

 ・こうしてここで話すのも何かの因縁や縁(えにし)のようなものを感じる。

 ・父は岡井弘だが茂吉の弟子の末席の者だった。母は土屋文明の弟子。わが家が名古屋の「アララギ」の拠点。

 ・その縁で学生時代から、尾張、三河の「アララギ」の歌会の世話役を言いつけられ茂吉も文明もわが家に宿泊した。

 ・土屋文明の三人娘もわが家に泊まったことがある。

 ・斎藤家とは家族ぐるみのつきあいだった。だから皮膚感覚のようなものをもってつきあっていた。

 ・茂吉のお棺は担いだし、葬儀の受付(係)もした。

 ・斎藤茂太、斎藤宗吉(北杜夫)や茂吉の孫の茂一もよく知っている。

 ・斎藤家には茂吉の葬儀の関係で三回訪れた。葬儀、一周忌、三回忌。二回までは「岡井弘(代)」と記帳したが、三回目は「岡井隆」と記帳した。

 ・斎藤家や「アララギ」とは二重三重のつながりがある。

 ・九州大学病院で長塚節の最期を看取ったのは、医者でもあり歌人でもある久保猪之吉だった。

 ・久保猪之吉には、長崎時代の斎藤茂吉が受診し、猪之吉の妻のよりえさんには岡井弘がかわいがららた。

 ・慶応病院でインターンをしているときに、病院内で宗吉(北杜夫)と偶然会い話をした。「医者か小説家か悩んでいる」と相談された。

 ・こうして見ると因縁のようなものを感じる。

 ・島木赤彦は斎藤茂吉と同じく伊藤左千夫の弟子だがライバルでもあった。

 ・斎藤茂吉がヨーロッパに留学している間に、島木赤彦は「大虚集」「柿陰集」と歌集を出した。これは評判がよかった。

 ・普通の人間なら、ここでへこんでしまうが茂吉は違った。

 ・青山脳病院が全焼するという困難を抱えながら、「よし頑張るぞ」とばかり歌集「ともしび」を出版した。

 ・こうしてみると、師友の関係は繋がり・縁(えにし)・因縁といったもののようである。


 講演中のメモより箇条書きにしてみた。二人とも齢(よわい)八十はとうに越えているが、その著作からだけではうかがい知れない話を聞けたと思っている。こういうチャンスは滅多にない。

 なお斎藤由香さんの講演は、日本歌人クラブの総会で聞くことが出来た。三枝昂之の講演は「昭和短歌の精神史」を読んでその代わりとした。僕の意見は日本歌人クラブの総会後の懇親会で直接伝えることができたのは幸いだった。


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