オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

人間の進むべき方向

2011年08月22日 | Weblog

ある対象物を徹底的に改善してゆくと、

 完璧なものになり、問題点が全くないものへと変身する。その後どうなるんだろうか・・・。結局はある想定外の事象が起こって新たな問題が生じる。対象物に問題点がある時は対象物そのものが問題にされるが、対象物の問題が全て改善された時点においては、どこが責められるかと言えば、対象物を運用・管理する部門である。完璧なものを運用・管理しているのに何をしているんだと責められる。完璧なものにしたのもこの運用・管理部門だが、問題が起こるとその功績は忘れられて完璧なものを運用・管理できなかった責任を問われる。運用・管理部門は右往左往するばかりである。

この思考過程において何かがおかしい。

 何だろう。対象物がある閉鎖した領域のみで定義されていることである。この定義された領域のみで完璧を追及したに過ぎない。この閉鎖領域は現実的には無限空間に直結している。だから、周囲の状況が変化すればこの対象物の完璧さは崩壊してしまう。本来であれば無限空間に向かってこの対象物を改善することが求められているのである。改善は永久的に継続されるのが本来なのである。ひとつの閉鎖空間で完璧なものは現実世界では通用しないのである。ここに人間社会の勘違いがあるし、驕りがある。自然ってそんなに簡単で思い通りに作用できるものではない。

人間社会の作り上げた事実に完璧なものはない。

 ところが、人間はこれを完璧だと思い込んでいる。これは空想に過ぎない。事実と思っていたことは閉鎖された空間だけの事実であって、無限空間へ適用すると間違いだらけである。面白いことに、ほんの一部の現象の違いが結果に大きく左右するのが自然の法則でもある。それなのに人間はその部分を無視して勝手に仮想した事実を展開し確信し信じて疑わない。困ったものである。しかも、過去にそんな現実を何度も見せ付けられているのに懲りもせず勝手な想像にふけって間違った方向を追求しているように見えて仕方ない。少しは謙虚な気持ちになって宇宙を自然を神を先祖を敬うべきではないであろうか・・・。

だからと言って人間は消極的になることはない。

 結果や結論は別として、どの方向に進もうとしているかの人間の意志は尊いものである。大いに意思を持って挑戦すればいい。この挑戦こそが人間を成長させ発展させる。間違っててもいいのである。この挑戦がなければ発展も成長もない。試行錯誤にこそ人間の有用な特性である。よりよい成果を目指して一生懸命死に物狂いで試行錯誤する人間にこそ価値を認めることができる。今の社会に政治に経済に教育に外交にそのバイタリティーを感じることができるだろうか?私には感じることができない。人間の思い上がりは反省すべきであるが、所詮人間は思い込みの激しいことが特性でもある。

人間の将来へのアプローチの仕方は様々である。

 東洋的か西洋的か、大陸的か島嶼的か、保守的か革新的か、社会的か民主的か、先進的か後進的か、大多数か少数か、などである。いずれにしても、意思表示をどちらにするのかが重要であって、結果としてどれが正解とは言えないし、現実的にはこれらの折衷した調和したものが求められるのだろう。それにしても、各々が自己の意思表明を明確にして一生懸命努力することから最適解が生まれるのであろう。そして、お互いがお互いの主張を表明し合い理解し合う事が最も最適解に近づく過程だろうと思う。

それなのに、今の日本はどうだろう。

 一生懸命さが微塵も感じられない。ひたむきさも初心貫徹の心も感じられない。結果は違っていてもとにかく目指した目標に一直線に突き進むエネルギーは貴重であるし、この進む方向が皆を元気付ける。間違っていれば修正すればいいのである。その修正するたたき台さえも失っているのが今の日本ではなかろうか。これを打開するのは、ある局限した対象物の完全性を追及することではない。これを超えた無限大に通じる方向に向かって明確な方向性を示すことである。意志を明確にすることである。是非挑戦してもらいたい。たとえ失敗しても・・・。方向性さえ間違っていなければ・・・。


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