オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

運命のとらえ方

2009年03月14日 | Weblog

運命とは自然の営みの中にあり人間の意志にかかわりないのが運命であろう。

 「運命は変えられない」という考え方と「運命は変えられる」という考え方がある。自分に都合のいいことは変える必要はないが、自分に都合の悪いことは何としても変えたいのが人情である。どうでも良いことであれば問題にならないが、生命そのものや生きるための障害に関することは深刻である。これを自然に任せるのか、積極的に変えて行くのかは意見の分かれるところである。

例えば、遺伝子治療という分野がある。

 遺伝子を操作することにより画期的に変化をもたらすことができる。うまくやれば障害を取り除くことができるし寿命を延ばすことも可能である。ところが「障害」と思われていることが実は状況によっては障害でない重要な要素であることを考えに入れておかなければならない。不必要な遺伝子はない。どんな遺伝子でも必要とする場があるのである。細胞が死に絶えてゆくのは生物学上は必然の理である。生きるために不要な細胞は死滅させ(アポトーシス)、できの悪い細胞は殺さなければならない。この機能が壊れているのが「ガン」である。いくら不老不死でもガン細胞に冒されてしまっては生きている意味がない。

遺伝子治療で、生命を思うがままに操作できるようになったと仮定しよう。

 人間は何を望むだろう。まずは不老不死であり、次には欠陥のない完璧な最上級の身体であろう。これが実現できたとして、その後の人間はどのような生活をするのであろう。永久に死ぬことはないということは進歩も向上も発展も必要ない。永久に変化のない繰り返しの毎日が続く。どこを見ても完璧な人間だらけでは個性もないし競争も起こらないし必要ともしない。生命活動が続く限り不老不死であるが物理的な破壊による死はあり得る。人々は物理的な破壊による死を畏れることになる。

そして物理的な破壊を企てる欠陥人間が現出する。

 突然変異かも知れないし、遺伝子操作のミスかも知れないし、意識的な故意かも知れない。「物理的な破壊」という武器を持った欠陥人間が世界を凌駕することになる。欠陥人間に対抗するには欠陥人間しかない。完璧な人間を改良した大量の多種多様な欠陥人間が現出しお互いに「物理的な破壊」をめぐって競い合い争う。これは現在の世界と変わりなくこの道はいつか来た道ではないか。死の恐怖もなくなったわけではない。

遺伝子治療も考え物である。

 どこまで許されるかが問題であるが、そんなことは本来は誰にも決められない。しかし、少なくとも治療される個人の意志と、その周囲の人々の了解は最低限必要であろう。そのやりとりの中で当面は個別に論議されるものであろうと思う。その積み重ねにより原則が生まれる。生きる権利はあるが、1人の命を救うためにその他の人々の生存を脅かすものであってはならない。少なくとも人類全体が行っても問題ない範囲であることが必要であろう。1人だけ良くてあとは知らないと言うわけにはゆかない。そしてその内容は明らかに特異な遺伝子の欠陥の是正だけであり直接生命に影響するものに限定されるであろう。何もかもやり放題では自然の摂理を乱すし、その道は地球環境破壊が歩んできた道でもある。

容姿を変えたいとか、性格を変えたいとか、能力を向上したいとかあると思うが、

 このような目的で遺伝子治療をすることは自然の摂理に反している。人類全体がこのような遺伝子治療に取り組んだら、前述のようなおかしな世界観が広がることになる。善悪は相対的なものでかつ表裏一体でもある。全てを善にしてしまったら悪に対する免疫機能も防御機構も失われいっぺんに悪に滅ぼされてしまう。悪も必要なのである。欠陥を悪として全てを抹殺してしまったらとんでもないことになる。欠陥かそうでないかの判断は普遍的なものではなく条件によって変化するものである。一方的なその場限りの基準で欠陥と決めつけ抹殺してしまうのはジェノサイドに近い。

「顔」や「容姿」じゃないよ「心」だよ、という人もいる。

 顔なんて頭蓋骨に貼り付いた肉の付き方だけで、基本的には美形もそうでないものもそれほど変わるものではない。嘘と思うなら頭にパンティーストッキングをかぶって思いっきり引っ張り上げてみたらいい。美形も醜形も同じ形状になる。結婚相手を捜すためのお見合いで、顔を仮面で隠してやってみるのも面白いかも知れない。しかし、やはり「顔」は人間関係を形成する上で重要な部分であり、どんなに「心」を重視して仮面で顔を隠しても、結婚生活は顔と顔を見合わせてやるのであり、ただ「顔」を後回しにしただけでいずれは「顔」は重要なポイントになる。

「顔」も「容姿」も良いところも悪いところもあって個性である。

 最上級の美形は、全ての人の標準をとると出来上がるそうである。ということは美形とはありふれた標準で、長くつき合うと飽きてくるものでもある。人の容姿をあれこれ言うのも気が引けるが、テレビで活躍している人の容姿は美形ばかりではない。いや美形でない人の方が断然多い。美形であることと個人の好みは別であり、いろいろな好みに合わせると美形はほんの一部でしかも憧れの対象にするだけでいいことになる。それよりも重要なことは個性である。個性は良いところも悪いところも組合わさってはじめて出来上がるものである。よって結論は何も標準の美形を追求する必要はない。もって生まれた個性を大事に磨いていけばいいのである。

「顔」を変えると運命が変わるか

 確かに結果として変わってゆくと思う。本来の自分でなく、顔の変わった自分の運命が繰り広げられる。ただ、その運命が果たして本来の自分に合ったものかどうかは別である。本来の自分は変えようがない。「変えた顔」が「本来の自分」を発揮する障害にならなければいいと危惧する。それとも死ぬまで「本来の自分」を殺し過去を断ち切って「顔の変わった自分」を演技し続けるつもりなのであろうか。それも恐ろしい「運命」である。顔を変えても変えなくても生きている限り自分の意志に関係なく「運命」は身の上にめぐってくる。この「運命」に「本来の自分」で立ち向かうのか「顔を変えた自分」で立ち向かうのかの差である。降りかかる運命そのものは変わらないと言える。結果は微妙に違ってくるかもしれないし、見方によっては何も変わっていないとも言える。変わっているのは自分の考え方と心の持ち方だけである。

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