オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

武士は喰わねど高楊枝

2008年01月19日 | Weblog

武士の孤高と気位の高さを表した言葉である。

 しかし、もっと突っ込んで考えて見ると「喰わねど」の程度が気になる。生死をさまようほどの「喰わねど」なのか、何とか我慢できるほどの「喰わねど」なのか、たまたま食べれなかっただけの「喰わねど」なのか、食べることに執着する必要がないほどの「喰わねど」なのか、いろいろあるだろうが、どうやら我慢できるほどの「喰わねど」であるようである。

貧しくて少々食べれなくとも我慢して浅ましい態度を見せるな。

 そんなところであろうか、しかしながら生死に拘わるほどの飢餓であればそんなことは言ってられない。我慢してないで格好なんか気にせず一目散に食べ物を目指すであろう。しかも、その食べ物さえないとなれば、鬼畜のごとくなりふりかまわず食べ物をあさることであろう。そこには武士の孤高も気位もないし高楊枝どころではない。こんな所に日本の美意識のはかなさを感じるし、なりふり構わない生への執着としぶとさを疎んじる感性を見出す事ができる。

日本人の美意識には多少甘えた部分がある。

 甘えからくる心の余裕が美意識を生み出す。何とかなるという楽天的な考え方が日本人の美意識の根底である。日本人は農耕民族で、野山に行けば、畑に行けば、なんらかの食べ物を得ることができる。砂漠地帯のような完全に枯渇した環境にさらされることはほとんどない。根は楽天主義なのである。だから他人に対しても性善説で接することができるし、多少の危機にも我先の競争をせず余裕を持って対応するのが通常であるようである。

貧困とは具体的に何だろう。

 日本語的には、貧しくて生活に困っていること、必要なもの大事なものが乏しいこととなっているが、英語のpoorはより具体的でお金がないこととある。少なくとも貧困とは今日食べる物がないことが最低限であろう。世界には貧困以下の人がたくさんいて命の危険にさらされ国も貧しいために放置されている。貧困を解消するには三つの方法がある。一つは我慢すること、二つ目は物乞いをすること、三つ目が物を盗むことである。

日本人ならすぐに働けばいいじゃないかと思う。

 本当の貧困とは、必死に働いても食えないことなのである。働いて食えるくらいなら当然働いているし問題ないが、死に物狂いで生きるために働いても、それでも食えない。もしくは働く機会さえ与えられない。その時の選択肢が前述の三つの方法である。多分日本人であれば一つ目を選択するであろう。これが「武士は喰わねど高楊枝」の美学であり、物乞いや盗みなんて以ての外という意識であろう。ところが、物乞いや盗みが日常茶飯事という世界があちこちにある。背に腹はかえられないのである。生きるためには必死なのである。

貧困でもいい、最低限生きれれば・・・。

 貧しいなりにも生活が成り立てば、それはそれで一つの問題は解決する。別に贅沢を言っている訳ではないし、貧しいなりの生活の有り様ができあがって、平和で安泰な社会が築かれて行く。問題は生きられないことである。物がない、金がない、何もない状態で、ただ死を待つのみの状態である。この時人は何をするか、手っ取り早くは暴力をもってしても富める者から略奪することである。しかも死ぬ前に実行しないと意味がない。

世界に暗躍しているテロリストの根源はそんなところではないかと思う。

 そこの部分を理解しないと問題はいつまでたっても解決しない気がする。少なくとも生きることができる程度に貧困を解消しないといくら力でテロリストを封じ込めても、次から次へとテロリストは生まれてくる。明日は死ぬかもしれない集団の断末魔の雄叫びに近いかも知れないし、死を賭した抵抗に富める者が勝利できるはずがない。最初の気概と勇気と意志力の面からしても勝敗は決まっている。無駄な抵抗に近い。

物乞いと盗みと暴力の世界を我々日本人は理解しなければならない。

 恵まれた国で甘えた生活をしている日本人には想像もつかないかもしれないが、理解する努力は必要である。不毛の砂漠や山岳地帯で生活する人々、国を追われて難民生活をする人々、最下層で生きることに必死な人々などなどである。油断していると明日の命も保証できないような苛酷な環境で生きている人々がいる。そんな人にとって物乞いや盗みや暴力は日常茶飯事のことなのである。

物乞いと盗みと暴力を容認するつもりはない。

 物乞いや盗みで生活できるなら、だれも働くことをしなくなる。暴力を許すなら野生の弱肉強食の世界が広がって行く。これらを食止めるものは、最低限の生きるための生活の保障しかない。これによって秩序も道徳も文化もそれなりに育って行くと思う。なにも民主主義を強要する必要もないし、すべての国が民主主義国家という理想は夢物語に過ぎないし、そんな夢物語が実現するはずもない。

そんなことを考えると「武士は喰わねど高楊枝」が空々しく聞こえる。

 反対に「武士は喰わねど高楊枝」と言ってられる日本人はとっても幸せなのである。私も日本という国は大好きで、永久に日本に住みたいし、日本人であって良かったとつくづく心から感謝している。こんないい国は外にどこにもない。ただ、もう少し世界に目を向けて世界の常識を身につけてほしい。孤高の日本が世界の中の泰然自若とした日本であることを目指してほしいと思っている。その時日本人の美意識は大切にしなければならないし、その美意識こそが大切な宝であり、諸外国に受け入れられる大切な理想の精神でもある。世界の各国が「武士は喰わねど高楊枝」と言って暮らせるような平和な社会であってほしいものである。


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