オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

「脳死」を「人の死」とすることへの疑問

2008年07月25日 | Weblog


私の中では「脳死」は「人の死」ではないと思っている。

 こんなことを言うとあちこちから叱責を受けそうだが、私に専門知識はなく、医学とか哲学とか宗教とか倫理とかの観点から言っているわけではない。「人の死」は死んだ人にしか解らないと言いたいだけである。生きている側の人が「人の死」の定義をいくらしてもそれは生きている人が考えた「人の死」でしかない。生きている人達のための「人の死」の定義である。本当に自分が死期を迎え「検査の結果脳死と判定されました」と言われてただちに臓器摘出されることを考えると、その時自分という意識があるのかないのか、身体と心は一体なのか離れているのか、痛みを感じるのかどうか、生への執着があるのか、臓器移植を後悔しているのかいないのか、なんて解らない。「解らない」と言うのが真実であり事実である。

「人の死」はよく解らないけれども、

 目の前の困っている人を助けるため臓器移植をあえて志願すると言うことは、崇高な意志である。まずは、崇高なこの意志に敬意を表さなければならない。「脳死」「臓器移植」と言うと、技術的なことばかりが取り上げられるが、まずは「人の死」を懸けて臓器を提供した神の行為にも匹敵する献身的な提供者の意志に感謝し尊敬と賞賛を与えなければならない。これを、「脳死になれば人は死んだも同然で、身体は物体と同じである。よってその臓器は有効に活用すべきである」と生きている側の論理で割り切ってしまうと、この提供者の崇高な意志が色あせたものになってしまう。

「脳死=人の死」という考えが浸透しつつあるが、

 「脳死」は脳が死んでいるだけで、身体は生きているのである。身体が生きているからこそ臓器移植の価値が生まれるのである。死んだ臓器では移植しても意味がない。通常の「死」はまず「身体」が死んでその後「脳」が死ぬ。「脳死」という特別な状況は突発的な事故による頭部の損傷などという場面でしか生起しない。一般市民の中には、普通死でも臓器移植が可能であると誤解している人がおり、死んだ後で人のために役立つなら臓器提供しても良いじゃないかと思っている人がいる。もっと根本的なところからPRすべきであるし、すぐに「脳死判定」「臓器移植」に飛びつくだけのマスコミも考え直すべきである。「脳死」に対するしっかりした世論があまり見えてこないで、表層をなで回しているだけのような気がする。

ちょっとショッキングかも知れないが、

 仲間内で話し合っていたとき、「臓器移植ってよく考えると人肉食と同じだね」という話題が出た。口から消化器官を通じて体内に取り入れるのと、手術で直接体内に取り込むのと基本的には同じで、どちらかと言うと人肉食のほうが死者に対しては優しい。こんな言い方をされると臓器移植手術を受けようとしている人はいたたまれないだろうが、反対に「臓器移植」をやるならこのような中傷にも対抗できるしっかりした考え方を確立しなければならないと思う。タブーとして口を閉ざしてはならない。「臓器移植」とはどういうことなのか、医学的、哲学的、宗教的、倫理的にしっかりと論議しなければならないと思う。

生きとし生けるものは必ず死ぬが、

 死を先送りすることがどこまで許されるのか、生きる権利をどこまで認めるのか、死の尊厳をどう取り扱うのか、というのは人間に与えられた永遠の課題であり、神の領域に踏み込むことであるが、「死」が不明な限り答えはないと思う。しかし、生きたいと訴える人がいて。命を懸けても助けたいと思う人がいるのなら、社会はそれをしっかりと支えてやらなければならない。支えると言うことは、中傷・非難を排し、容認と理解を示し、みんなが認めるしくみを作ることであると思う。

家族の中に臓器移植が必要な人がいた場合、

 家族に臓器提供を強制できるのであろうか。家族の中に提供者がいればすばらしい家族愛であるが、提供者がいない場合もこれは個人の自由であり責められるものではない。しかし、社会の目は家族愛を当然のように期待し無言の圧力をかけることになるのではなかろうか。目の前に死にそうな人がいて臓器移植で助かるという場面で臓器移植を断った場合その人は責められるのであろうか。責められると言うならその人だけでなく万人が責められることになる。誰がその当事者になるかは解らないからである。臓器提供はあくまでも滅私の献身的な行為であり、誰からも強制を受けるべきものではなく、個人の自由意志であると思う。そこに恣意的な思い込みがあってはならない。

人間にとって生きることも死ぬことも自由である。

 問題はこの自由が不当に奪われたり弄ばれたり差別されたり金儲けや取引の具にされたりすることである。「生」も「死」も自由であるなら、強制を受けたり制限を受けたりすることもない。個人の自由意志に任されている。この個人の自由意志が有効に行使できる社会の仕組みを作らなければならないと思う。生きたいと思う人、命を懸けて助けたいと思う人、これを支える社会がしっかりしていれば、神の領域を侵すことなく「臓器移植」は可能になると思うし、自然界で唯一人間だけが為し得た神の領域にも迫る行為でもあると思う。


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