この頃の商売にはコマーシャルが欠かせないようだ。
朝から晩までテレビではわずかの時間も惜しむかのようにあらゆる商品に関するコマーシャルが流れているし、新聞も雑誌も町中も建物も広告にあふれている。コマーシャルにかかる費用も大変だろうと思う。しかし、ただのイメージだけを売り込むコマーシャルは眉につばを付けて見聞きしてしまう。「詐欺」「かたり」「誇大広告」という言葉がよぎるのはひねくれた考えばかりする私だけであろうか?商品が優秀であれば商品の良さを説明するだけで十分宣伝になる。イメージを先行させなければならない事情があるということは、商品そのものが魅力のない不良なものではないのかと疑ってしまう。
確かに、イメージは際限なく膨らますことができ、
流行を創り出すためにはイメージ戦略は有効である。しかし、イメージに左右されるような人達の集団は気分屋で、一時期の流行はあってもすぐに飽きてしまい次の流行を追い求める。博打のつもりで一山を狙って流行を仕掛ける商売人もいるかも知れないが、山が当たるのは希である。気分屋の客を相手では次に何が流行するかを予測するのも難しい。果たしてこのようなお客を相手に商売するのが賢明であろうか。
このように、強引なコマーシャルで商品を売り込むのは、
いかにも欧米的なやり方であるが、果たして日本の文化に合っているのであろうか?私はそぐわないと思う。「コマーシャルをやる→売り上げが伸びる→さらにコマーシャルをやる」という無限地獄に陥っているだけである。売り上げさえ伸びれば、儲けさえすれば何をやろうと形振り構わないという姿勢が気にくわない。このような商品は、一旦コマーシャルを止めたら気まぐれなお客は離れていってしまい即座に売れなくなる。ということは、永遠にコマーシャルをやり続けなければならないということである。何かおかしい。本当に良い商品ならお客は増え続け、世間に定着すればコマーシャルを辞めても売れるはずである。
株式会社という形態も矛盾を孕んでいる。
社長は年度毎の売り上げで評価される。売り上げが伸びないと社長は更迭される危機感を持っている。そのために即効の対策を打つ。長期的な計画に基づく対策は株主に理解してもらうのに困難を伴う。株主の関心事は当面の配当金である。将来的に有効な先行投資も損金としか評価されない。社長はその場しのぎの対策を駆使して当面の売り上げを伸ばすことに躍起になる。そこで有効なのがコマーシャルとなる。特に欧米でその傾向が強いのではないかと思う。
コマーシャルに有名人を登用するのも、私から見るとなにかおかしい。
その有名人が本当にその商品をすばらしいと惚れ込んでコマーシャルをやっているならまだいいが、ただのビジネス(金儲け)でやっているのでは見る方としては興ざめである。「金のためなら何でもするのか、そんなに自分を安売りするものではない」と説教のひとつでも垂れてやりたい心境である。それでも、お客が買ってくれ、売り上げが伸びるからいいというのであれば、お客もなめられたものである。お客を主体性のない浮き草のごとく扱い、簡単に手玉に取れ思い通りに動かせるという広告を製作する側の厚かましい消費者を馬鹿にした根性が見えてくる。
心理学により人間の心を自由自在に操るための書籍が売られている。
私もそれを読んでみたが、読んでいるうちにいやな気分になってきた。嘘をついているわけでもなく、直接相手を説得しているわけでもなく、相手を誘導してその気にさせる方法が記述されている。しかしこれを意図的にやることは相手を騙していることと何ら変わらない。法的に言い逃れができるだけにもっと悪質である。契約社会の欧米では正当な手法かも知れないが、お互いの信用を第1とし長期の信頼関係を大事にする日本人には違和感があるのではないか。いくら契約とはいえお客の信用を失っては商売は長続きできない。その場限りの商売は日本には本来なじみにくいと思うがどうだろう。「一見(いちげん)さんはお断り」として長年のお得意さんを大事にするのが日本の伝統である。
優秀な商品があっても、それをお客に知らしめないと売れない。
そのためのコマーシャルは理解できるが、この頃のコマーシャルは、ただの製品名を覚えてもらうだけ、あらゆる手段で商品を印象づけるだけ、繰り返し効果で視聴者にイメージを刷り込むだけ、というものが多い。中にはふざけたり、視聴者を馬鹿にしたり、故意にわけのわからないものを流したりなど、ありとあらゆるものを駆使して売り込みを狙っているようだ。「これが最新の手法なんですよ」「このくらいやらないと効果がないんですよ」「これが理解できないようでは古いですよ」と広告代理店に乗せられているのではないか?「裸の王様」はおとぎ話の中だけにしてもらいたい。
どうして製造販売会社は堅実なお客を見ないで、
気まぐれなお客ばかりを追いかけるのであろうか?堅実なお客は一旦納得した商品を買えば、その後も製造販売会社が信用を裏切らない限り顧客であり続けるし、コマーシャルも新製品情報を流すくらいで、有名人を使ったイメージ戦略も必要ない(イメージで買っているわけではない)。優秀な商品であれば黙っていても、クチコミでも売れる。私はひねくれているのか大々的に宣伝すればするほど「こんなに宣伝しないと売れない商品なんだ」と思ってしまう。また、大々的に宣伝し世間に普及してみんなが持っている商品には最初からあまり魅力を感じない。こんなことを続けると気まぐれなお客を開拓するどころか堅実なお客を失ってしまうことになりかねないと思う。
負のイメージを払拭するためのイメージ戦略はあるであろう。
イメージにはイメージで対抗するしかない。しかし、その場合は起死回生の一発でしかない。常に負のイメージを払拭するためのイメージ戦略を継続せざるを得ない会社はどこかおかしい。短時間で商品を理解してもらうためにはお客にイメージで訴えることが有効である。しかし、これも目的は商品の優秀さをお客に理解してもらうためであり、わけのわからないイメージだけでは本末転倒であり、おもしろ半分のシャレや冗談で買う気まぐれなお客しかつかないし、どこまで持続するかは疑問である。
この頃の広告そのものに面白い表現がある。
「テレビで広告中の注目の商品」「テレビCM放映中の期待の新人歌手」「新聞でも報道された安心できる製品」「○○テレビで宣伝中の信頼できる会社」などなどである。コマーシャルは金を出せばやってくれる。コマーシャルをすること自体はただ単に商品を紹介しているだけで信用や実績や実力とは直接関係ない。イメージにイメージを重ねた根拠のない世界で「根も葉もない噂」に等しいと私は思う。
別にコマーシャルを否定するつもりはない。
私は、コマーシャル(宣伝広告)そのものは大好きである。テレビやラジオのコマーシャルは内容に乏しくて一方的でうるさいばかりで好まないが、新聞(特に折り込み広告)や雑誌の広告は何か目新しいものはないかといつも注目している。場合によっては、時代の流行を敏感に反映しているのは本文記事よりも端っこの広告かも知れない。いかがわしい広告も「ヘェーこうやって騙すんだ」「こんなので騙される人がいるんだなぁ」「何人引っかかれば元が取れるんだろう」などと楽しく鑑賞さしてもらっている。また、新しいものは夢があって大好きである。新しいだけの不良品をずいぶんと買わされたが、この犠牲がなければ、新しいものの良さを開拓し実感することはいつまでたってもできない。懐古趣味の堅物になってしまう。モノサシは古くても新しいものに対する挑戦は常に継続して行きたい(おかげで、私の部屋はわけのわからないガラクタであふれており家族の大不評である)。
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