オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

健康診断は誰のためにやっているのか

2007年08月08日 | Weblog


ずっと以前に、職場の近しい人が入院した。

 心臓を動かしている冠状動脈が詰まっているための血管のバイパスをするという緊急大手術である。医者も私たちもまさかそんなに重病だとは思ってもいなかったのである。当然定期健康診断でも異常なしであった。本人は急激な運動をすると心臓が苦しいという自覚症状はあったが、通常の生活には何も問題ない程度だったという。

ところが、血縁者の中に心臓病でなくなった方がおり、

 症状が似ているので、医者に精密検査を依頼したが、運動負荷をかけると心電図の振幅が小さくなる症状はあったが、診断結果は異常なしであった。しかし、本人は納得できずさらなる精密検査を申し出、その精密検査の結果、心臓の造影検査で冠状動脈が詰まっていることを発見したのである。3本の冠状動脈の内2本は完全に閉塞状態で、1本が25%機能していただけであったという。手遅れになれば壊死してしまう状態であったそうである。

その後、別の人の入院話も聞いた。

 その人は直腸ガンであったが、内視鏡では不幸にも見つけられなかった。ガンは直腸の内側でなく外側にあったのである。本人は頻繁に便意を催すし、違和感があるので医者に何度も訴えたが、検査の結果異常なしと言うことで、食事療法や運動療法を薦められたそうである。本人はそれでも「やっぱりおかしい」と思って病院を変えたら見つかったそうであるが、その時にはすでに手遅れで全身に転移していたそうである。その人は「見つけられなかった医者を恨むつもりはない」と残された余生を大事に過ごしている。当然定期健康診断では異常がなかったそうである。

果たして、定期健康診断は役に立っているのだろうかと疑問になる。

 私は、心電図で心臓のすべてが診断できるものと思っていた。ところが、心電図で解るのは「弁」の動きだけで、総合的な心臓の状態を把握できるわけではないそうである。今回の例も、弁の動きは一応正常に機能していたのである。さらに精密に検査するためには安静状態だけでなく運動負荷をかけた後の心電図も必要になり、本当に十分な血液が行き渡っているかどうかは造影検査をしなければならないということだ。ことは心臓の話である。止まったら即死である。

バリウムを飲んでレントゲンを撮るのも定期健康診断で恒例であるが、

 このレントゲン写真ではすべての部分を詳しく診断することはほとんどできないという。また、これでガンを見つけるのは相当の熟練技術がいるという。そしてたとえ見つけても、見つけられるくらいのガンはすでに手遅れの領域にあるという。一番良いのは内視鏡で内側から直接検査することである。これであれば、ほんの小さなポリープでも見つけることができる。内視鏡もずいぶん普及してきたのでそろそろ導入を考えたらどうだろう。

ガン検診も同じである。

 定期健康診断で見つかるようなガン患者は助かる見込みがほとんどないという話を聞いた。見つけてももはや手遅れ状態であるような定期健康診断のやり方はおかしいのではないか。本当に初期状態でガンを見つけるには相当精密な検査をしなければならない。これを国民全員にやっていたのでは破綻してしまうのは承知の上である。それでも、気休めの定期健康診断でお茶を濁しているのはどうにかせねばならない。役に立たないのでは鼻っから無駄である。

対策はいろいろ考えられると思う。

 毎年すべての診断項目をやるのでなく優先順位を決めてやる方法も考えられる。何年か毎に特定項目の精密検査をやる方法も考えられる。人数を制限して毎年順番に定期的に精密検査をする方法も考えられる。過去の病歴から精密検査を必要とする人を抽出して実施する方法もあるであろう。経費は同じでも現実に「異常」を初期状態で見つけられる方法を取らなければならないと思う。

少なくとも定期健康診断でやるべきことは、

 国民の命を救うことである。そうであれば、自覚症状が少なく、急速に病状が進行し、直ちに死に直結するような病気を見つけることが重要になるであろう。それは、脳血管障害、ガン、心臓病である。次に重要なのが生活習慣病に対する指導である。肥満や動脈硬化、糖尿病に対する食生活の改善、適度な運動、飲酒・喫煙の節制等の奨励である。これは予防的な意義としては重要であるが、二次的な目的であろうと思う。

定期健康診断の目的は絞るべきである。

 命を救うことを目的とするなら今の定期健康診断内容は中途半端で不十分である。もっと精密な検査を必要とすると思う。昔はこのくらいの検査しかできなかったかも知れないが、最近の技術はもっと進んでおり、見直す必要があると思う。反対に最近厚生省が打ち出した「生活習慣病予防」を目的とするなら、ガン検診や心臓病検診は必要ないと思う。血液検査や尿検査や検便や血圧・肺活量測定等で十分生活習慣病予防の処方箋を示すことはできる。目的のはっきりしない中途半端な検査内容では無駄が多くなってしまう。

定期健康診断は誰のためにやっているのか

 国や組織の長にとって健康管理は重要な関心事である。健康管理をおろそかにするとその指導力と信頼を国民や組織の構成員から疑われてしまう。その辻褄合わせのための「定期健康診断」ではないかと思ってしまう。「定期健康診断」さえやっていれば健康管理の責任は最低限果たすことができたと思っているのではないだろうか。管理する側にとって、毎年同じことを全員に対して行うのが最も簡単であるし、不平等だのえこひいきだのと責められることもない。しかし、結果として本当にみんなの病気の兆候を見つけられないのではなんにもならない。

定期健康診断が本当に役に立っているか検証する必要がある。

 「検証」と言うと大げさだが、定期健康診断で病気が発見された事例と、発見された後助かった事例の統計を取れば十分である。作業が大変なら抽出サンプルの統計でも十分である(選挙速報の手法である)。「発見されることはほとんどなく、発見された場合も手遅れであった」という統計結果が出ないことを期待しているが、少なくとも私のこれまでの経験からするとその傾向が強いのではないかと思う。定期健康診断さえ異常なければ健康であると思うのは間違いと思わなければならない。簡易の人間ドックも同じだという指摘もある。

現状における具体的な対策は、

 自分の身体を信ずることである。調子が悪いときには身体は警報を発する。この警報を見落とさないことだと思う。あまり心配性になってもいけないだろうが、思い当たる節があることは必要な検査を受けて疑いをなくしておくことは精神衛生上も必要なことであろう。病気の原因は、(1)遺伝的なもの(2)外部環境によるもの(3)身体内部環境によるもの、の三つが考えられる。遺伝的なものはどうしようもないが、少なくともその情報は把握して予防に努めなければならない。外部環境は健康を害する環境に身を置かないことであるが、これも完全に回避することは難しい。結局は自分の身体に頼るしかない。規則正しい生活、バランスの取れた食事、飲酒・喫煙の節制、適度な運動、十分な休養、ストレスの発散等に努めて自分の身体を大事にし強化するしかない。

病気は身体の存在を自覚するところから始まるという。

 身体が正常に働いている時は身体の存在そのものを自覚する必要はない。身体が故障した時、痛みや発熱や目眩や不快感や違和感を感じ、その部位の存在を自覚するという。であれば、自分の病気を一番知っているのは「自分」である。身体の各部に気を配って正常に働いているかを自分で点検しなければならない。一番怖いのは自分で自覚できない病気もしくは突然襲いかかる病気である。これを何とかしてもらいたい。

医者には申し訳ないが、自分の身体を守るのは自分である。

 医者はその手助けをすることになる。病気を本当に察知できるのは自分であることを再認識する必要がある。医者を一方的に信じてはいけないと思う。「信じることから医療が始まる」「信頼のない人に医療はできない」と言われるが、これは医者の立場からの言い方であり、患者側からすると、「信頼できる医者であってほしい」「信用できるまでは納得できない」ということになる。


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