オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

税金の不満

2008年12月23日 | Weblog

先日、親しい友人と話していたら税金についてえらく腹を立てていた。

 税金の控除についてである。控除を受けた分は最初から税金を払わなくても済むようになっているが、本来であれば、まずは全員が収入に応じた平等な税金を払うのが筋であり、その後にその税金の中から個別の状況に応じて補助なり援助を申請し受けるべきではないかという主張である。確かにその通りだと納得した。現在のシステムでは補助なり援助を受けている人がそのありがたみを感じることはあまりない。税制上の当然の権利として扱われ自動的にかつ一方通行で国や地方自治体からあらかじめ控除された税額が査定されて徴収される。たまたま控除された分は「ラッキー」という感じである。

頭のいい人や機転の効く人や要領のいい人はこまめな税金対策をする。

 いかにしたら税金を取られないかを一生懸命考えている。これもひとつの処世術であり、何も悪いこととは言わない。税金について関心を持ち、家計の収支をきっちりとし、計画的な金銭の使用に心がけていることはすばらしいことであり、節約・倹約に努めることも見習うべきである。しかし、不正を働いて税金を逃れたり、虚偽の申請で補助や援助を受けることは許されない。また、不正でなくとも策を弄して当然払うべき税金を免れようとしたり、受ける必要のない補助や援助を分捕ろうとする態度はいかに合法とは言え誉められるものではない。

以前、職場に「税金対策をしませんか」というセールスの電話が何度もしつこくかかってきた。

 話を聞いてみると、都心に1LDKのマンションを税金対策として買い、これを賃貸しすると税金を免除できるというのである。「管理は全て当社がやります損はさせません」と言う。でも、よく考えると税金対策はできるかも知れないが、マンション購入の借金はそっくり残るのである。どうやら眉唾である。その借金返済の分は賃貸し料で賄えるというが、借り手がいなければ賃貸し料も入らない。下手をすると借金丸抱えで利用価値のない1LDKの中古マンションを押しつけられることになる。クワバラクワバラ・・・。税金対策を餌にこんな商売が成り立っているのである。結局は「国民の義務として税金は喜んで納めます」といって丁重に断ったが、その後この商売も成り立たなくなったようだ。

一度税金として徴収し、それからまた還元するのは二度手間だという考えもある。

 最初から免除すれば一度で済んでしまう。しかし、それでもこの二度手間は必要な無駄ではないかと思う。最近の銀行の現金支払システムは便利になっている。国もやり方を考えれば必要な二度手間を行ってもそれほど負担は増大しないと思う。それよりも重要なことは、国民の一人一人が自分の税金に関心を持ち、補助なり援助を受けているありがたみを自分のこととして実感することだと思う。そして、本来であれば税金も自己申告とし、補助や援助の申請も自らの判断で行うことが重要だと思う。規則通りに自動的に税額が決まり補助や援助も自動的に知らない間になされているというのはおかしいと言えばおかしい。

補助や援助を受ける人が肩身の狭い思いをするのではと危惧するかもしれない。

 補助や援助を一々申請するのは手間もかかるし、引け目も感じる人がいるかも知れない。しかし、私に言わせればそんな引け目を感ずる必要はなく堂々と申請すればいいのである。なぜかと言えば、みんなと平等な税金を払っているからである。当然の権利である。堂々と当然の権利として主張するためには個人毎の応分の税金は払わなければならないのである。だからこそ、税金はまず全員が個人の収入に応じて平等に払わなければならない。これは国民としての責任であり義務である。申請に手間がかかるという言い分はおかしい。補助や援助を受けるのであれば必要な手続きを経るのは当然のことであろう。黙っていても受けられる現行のやり方のほうがおかしいと思う。

反対に、この納税の義務を果たしてさえいれば国民としての権利を主張できる。

 権利としては、貧しい者も富める者も同じなのである。貧しい者がいつの日にか富める者になるかも知れないし、富める者がいつの日にか貧しい者の仲間入りすることも十分考えられる。基本的人権に差をつけることは許されない。与えられる機会も権利もみんな同じなのである。条件を満たせば何人であろうと困ったときには助けてもらうことができるし、助けを求める権利は万人に与えられているのである。しかし、権利を主張するためには自らの意思を表明しなければならない。施しを待つだけでもいけないし、黙っていても受けられると思うのは間違いである。

本来であれば、現金を支給する援助策は良策ではない。

 我々が誰かに贈り物をするとき、面倒だからと現金や商品券を贈る人がいるが、現金や商品券を贈るくらいなら贈らない方がいいと私は思う。贈り物は「心」の現れである。「心」を現すのに手抜きをしたのでは贈り物の意味がない。相手のことを真剣に考えてふさわしい贈り物を考え出しそれで喜んでもらうことに意義があると思う。その贈り物さえ思いつかないとは、贈り物をする前にその無沙汰を恥じなければならないと思うし、あまりつきあいのない人に闇雲に義理だけで贈り物をするのも考え物である。

国の政策も同じであろう。

 金をバラ蒔く施策は良策ではない。政治レベルで金の有効利用を考えなければならない。この有効利用方法が見つからずに、または政治レベルで考えつかないで、または考えようとしないでその無策を糊塗するために金をバラ蒔くのは自ら考える能力がないことを暴露していることでもあり、手抜きをしていることでもある。金をバラ蒔くのであれば最初から税金を取らなければいい。あくまで国民に対するサービスのために税金を有効に使わなければならないと思う。それが困っている人達への援助でもある。そして、困っている人達は自らの意志で援助を要請するのである。無差別に公平に金をバラ蒔くのは一時の人気取りにはなるが決して良策ではない。

商売人は金のある人を相手に商売をする。

 金のない人を相手に商売をしてもしょうがない。商売は慈善事業ではない。阿漕な商売をしようとすれば貧乏人からも金をむしり取るが、これを本業としてはならない。金のない人にわずかな金を与えて援助してもあっという間になくなってしまう。そして本当に援助してもらいたいことはわずかな金をもらうことではない。もらうに越したことはないが、もらっても一時しのぎだけで根本的な問題は何も解決していない。問題解決は「自立すること」である。自立するための援助が必要なのである。規模は小さくても自分の生活が成り立つ最低限の条件を満たすことである。これは商売人のサービスでは実現できない。政治がやるべき分野であると思う。

介護保険制度で家族介護に慰労金を支給するという。

 家族介護で税金を使う必要がなくなった分に対し、税金を節約してくれてありがとうという慰労金であろうか。そうであれば思い上がりも甚だしい。政治は基本的には国民のサービス機関である。国民の代表である。昔の殿様ではあるまいし「天晴れじゃ誉めてつかわす」でもなかろう。自立できている人には支援は必要ないのである。ただでさえ介護に必要な財源に困っているのに、何故慰労金などに無駄使いするのであろうか。それとも慰労金目当ての家族介護が増えて国の負担が減ることを目論んでいるのであろうか。

慰労金目当ての家族介護では介護される方が大変である。

 どう考えても十分な家族介護が受けられるとは思えない。わずかな慰労金目当てに家族介護に走るのは多分にろくな人ではないであろう。当然のこととして家族介護に努めているような人が真に必要としているのは決して「慰労金」ではない。必要なのは家族介護を容易にするための支援策である。金儲け目的の商売人から介護のためのサービスを受けようとすれば多大な負担を必要とする。介護を金儲けのための商売にしてはいけないと思う。これこそ政治の出番である。誰もやらない必要な事業を受け持つことこそ政治のやることであり、それが真の政治サービスでありそのためにみんなで税金を出し合っているのである。

再度繰り返すが、個人毎の応分の税金を納め納税の義務を果たしてさえいれば、

 主張できる個人の権利としては、貧しい者も富める者も同じなのである。貧しい者がいつの日にか富める者になるかも知れないし、富める者がいつの日にか貧しい者の仲間入りすることも十分考えられる。基本的人権に差をつけることは許されない。与えられる機会も権利もみんな同じなのである。条件を満たせば何人であろうと困ったときには助けてもらうことができるし、助けを求める権利は万人に与えられているのである。しかし、権利を主張するためには自らの意思を表明しなければならない。施しを待つだけでもいけないし、黙っていても受けられると思うのは間違いである。そして追求すべきは「自立」であり自立できる個人を支援することである。

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