オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

「国家公務員倫理法」は「汚職防止法」(その2)

2008年12月06日 | Weblog

悪いことを外部から指摘されること自体が組織が腐っている証拠である。

 悪いままで放置し、二進も三進もいかなくなった状態で外部に表面化してくるし、隠し通せなくなって、ごまかせないほど悪化して表に出てくる。本来であれば見ない振りをして放置しないで軽い症状の時に是正しておくべきものなのである。それを放置していることそのものもしくは放置が許される態勢そのものが問題点の本質であると思う。接待や贈与云々を論議するのはただ上っ面を糊塗しているだけであり本質的な解決には程遠いと思う。反対に接待や贈与さえ監視していれば汚職はなくなると勘違いする人達が増えることになる。なんせ天下の法律として決まった「国家公務員倫理法」なのである。法律が決まったら善悪に関係なく法律に抵触するかしないかで機械的に判断するだけの管理職が増えてゆく。こんな管理職は何の役にも立たない。

一般的な組織で話をすると、

 組織の長は通常組織構成員の任免権を与えられているのである。そして、組織運営の全てについて組織の長が責任と権限を持っているのである。白紙的にはこの責任と権限を何人も侵すことはできないと思う。ただし、組織の長としてふさわしくないと上部組織から判断されたら組織の長も罷免されることになる。日本において果たして組織の長はこのような責任と権限を自覚しているのだろうか。また、組織の構成員や上部組織は組織の長に対しこのような存在価値と権限を認めているのであろうか、疑問である。

部下に汚職が発覚した場合、

 組織の長がその権限を行使して断固としてその張本人を罷免したというのをあまり聞いたことがない。せいぜい「世論が騒ぐから仕方ないから・・・」または「上部組織の指導や外圧に耐えられなくて・・・」くらいの印象である。そして罷免させられた本人は「お騒がせして申し訳ない。これ以上組織活動に支障を与えたくない」という名目で辞めていき、自己の非を認めようとしない。

極端な例でアメリカの話をすると、

 アメリカの学校に転入するのに、校長先生と生徒が面接して校長先生が入学を許可すれば翌日から学校に通うことができる。入学の許可権限は校長先生が持っているのである。もっと言うと、学校運営の全てについて校長先生が権限を持っているのである。日本の場合は、規則があり、文部省があり、教育委員会があり、教職員組合があり云々で校長先生の権限ははっきりしない。校長先生は周囲や上層部の意見を聞きながら最終的には組織系統の指示に従うことになる。証明書に名前とハンコを押すためだけの校長先生ではないかと疑ってしまう。

アメリカの会社は、上司が採用や解雇の権限を持っている。

 仕事上の要求と雇用者の能力が一致すると上司が決断すれば即採用になり、上司から「首だ!」と言われたら翌日から解雇されることになる。日本の場合は誰が採用し誰が解雇したのかその権限の所在は不明確である。通常はみんなで話し合った結果であり、最終結果に形だけ上司が承認行為をしているだけである。たぶん小規模の会社でない限り直属の上司に直接採用または解雇されることは少ないのではないかと思う。(皆さんは直属の上司が自分の解雇の権限をしっかりと持っていると思いますか?)

「権限を与えると横暴を働く」というのは考えすぎである。

 まずは、権限は与えなければならない。権限を与えたらその権限が適性に行使されたかを監視しなければならない。その適否は結果が出なければわからない。結果が出るまでは任せなければならない。職務に就いた限りはその職務に挑戦する機会は万人に均等に与えられなければならないのである。その結果を監視していけばその人がその職務にふさわしいかどうか、悪意で権限を行使していないか、不正はないか、判断が正しかったか、処置は適切であったかなどを評価できる。

出された成果に対する評価に基づいて上部組織の長は任免を検討する。

 これが適正に機能していれば「汚職防止法」なんて必要ない。汚職になりそうだったら権限を発動してしっかりと指導し、隠れて汚職を働くような人は当然のごとく辞めさせればいいのである。これを指導したり辞めさせる権限を組織の長にしっかりと持たせないために組織が甘く見られて汚職が蔓延することになる。「この程度で済まされる」「この程度は許される」と思わせるところから汚職は始まる(万引き常習者と根っこのところは同等である)。

組織の長は権限を行使した結果には責任を持たなければならない。

 最大限の努力をして実行した結果で良好な成果が得られなくても責められるものではない。少なくてもプラスマイナスゼロの現状維持であれば合格である。現状維持も努力しないと難しいのである。たとえ悪い結果を招いて辞めさせられてもいいのである。それよりも辞めさせられることを畏れて権限の行使を躊躇することのほうが問題である。成果は結果論であり、ふさわしくないというのであればさっさと辞めて新たなポストを求めて挑戦すればいいのである。そのポストに無理して執拗にしがみつく必要もない。そのほうがお互いの幸福のためにもいいし、最終的には最適の人が最適のポストに落ち着くことにもなる。

人生は直線の一本道ではない。

 分岐点もありまわり道もあり裏道も大通りも小道も上り坂も下り坂もある。歩く本人が目的意識を持って自分で判断し最善の努力を尽くしているのであればどの道を通ってもいいし、後悔することもない。周囲からの評価はあとからついてくるものである。周囲からの評価ばかり気にして道を選択していては自分の進むべき目標を見失ってしまう。目標は自分の中にあるのであり、進むべき道は自分で決めるのである。周囲はどこに進もうと責任は取ってくれない。ただ結果で云々するだけである。

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