tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

一つの会社に長く勤めていることが良いという思想

2005年07月28日 23時22分18秒 | Weblog
今日も残業してきて、やっと電車に乗ったかと思うと、高校時代の友人がいた。
旧友と会って心和む風景が展開した・・・と思ってもらっては困る。実際には逆だ。

確かに、友人とは高校時代よく「つるんで」いた。しかしそれは当時の話だ。あの頃はまだ、世間知らずだったといえよう。しかし、高校を卒業した後のルートがまったく異なった。私は偶然にも、大学に入り、大学院を通過し、とある旧帝国大学で研究用のトレーニングを受けることが出来た。進路変更し、社会人となった後も、いくつかの職を転々としているが、その範囲は非常に狭い。人間やれることなど限られているし、このご時世だ。
一方、友人は高校卒業後、公務員試験用の専門学校に通ったが、公務員にはなれず、印刷関係の一般企業に勤めた。その企業に、入ってこのかたずーっと勤めている。10年以上だ。

だから、会うたびに話が説教くさくなる。これがすごい難点だ。
しかし、なんか変である。彼は終身雇用・年功序列が壊れたこの国で、ずーっと勤めているのである。しかも何年も勤めていることに違和感を覚えるどころか、逆に他人の前で優越感すら感じているのである。まあ、その仕事がいいと感じるのならばそれでいいのかもしれないが、こんな人間、もはや少数派だろう。彼も私もたかだか30年ほどしか生きていないのだが。

「一つの会社に長く勤めている人間はいい人間」こんなカテゴライズがかつてはまかりとおっていたのである。しかし、もっと不思議なのは、中途採用を進めておきながら、前の会社の在職年数をしきりに気にする企業のほうだ。

ところで、私はこれまで高校のクラス会に一度も出たことがない、彼のように「常識」だけで語る人間が多いと何かとやりにくいし、まして高校時代につまらなかった人々がその後変わったとも思えないからだ。

「あんた、つまらないね」といえるくらいの変化を身体に身に付けた人間になることは、予備校時代から目標だし、その目標は、高校時代の生活のへの疑問と否定から生まれた思想だから、当然か。

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