tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

指導教官という存在

2005年05月12日 23時56分29秒 | Weblog
とかく大学というところは人の出入りが激しい。
学生に始まって、最後は教授まで出たり入ったりする。
教員の出入りとは、いわゆる一般企業の入社/退職の意味である。今日も私の母校で、経済学部の教授が契約雇用の延長を認められず、途中で退職させられたため、学生が教育上の不利益をこうむったということで、大学を提訴した記事が朝日新聞の社会面に載っていた。

『白い巨塔』などを見る限り、理系の人々は大変なんだろうが、われわれ文系の人間にとってみれば、大学における指導教官はそれほど重圧の対象にもなりえないことがある。たしかに、権力を効かせる人間もいるが、そういう人はおうおうにして、それなりの評価が出される。

あるとき、そうした人がセクハラで訴えられて、大学を追われた。

業績で大学の教員を見るのも考えものだ。さっきも言ったように、人格と必ずしも一致するものではないし、それ以前に業績などというものがない人さえもいる。
私の場合、あまりにも外部に発信しない人を指導教官に選んだものだから、学会などで「指導教官はだれです。」などといわれると、恥ずかしくていえなかったし、言っても「だれそれ」という顔をされた。

とはいえ、指導教官の存在が、大学院生などにとって重要なのも事実。
私が後年通った旧帝国大学のある教員の下には、多くの院生が集まっていた。温厚な人だったからだ。しかし、旧帝国大学の定年退官は結構早く、その先生が退官してこのかた、そのゼミの勢いは急速に衰えた。

私がその大学で指導教官を選ぶ段になって、重要視したのは人格だった。その人物はそのとき助教授だったけど、素晴らしい人だった。私がそこをでてしばらくして、その人は教授に昇進した。
彼の影響下で勉強したのだから、仕事以外で、何か研究を発信しなければならないと、最近感じている。

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