tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

第56回関西社会学会大会

2005年05月30日 19時20分26秒 | Weblog
おとつい書いたとおり、昨日は学会。

学会と書くと、あの偉い人たちが発表する場、と感じる人が多いと思うが、コミケで同人誌を売ると言う行為と似ていて、人前で自分の関心を発表する場だと考えてほしい。それゆえ、「下手な絵を描く」あるいは「内容が面白くない」同人誌やブースが人気がないのと同様で、やはり発表のうまいひと、内容が優れている人が賞賛を浴びる場でもある(はずだ)。

昔は、あの壇上に立って発表する人間の中に入るのが夢だったが、自分の持っている研究業績や関心では無理だと思ったし、あれは大学の教員や博士課程の人間が出来ることだったから、もう私にとっては彼岸の人間達がやっている行為にしか見えない。

さて、そんな世界でも肩の荷が降りてみれば、気楽に眺めることができる。研究者の籍が無い人間が話を聞いていても、人畜無害ならば、黙って聞かせてくれる。

私は学会の会員じゃないから、臨時学会員として入る。記名表に所属と名前を書かねばならないが、他の人を見ると、まだ学会に入っていない院生や、出版社の人の名前がある。後は卒業生か。
参加費を払って、報告要旨をもらい、各発表者がいる教室へ行く。私が入ったのは、文化社会学の部会だった。司会者はフランス研究で知られた人で、留学中にかの有名なミッシェル=フーコーの授業にも参加していた人だ。

ところで、学会の発表の大部分は、自分の関心にも引きつけられないような全く異なる他人の関心分野の発表を聞かせられる場である。しかし、ごく稀に自分と同じような関心の内容で発表を行う人がいて、このときは結構ワクワクすることがある。今回は私の先輩に当たる人が、ベンヤミンについて発表していた。ドイツ人のウォルター=ベンヤミンは大戦中、ドイツを追われてパリで研究をしていた人だが、その大部分は、ドイツとフランスの文学作品に関する研究である。確かに、当時現れだしていた写真や映画に関する論文もあるが、それは評論と言った方が良いのではないかと思う。

一通りの発表が終わって、司会者が感想という形で喝破したのは、社会学会にありながら、社会と結びつけられない研究発表であったことだという。実は、身近にある現象を分析してみても、それが社会の文脈と結びつけられなければ社会学の研究とはなり得ず、ただの社会観察記になってしまうことである。

このことは、いまだに私自身もトラウマとして抱え込んでいる。他の学問以上に研究論文が書けなくなる可能性が高いのは、社会学なのだ。教育学など決まった形があって、それを採用できる人間だけがトクをする場面を何度か見た。

ともかく・・・

私はいま、こういった学会という制度の外で、研究が発表できる場を模索している

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