酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

故郷へ 三日目 半年後の時間

2011-09-18 09:22:59 | ああ宮城県な話
9月11日。震災から半年。
この時間が短かったのか、長かったのか。今だに整理がつきません。
この「くだまき」におきましての冒頭は、震災当日その時から、お見舞いの言葉にいたしております。
「半年たったら、元に戻そうか」
そう考えておりました。
「故郷宮城、塩竈で出会った人達のエピソード。・・・」
何故、半年なのか。自身でも理由は見つからないのですが、「半年経てばある程度は心の整理もつくのだろう」
と、こう考えての事だったのかもしれません。
ですが、やはりしばらくは冒頭の挨拶を変えるわけにはいかないようです。

名取に住んでおります叔母です。
震災後、初めて尋ねました。
家は自動車工場と一緒なのですが、丁度「東部道路」より名取市側だったこともあり、津波の被害はなかったところでございました。
今一度、3月11日のあの日を振り返りました。
「津波ってわかんなかったのすか?」
「んだって、電気も何もつかないし、情報がまったく入ってこなかったから、津波なんて全く知らなかった」
「テレビがついてたら、もっと逃げる人が多くて助かったんでねぇかって・・・」
「そうよね、あなたは当日、それ見てたのよね」
「画面さぁ向かって『はぇぐにげろ』って叫んでたっちゃ。サイクルセンター直前で堤防を津波が超えたとき、閖上はどうなんだべってその瞬間・・・」
「あの映像見たのって、十日も過ぎてからなんだよ」
当日、叔母の家に電話が繋がったのが夜も七時過ぎ。
でも、そこから、1kmほど離れた従弟の家に電話が繋がったのは、津波が丁度東部道路付近に達したころでした。
(何度もくだまきにいたしましたが・・)
「何やってんだ!津波がきてんだど!はぇぐ逃げろ!」
電話を取りました従兄の嫁は、「何が何やら・・」と言った感じでした。

東部道路から海側は、何もない。
これは、多くの人からたくさん聞いてはおりましたが、実際目にいたしますと、更地になっている状況を、今だ把握できない自分がおります。
東部道路は好きではありませんでした。
ですから、叔母を訪ねるときは、新港から、キリンビールの工場脇を通り、県道伝いに名取まで向かうのが恒例でした。
松林から抜けてくる海風の香が好きだったからです。
その道路を通行中に被害にあわれた方も多いと聞きました。

「浜はどうなってんだすぺ」
父の墓前へ向かいます。
亦楽小学校脇の仮設住宅前と通り、その眼前。
「やま・・すか?」
瓦礫が山のようになっております。
「ここさぁ、集めてんのすか!」
その量に圧倒されます。
「片付いている」と言っていいのやら、「単に移動させている」と言ってよいやら・・。
生活に直接影響のない場所への移動。
でも、根本的な解決にはならのは、誰が見ても明白であろうと、そう思うのですが。

五月二日時点での同性寺前の田圃には、まだ瓦礫があふれていて「どう整備していくのだろう」と思っておりました。

今は、少しばかり、以前の面影が見られるようにはなっておるようです。

本来ならばこの時期、稲刈り間近。
頭を垂れた稲穂が風に揺らぎ、赤とんぼが回りを飛び交う。
当たり前の風景だとばかり思っておりました。
昨日いただきました「ひー」様のコメントを思い出します。
「何気ない風景を記録しておけばよかった・・・」
普段見慣れていて、これが日常で、そして未来も変わらない(これは、本当はあり得ないのですけど)風景。
例えば、普段街中の自販機の写真を大事に撮っている人は滅多におりませんが、もしかしたら、この記録すらいとおしく思える時があるかもしれない。

あの巨大地震の後、こう意識が変わりました。

父の墓前。
「お月見だから、仏用の花じゃなくて、お月見用の花にしたんだ」
母の提案は、「ああ、この人らしいなぁぁ」と思えるものでした。
ふと、やはり「父があの災害に合い、豹変した故郷を見たとき、どんな言葉を発するのだろう」
こう思ってしまいます。
母に聞いても、叔父、叔母に聞いても、みなそれぞれ違っているので、想像するのも難しいのですが。
ただ、間違いなくこうは言うはずです。
急いで塩竈に向かおうとする酔漢の言葉に対して。
「おめぇ、ぜってぇくんでねぇど!おめぇみてぇな役立たずさぁ食わせる飯なんてぇこちゃねぇんだかんな!くっこっとねぇでば!」

墓を参った帰り。
何やら、子供たちの声が響いておりました。
「わこう幼稚園」の園児達が運動会の練習をしておりました。
嘗て田圃だったところには、芝生が植えられております。
「少し暑いかな」とも思いましたが、子供たちは本当に元気ですね。
一生懸命、練習しておりました。
「この子たちはどんな思いで、震災を見てきたのだろうか」
ですが、めいいっぱいの笑顔を見ておりましたら、この考えが「単なる野次馬」だと反省しました。
この子達が大人になってここを訪れた時、以前と同じような潮風の似合う町になっていたら・・そう思いました。


花渕浜。父とよく釣りをしました。
流石に、釣り人はいないだろう・・・と。
一人、釣り師がおりました。
鯊釣りでにぎわうはずの今頃です。
少しばかり寂しい思いもあるのですが、釣り師も一人また一人と増えてきて・・・。

浜を後にしました。
来年五月。
今度訪れる時はどう変わっているのだろう。


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山のあなたの空… (ぐずら)
2011-09-18 22:34:38
今日は、夕方散歩がてら役場前から多門山~代ヶ崎~吉田~花渕~菖蒲田と歩いて一回りしてきました。
菖蒲田にはしょっちゅう行きますが代ヶ崎~花渕は久しぶりだったので、ずいぶんと片付いた印象でしたよ。
奥まで覗いてみませんでしたが、同性寺のあたりもだいぶ復旧したみたいで、そこだけ真新しい街灯が印象的でした。
そこを過ぎて菖蒲田に向かうと、次に街灯が点いているのは菖蒲田公園を超えて汐見台南団地に入ってからでしたね。
菖蒲田公園から国際村を見上げると、その左側に破砕されたガレキが整然と積み上げられています。酔漢さんも驚かれた風景です。
山のてっぺんに更にガレキの山ができている風景は確かに異様ですが、でも、ご安心ください。
ガレキの積まれたこの山、もともと谷間に火力発電所の石炭ガラを長年に亘って埋めてできた山で「灰捨て山」と呼ばれており、
ここには環境対策のための排水処理施設も完備されていて、管理型産業廃棄物処分場としての要件を備えています。
そのため、ほかの被災地のように処分先が足りずガレキの撤去が進まないと謂うこともなく、これまでのところは順調に片付けが進んでいます。
火力発電所のお陰ですね。ちなみに、町内2ケ所の発電所は燃料を天然ガスに切り替えたので、今後石炭ガラは発生しません。
とはいえ、あのガレキの山がいつか二次処分場に再搬出されるのか?
それとも、あのまま土を被せて埋め立てられるのか? 気になるところではあります。
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日和山 (ひー)
2011-09-18 22:44:54
今日行ってきました。UPしましたが、言葉が出ません。

仙台港から南側は延々と平地であり、穀倉地帯です。
閖上もその通で逃げ場がありませんね。

それぞれ、怖い思いをしたことでしょう。
先人の教えは、引継がなければいけないのですね。


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ぐずら様へ (酔漢です)
2011-09-20 08:50:37
そうでした。「灰捨て山」です。
これも、思い出しました。以前、父から聞いた覚えがございます。
ですが、かなりの量になりますね。
どう使うのでしょうか。
煙突のない火力発電所。
どうもあの三本煙突の風景が馴染みなのでした。煙突の煙の方向で天気だどう変わるか。
小学生の頃の自由研究でした。
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ひー様へ (酔漢です)
2011-09-20 08:53:26
七郷に友人がおりまして、遊びに行きました。
農家の感じの風景でしたが、海が近いとは考えてませんでした。
仙台平野の地形、最たるものでしたが、その平野が野原のまま何もない。
今だ、風景を想像できません。

トラバお手数おかけしました。
ありがとうございました。
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ごぶさたしていました (ぱるえ)
2011-09-30 15:19:22
何であのとき写真を撮ってなかったんだろう・・・
カメラを持っていたのに、忙しくもなかったのに。
震災後、そんなことばかり考えていました。
県道から入ってすぐに目に飛び込んでくる田園風景が大好きでした。

近くに住んでいますが、まだ和光幼稚園まで訪れていません。
立派な本堂ですね。同性寺の今をありがとうございます。
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ばるえ様へ (酔漢です)
2011-09-30 17:14:06
ご住職は、上半身Tシャツの半ズボンで、掃除をしてました。
お声をかけようかと思いましたが、お忙しいご様子。遠慮いたしました。
傷んでいた部分も補修、修理されてました。
昨年出来たばかりなんですよね。
父の葬儀はこの本堂で行いました。
さりげない風景を大事にすることをすこしばかり意識するようになりました。
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