撮影の合間に、長和から一つ東室蘭寄りの伊達紋別から倶知安までを結んでいた胆振線(いぶりせん)の廃線跡のうち、サイクリングロードとなっている伊達市内の終点まで行ってきました。
胆振線(いぶりせん)は、室蘭本線・伊達紋別から函館本線・倶知安までの83kmと途中の京極から脇方までの7.1kmを結んだ路線で、1986年10月をもって全線廃止となっています。
胆振線は、京極軽便線として建設された倶知安から京極,脇方までの部分と私鉄の胆振循環鉄道,胆振鉄道が建設した伊達紋別から京極までの部分に分けられます。
倶知安から京極までは、脇方で産出される鉄鉱石の運搬を目的に1919年に京極まで開通。その翌年に脇方まで開通しました。
京極から伊達紋別までは、1928年に胆振鉄道が京極~喜茂別を、胆振循環鉄道が1940年に伊達紋別から新大滝(開業時は徳瞬瞥(とくしゅんべつ))、翌年に新大滝(徳瞬瞥(とくしゅんべつ))~喜茂別を開通、1944年に戦時買収されて倶知安から京極間と統合され、胆振線となりました。
当初より、豊富な鉄鉱石や木材を輪西(東室蘭)にある製鉄所へ運ぶという軍需目的が前提の路線であったため、有珠山(昭和新山)の火山活動によって7回にも及ぶ路線付け替えを行ったほどのとても重要な路線でした。また、札幌発倶知安から胆振線経由札幌行きの「いぶり」が走ったりもしましたが、戦後の鉄鉱石の需要減少による脇方鉱山の閉山により1970年に京極~脇方を、自動車輸送の発展により1986年に残りの区間が廃止となりました。
廃線跡のうち伊達市内のほとんど(約6km)は、伊達市がサイクリングロード「伊達 風のメモリー」(市道 胆振長輪線)として整備、伊達市以外の場所では公園となったり、自然に還ったりしているところもあるようです。
最初は伊達紋別駅です。
伊達市は伊達氏が中心となって開拓したところで、駅舎は伊達家の武家屋敷をイメージしたものだそうです。3番ホームの長万部よりにある跨線橋下にホームの切り欠きがあり、ここが胆振線用の0番ホームだそうです。
← 草むらになっているところです
駅名は北海道にある他の「モンベツ」(紋別,門別)と区別するためにこの駅名になったとのことです。他のモンベツはアイヌ語の小さなまたは静かな川(子川,支流)という意味のモペッからきているのだそうですが、ここはもともとモンベツと呼ばれていたためアイヌ語によらない駅名なのだそうです。「ベツ」は川という意味で、近くに長流川(おさるがわ)が流れていますから少しは関係があるのかも知れません。(この周辺は、壮瞥(そうべつ),伊達紋別,鷲別(わしべつ),幌別(ほろべつ),登別(のぼりべつ)… ベツだらけ)
胆振線は伊達紋別駅を長万部方向へ出発し本線としばらく併走した後、右にカーブします。分岐点は今では私有地となっていますが、すぐのところがサイクリングロードのスタート地点として整備されています。
←分岐点
←スタート地点
国道に至るまでの区間。住宅地の脇を通ります。
国道下から抜け出たところです。
伊達温泉へ向かって伸びています。
伊達温泉を過ぎてすぐに長流川を渡ります。
橋は「ちりりん橋」として整備されています。
渡ってしばらく行ったところです。
このあたりに休憩所があるということなのですが……
高速道路の下付近です。
昭和新山に向かって走っていました。
一つ目の駅、上長和(かみながわ)駅に着きました。
ここは休憩所として、元のホームを生かして整備されています。
この駅は開業当初は上長流(かみおさる)という名称でしたが、付近の地名が長和に変わったことで変更になったとのことです。
←伊達紋別方向 上長和方向→
←終点までは残り1.2km
近くにあったバス停は今でも駅前でした。
ここは終点付近です。道路建設のため、無理に曲げられ、道路の下へ……
ここが終点です。
ここから先は路盤らしきものが確認出来ますが、よく分からなくなっています。
←田んぼと電柱の間に一段あるところが路盤です
上長和の次の駅、壮瞥(そうべつ)駅に行くことにしました。
駅の跡を探してうろうろしている途中にあった牧場です。
逆光で見えにくいですが、昭和新山がこんな風に見えました。
探していたのですが、結局、私には分かりませんでした。
ただ途中にこんなのがありました。
またの機会に来てみたいと思います。