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【出発点に戻って】死は終わりではない①

2012-04-03 00:02:42 | 高森光季>死は終わりではない

 スピリチュアリズムの紹介・解説をずいぶん逸脱して、少し暴挙かなと思えるようなこともしてきましたが、そろそろこのブログも一段落という感じになってきました。
 このあたりで、改めて出発点に戻って、現時点で思っていることを書いてみます。

      *      *      *

 私が言いたいことは、ごくごく単純なことです。
 それは、人間は単なる物質の集合体なのか、それともそうではないのか。
 もっと単純に言うと、人間は死ねば終わりか、そうでないのか。
 このことに関して、どちらの見解でも採る自由がある。どちらも絶対ではないし、どちらもある程度の信憑性はある。どちらを採っても相手を狂人と決めつけることはできない、ということです。

 私は「死ねばおしまいではない」という立場に立っていて(特定の宗教とは関係なく)、その論拠や正しさを主張しますが、「死ねばおしまい」という人を、無理やり説得して反意させることはできませんし、そういう人を愚か者呼ばわりするつもりもありません。それはそれでいいと思います(いささか残念ではありますがw)。
 なぜなら、人間の知りうることは限界があるからです。私は「死ねばおしまいではない」という見方に信憑性を認めますが、その知識も限界があるわけで、絶対ではない。それは謙虚に認めなければならない。

 「死ねばおしまい」の立場を採る人たちは、しばしば「科学的法則が絶対だ」という見方をします。われわれが発見した物理的法則はすべてを包み込むものであって、それに反する現象はない、と。
 私はこうした主張を「知の傲慢」だと思います。人間の知覚や認識能力は限られています。知識もそうです。それを絶対だと言い張るのは、むしろそちらの方が「中二病」(妄想的観念に憑かれた状態)ではないでしょうか。

 人間の知識(知性)と宇宙(現実)と、どちらが大きいでしょうか。
 人間の知識(知性)は宇宙全体(すべての現象)をカバーすることができるでしょうか。
 答えは明白ではないでしょうか。

 確かに私たちは物質の法則に関して、百年前は考えられなかったほどの知識を得ました。でもそれは、完全ではありません。説明できない現象は多々あります。私たちが知り得たことは、全宇宙の中のほんのわずかな部分に過ぎません。足が立つ浅瀬だけを研究して、太平洋をわかったようなつもりになっているようなものです。
 科学というものは、もともと、現象を計測・分析して、そこから共通する法則を抽出するという営みでした。確かに法則によって、物質の動きを予測し、コントロールすることができるようになって、私たちの活動は豊かになりました。けれども、法則が絶対であって、それに反する現象は存在しない、という考え方は、科学の自殺であり、「知の傲慢」です。
 そもそも、科学というものは「何かがあるかないか」に関して判断するものではないのではないでしょうか。「現状では観測できない」は「ない」ではないわけです。
 (ちなみに「見込み唯物論」というのもあります。「今は説明できない現象も、そのうち物質科学で説明できるようになるはず」という考え方です。絶対そうではないとは言えませんが、まあ、一種の信仰です。「大阪まで歩いて行けたんだから上海までも行けるだろう」と。え、間に海があるんですが……)

 また、私たちが生きていく際の経験の中で、物質の部分というのは、一部に過ぎません。私たちがもっぱら生きるのは、思いや感情といった、物質には分解できないものです。唯物論は、物質というごく一部だけを法外に拡大して全部だと主張しているのではないでしょうか。いささか陳腐な言い方になりますが、唯物論的思想である「経済(物質)生活至上主義」は、私たちの生を逆に貧しいものにしているのではないでしょうか。私たちは、いくら稼いで何を買ったとか食ったとかで生きているわけではなく、それらを通して得られる感情、思考、感覚、直観などを生きているのではないでしょうか。
 (脱線しますが、映画「コンタクト」の中に、実証に固執する主人公の科学者に、恋人である神学者がこう尋ねるシーンがあります。「あなたは(亡くなった)お父さんを愛していた?」「ええ、とても」「その証拠は?」「……」。私たちの生の活動の中で、実証できるもの、物質的な基盤があることが証明できるものは、実はごく限られた部分でしかありません。)

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 私は「死は終わりではない」「人間の個性は死後も存続する」と主張する立場(死後存続説)ですが、それを裏づける現象・研究はかなりたくさんあります。ただし、この世で起こっている「通常の現象」に比べると、その出現率は、とても低いものであることは確かです。科学信奉者は、10万回とか100万回に1度しか起こらない現象は、ゼロ=無と等しいと言うかもしれません。
 しかし、100万人に1人しか発生しない病気は、病気ではないのでしょうか。その病気が人間の身体の秘密を明かすという可能性もあるのではないでしょうか。

 例外的な、あてにならない現象は無視するという立場もあると思います。はっきりとわかっていることの範囲で考え、行動すべきだという立場も。
 しかし、はっきりとわかっていることなど、それほど多くありません。社会現象、たとえばインフレーションあるいはデフレーションでさえも、はっきり「原因」がわかっているわけではなく(大衆の心理というものも加わるので)、どうやったらそれを重大な問題を引き起こさず解決できるかは、実はわかっていません。
 それに、すべてが判明している範囲で生きるなんて、つまらないとは思いませんか。“教会が決めた神学”の中に何もかもを押し込めて、安全に生きたところで、何が面白いのでしょう。というか、私たちの生はそんな範囲に収まるようなものではないでしょう。あてがはずれ、見方が覆され、謎が増え、「いったい真実はどこにあるのだろう」とさらに問うていくのが人生ではないでしょうか。

 私は、世界の番人であるように振る舞う唯物論者や、体制権力である唯物論の尻馬に乗って、調べたり考えたりもせず反対派を罵倒する人々のことを、あまり好きにはなれません。まるで絶対権力の上にふんぞり返った中世の教会や、そのそそのかしに乗って、異端告発や魔女狩りをした人々と同じように見えます。少数意見には一定の敬意を払いましょうというのが近代の成熟したマナーですが、反唯物論に関しては、そういうマナーは忘れられるようです。

 「死ねばおしまい」の見方を採る人は、それでどうぞと思います。たぶん論戦して説得するというようなことはできないでしょう。私はそういう人たちについて、「何か重要なことを見落としていないか」と疑うことはできますが、そういう人たちを罵倒する権利はありません。
 ただ、「霊魂があるなんて信じるのは妄想だ」と言ってくる人には、こういうふうに問い返してみればいいのではないかと思います。
 「あなたの知や判断は絶対ではないのだから、そう断言することは傲慢ではないでしょうか」


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