スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

【出発点に戻って】死は終わりではない②

2012-04-04 00:03:04 | 高森光季>死は終わりではない

 「死ねばおしまいではない」ということを示す事例はかなりたくさんあります。
 ここでいちいちその代表例を挙げて、検証や論争を紹介するのはしんどいのでやめます。
 一つだけ、最近の日本での事例を挙げておきます。
 それは、稲垣勝巳氏という催眠療法家が、「過去世退行」を施術した際に出現したケースです。
 難病を患っている里沙さんという女性(岐阜県在住)に、「過去世に戻りましょう」という暗示をかけたところ、里沙さんは、江戸時代に生きたタエという少女の人生と、その後の時代にネパールで生きたラタラジューという男性の人生を語りました。その語りの内容を史実とすりあわせると、かなり整合性が高いということがわかりました。
 そして、最も注目すべきは、ネパール人であった「過去世」を想起した際に、里沙さんは習ったことのないネパール語でネパール人と会話をしたのです。(これは「真性異言」と呼ばれる非常に稀なケースです。)
 この事例に関しては、同氏の『前世療法の探究』(春秋社、2006)、『生まれ変わりが科学的に証明された!』(ナチュラルスピリット社、2010)、およびブログ「稲垣勝巳生まれ変わりの実証的探究」に詳しく報告されています。セッションの実録ビデオは、テレビ「アンビリバボー」でも放映されました。
 その一部を紹介しましょう。ネパール人の質問者が、死の場面がどうだったかと尋ねた個所です。一部省略しています。

  質問者  Ke ko rog lagyo?(何の病気ですか?)
  里沙   Au ... ha .... pet.(あう、は、お腹か)
  質問者  Pet?(お腹?)
  里沙   Pet dukahuncha.(お腹が痛い)
  質問者  Pet dukera?(お腹が痛いのですか?)
  里沙   guhar ... guhar.(助けて、助けて)
  質問者  Kati barsama bitnu bhako?(死んだ時は何歳でしたか?)
  里沙   Umer ... Mero ... umer ...(歳は、私の歳は)
  質問者  Hajur. Bite ko umer.(はい。死んだ歳は?)
  里沙   Ath satori ... ah ...(8と70、あー)

 この事例に関する信憑性の検証と、疑義への反論は、上記の本やブログに載っています。「ペテンだ」というはなはなだ暴力的(笑い)なものから、「テレパシーや透視によるものだ」という高度なもの(いわゆる「超ESP仮説です)まで、いろいろな反論がありますが、私は公正に見て、里沙さんが習っていないネパール語(しかも前世人格の特色と合致する特殊表現も含む)で会話したことは間違いないと思います。

 単純に考えれば、里沙さんは過去世であるラタラジューに戻り、当時話していたネパール語会話力も取り戻した、ということになります。つまり、たぶん18~19世紀に生きたラタラジューという男性は、里沙さんの無意識の中に生き続けていることになります。もっと単純に言えば、ラタラジューは里沙さんとして生まれ変わったということになります。
 もう一つの考え方は、ラタラジューは霊として存在していて、どういう経緯かはわかりませんが、突然里沙さんに憑依したというものです。これに関しては稲垣氏自身が慎重に検討しています。断定的なことは言えませんが、いくつかの検討から憑依ではないだろうと結論していて、私もそれに同意します。
 しかしたとえ「霊の憑依」だとしても、ラタラジューがある種の人格性を持って、死後も存続していることは変わりません。
 いずれにしろ、「人間の個性は死後も存続する」ということを示す事例だと言えるのではないでしょうか。

 上記の例は、非常に稀で反論にも耐える特殊ケースですが、死んだ人が、霊媒を通したり、偶然的な形式によって、遺族や知人と話をするという事例は、掃いて捨てるほどあります(例えば、G・カミンズ『不滅への道』の「交差通信の記録」などを参照)。催眠によって、あまり実証性はないものの、過去に生きた記憶を甦らせるという事例もかなりたくさんあります。また、「生まれ変わり」に関しては、イアン・スティーヴンソンによる精緻な研究があります。
 こうした様々な事例を検討した上で、私は、そしてスピリチュアリストと言われる人々は、「人間の個性は死後も存続する」ということを、宗教とは関係なく(このところは重要です)、きわめて理性的に、納得し、主張しているわけです。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿