『トマスによる福音書』については、前にも触れました(【霊学的イエス論(16)】「神の国」とは何か(2))
手抜きで自己引用。
『トマスによる福音書』というものがある。1945年にエジプトのナグ・ハマディで農夫によって発見された文書の中にあった、コプト語の「イエス語録」である(『トマスによる福音書』なる書物があったということは古くから知られていた)。
これをめぐっては盛んに論争が繰り広げられている。共観福音書を剽窃し、それに独自の宗教思想を加えたものだとする見方もあれば、「Q資料」と同様のかなり古いイエス語録を伝えるものだとする見方もある。前者は欧州で強く、また護教論者がこちらを採るのは当然。後者は米国で強く、リベラル派(?)が多く支持する。詳しくはクロッペンボルグ他/新免貢訳『Q資料・トマス福音書 本文と解説』日本基督教団出版局などを参照されたい。
実に不思議な書物です。共観福音書と重なる記述もあれば、そういうものとはかなり異なる、神秘的でわけのわからない文章もある。
むしろ興味を惹かれるのはそういった「?」の文章です。そこに、もしかしたら、失われたイエスの言葉の片鱗があるかもしれない。
イエスは霊的世界(神の国=神の支配=神の秩序)を知っている人ですから、そのあり方や、そこから導き出される知恵を、いろいろな表現で語ったと思います(もっともイエスは体系立てて、講義のようにして神の国論を語ったわけではなく、折に触れ、あれこれと断片的に発言しただけでしょうけれども)。高次の秩序は、この世の言葉ではなかなか表現できないので、どうしても変な表現になる。人々は(弟子も含めて)それがわからないので、意味不明として忘れ去る。おそらく厖大な言葉が失われたでしょう。
トマスに収められた言葉のいくつかは、そういうものであるかもしれない。そんな思いで読んでいくと、なかなか楽しいものです。
ここで、いくつかの文章について、勝手な解釈をしてみたいと思います。もちろん、霊魂主義的な見地を踏まえてのものです。本文は上記クロッペンボルグ翻訳本によっています。
* * *
「誰でもこれらの言葉の解釈を発見する者は死を味わうことはないであろう。」(1)
こういう「銅鑼鳴らし」というのはどういう宗教文書にもあるもので、「これから言うことをしっかり聞けよ。そうすればすごいことがあるぜ」という“惹句”なのですけれども、別に嘘を言っているわけではない。「深遠なる叡智」を知れば「生命の永遠性を知る」。これは霊魂実在論(グノーシスもイエスもこれに含まれます)の立場から言えば、「ごく当たり前の事実」であるわけです。ただ難しいのは「深遠なる叡智を知る」ということで、それを知り、納得し、実際にそれを生きるというのは、並大抵のことではない。ここでは「言葉の解釈を発見する」という、妙に学者的な表現が使われていますが、これは実践・行動より哲学的・瞑想的探究を重視したグノーシス派の影響が見えるような気がします。
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「求める者には、見いだすまでは求めることを止めさせてはならない。人は見いだす時、心穏やかならぬであろう。人は心穏やかならぬ時、驚嘆し、そして、万物を支配するであろう。」(2)
真理の探究は、心底納得しない限り続けなければならないし、「もうそこまでにしておけ」と制止してはならない、ということでしょうか。後段はいっそう難解ですね。人は真理と出会った時、激しく動揺するだろう、そして驚き、事物に対して「主」となるだろう。ううむ、わかるようなわからないような。「随所に主となれば立つ処自ずから真なり」という禅の言葉がありますが、ここでは逆ですね。「真に出会えば、随所に主となる」。私の本源である霊と一体になれば、そこに無限の心があることを知り、さらに霊は物質世界を統御・支配する力をもつものであることを知る、ということでしょうか。
* * *
「御国はあなたがたの内にあり、また、それはあなたがたの外にある。あなたがたがあなたがた自身を知るならば、そのときにはあなたがたは知られるであろうし、また、あなたがたが生ける父の子たちであることをあなたがたは知るであろう。しかし、もしあなたがたがあなたがた自身を知らないならば、あなたがたは貧困にとどまるであろうし、また、あなたがたは貧困なのである。」(3:3-5)
前段の「御国」は、「神の支配」であり、「霊的に高次の秩序」ということ。それは私たちの心の奥にあり、またこの世の奥にもある。内的探究によっても外的探究によっても、神の光は見いだすことができる。
後段のまわりくどい表現は、「あなたたちが自分の本性が霊であることを自覚すれば、神あるいは霊的存在もあなたたちを見つけ出すだろう。そしてあなたたちは自分が神の子であることを知るだろう。しかし、あなたたちが自分の霊性を知ろうとしないのなら、あなたたちの心は貧しいままだろう。そして実際、今のあなたたちは貧しいのだ」ということでしょうか。
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「誰が自分自身を見出しても、その人にこの世はふさわしくない。」(11)
これは反現世主義で、イエスもグノーシスも、その点は同じ立場だと思います。あなたたちが自己の霊性を見いだせば、この世は粗雑で矮小な世界だとわかるだろう。あなたたちは霊であるのに、悪であるこの世に囚われている、ということでしょう。
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「あなたがたが光にある時、あなたがたは何をするのであろうか。あなたがたが一つであった日に、あなたがたは二つになったのである。しかしあなたがたが二つになる時、あなたがたは何をするのであろうか。」(11:3b-4)
一見わけのわからない表現です。私たちの魂は、光の国である霊界からこの世にやってきています。私たちがまだこの世に降りず、光のもとにいる時、私たちはどういう思いや意図を抱いていたのでしょうか。しかし、何らかの理由で(グノーシスでは悪神による拉致で)私たちは、霊と魂に分かれ、霊界と現世に引き裂かれて存在することになりました。さて、そこで私たちは何をすべきなのでしょうか。そういう問いかけなのでしょう。
スピリチュアリズムでも、「あなたはこの世にいるが、同時に霊界にもいるのだ」という言葉があります。この世にいる私は、霊界にいる本体としての私の、一つの「局面」だとも言われています。神秘中の神秘です。
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「初めのあるところに、終わりがあるであろう。初めに立つ者は幸いである。すなわち、その者は終わりを知るであろうし、また、死を味わうことはないであろう。」(17:2b-3)
いろいろな解釈ができるでしょうが、「初め」は、私の魂が現世に降りない前の、霊の世界だと考えることができます。そこに、私たちが戻っていく終点があります。私たちが、現世に降りる直前のことを思い出せれば、そこに、どうやって現世を終えて霊界に戻っていくかということもがすでに描かれていることを知るでしょう。そして、当然、死はないということを知るでしょう。
マイケル・ニュートンの報告などを見れば、魂は、成長のためにこの世に生まれてくるわけですが、その際、“指導的存在”から、今回の生の“大まかなアウトライン”を見せられ、それを受け入れて生まれてくると言われています。つまり、初めを知るとは、この世に何をしに来たのかを知ることになります。普通はそれを知らないわけです(一般的にはその方が効果的とされているようです)が、何らかの修行を経てそれを知り得た人は、「幸い」であるのかもしれません。
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「もし肉が霊の故に生じたのであれば、それは一つの奇跡であるが、しかし、もし霊が身体の故に生じたのであれば、それは奇跡中の奇跡である。しかしそれでも私は、いかにしてこの大いなる富がこの貧困の中に住むに至ったかに驚嘆している。」(29)
この物質的世界と肉体が、霊の何らかの必要のために創造されたということは、驚くべき奇跡です。けれども、もし肉体が霊を生み出したなどということがあれば、それは奇跡中の奇跡だ、と言っています。「あり得ない」ということを言っているのか、それとも別の何かを言おうとしているのか、よくわかりません。
後半は、「私は、なぜ厖大な力と可能性を持っている霊が、肉体という牢獄の中に宿ることになったのか、その理由にただただ驚くばかりです」。その理由は書かれていません。表現し得ない神秘ということでしょうか。
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「もし彼らが『あなたがたはどこから来たのであるか』とあなたがたに言えば、『私たちは、光から来たのである。光が自分で生じ、自らを立たせ、彼らの像において現われた所から来たのである』と彼らに言いなさい。〔中略〕もし彼らが『あなたがたの中にあるあなたがたの父の証拠は何であるのか』とあなたがたに尋ねれば、『それは運動であり、安息である』と彼らに言いなさい。」(50:1,3)
前半は、「光」を「神」と読み換えると、一般的な創造説ですね。「彼らの像において現われた所」というのはよくわかりません。光が、個別的な像(エイドス=形相)として分立・活動している世界ということでしょうか。絶対的創造者の下に、いくつかの「神々」(=アイオーン)の存在・活動を認めるグノーシス的な宇宙観なのでしょうか。
後者の「運動」「安息」は面白いですね。運動は神の創造、安息は神の平和=大調和ということでしょうか。まあ、活動的(創造的)でありつつ、魂の平和(叡智による不動)を求めなさいということかもしれません。
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「あなたがたがあなたがたの似像を見る時、あなたがたは喜んでいる。しかし、あなたがたが、あなたがたよりも前に生まれ、死にもしないし見えるようにもならないあなたがたの像を見る時、どれくらいあなたがたは耐えることであろうか。」(84)
なんか、すごい表現です。
似像というのは、イデアに対して創られた形相(エイドス)としての私ということでしょうか。私の「霊 spiritus」に対して、「魂 animus」として「肉体 corpus」に宿った(というより閉じ込められた)「今の私の現われ」ということのように思えます。そういう「私」を見て、あなたたちは喜んでいる。
「あなたがたより前に生まれた」「像」というのは、当然、私の「霊」ということになるでしょう。「死にもしないし見えるようにもならない」のですから。
それに「どれくらい耐えることができるか」と言っています。ううむ、これは……
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「魂に依存している肉体に災いあれ。肉体に依存している魂に災いあれ。」(112)
「に災いあれ」は、あの「幸いなるかな」の反対表現で、「不幸だ」と読み換えれば、すっと通る表現でしょう。
「肉体に依存している魂は不幸」というのはわかるとして、「魂に依存している肉体は不幸だ」というのはどういうことでしょうかね。肉体は本来生物体として健全であるのに、魂によって振り回されるということでしょうか。魂が不健全で病気になるということもあるわけですし。
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いささか強引な読みもあるかもしれませんが、あくまで一つの試みです。
こうした表現がイエスのものなのか、グノーシスの流入なのかは、わかりません。
「霊 spiritus /魂 animus /肉体 corpus」の三分法というのは、グノーシスの中核思想です。だからそういった言葉を用いた表現も「後代のグノーシス思想の流入」というように解釈されてしまうかもしれません。
けれども、イエス自身、グノーシス思想とまったく無縁だとは言えないと思います。というか、むしろ、イエスの思想(というか見ていたもの)とグノーシス思想は、大いに共通するところがあったのではないでしょうか。
イエスは、福音書で見る限り、あまり「他界」のことを語っていません。せいぜい、「人は死んだ後(復活したら)、天のみ使いのようになる」という言葉(マルコ12:25、マタイ22:30、ルカ20:36)と、「小さき者たちを蔑むな、彼らのためのみ使いは神の顔を天でいつでも見ている」(マタイ18:10)と、直説かどうかは少し怪しい「神のもとにはたくさんの住み処がある」(ヨハネ14:2)くらいでしょうか。
けれども、総体としてイエスの言説や行動を見ると、やはりそこにはグノーシスに非常に近い、「霊魂」へのまなざし、「この世を超えた霊的世界」へのまなざしを、感じざるを得ないように思います。(上掲「【霊学的イエス論(16)】「神の国」とは何か(2)」の「イエスと他界」参照。)
私には、イエスの「霊的な言葉」は、なぜか“細心の注意を払って取り除かれた”ような感じさえ受けます。そして、そのかすかな断片が、この『トマスによる福音書』の中に残っているのではないか、と。
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