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【出発点に戻って】死は終わりではない⑦(終)

2012-04-12 00:05:36 | 高森光季>死は終わりではない

 「人間の個性は死後も存続する」ということが真実なら、なぜそれを示す事件が頻繁に起こらないのか、誰もが納得するようなはっきりした証明がなされないのか、と否定論の人たちは言います。それは、「死後存続」を受け入れた人たちも、同じように考えています。
 これについては、「わかりません」と言うしかありません。はっきりしたことは何も言えないのです。
 ただ、いくつか推察できます。もっともこれは物質的な基盤がある話ではないので、詭弁とか妄想と言われるかもしれません。
 ひとつは、現状の人間とこの世界のあり方にとって、「死後存続説」が全部に広まることは、不都合な事態を招きかねない、ということです。そのために、人間の内在的なシステムか、あるいは「超越的な意図」によって、秘匿作用が働いている、と。
 「人間は死後も存続する」ということは、へたに受け取ると、現実の人生への軽視を招きます。いやだと思ったら、大きな失敗をしたら、苦しくて仕方がなかったら、リセットボタンを押す誘いになります。実際、この世は苦と悪の世界であり、何かをすれば死後に極楽の世界へ行けると説いた宗教(特にカタリ派や浄土教)では、自殺に相当する行為も行なわれました。また、輪廻転生を信じ、この世の今の姿は束の間のものであるとする宗教の国(たとえばインド)では、現実社会をよいものにしようという動きは鈍くなる傾向がありそうです。
 これと重なるかもしれませんが、現状の人間の意識では、過去世があるとして、それをあまりに詳細に思い出すと、現世が生きにくくなる、あるいは意識がオーバーヒートする、ということがあるかもしれません。人間の意識というものは、非常に脆弱なものです。幼児期に受けたトラウマでさえ、後の人生に大きな影響を与えると言われています(これに疑義を提出している人もいますが)。前世で残酷な死に方、殺され方、あるいは殺し方をしていたとしたら、それを思い出すことは、トラウマとは言わないまでも、かなりの負担になるでしょう。
 また、死後に存続している意識体(平たく言えば死者霊)が確実にあり、それが現実世界に何らかの干渉をしているということになると、社会秩序に混乱が起こります。ある犯罪をしたのは当人ではなく憑依していた霊なのだということになると(実際にはそういうケースもあります)、裁判はどうなるのだということになります。
 ほかにもいくつか考えられることはありますけれども、ともかく「死後存続説」に関することは、ある種の「秘匿圧力」が働いていることは間違いないことだと思います。
 それが人間というシステム(必ずしも物質的なシステムではなく)に組み込まれているのか、それとも「超越的な何か」の企図によるものなのかは、はっきりとはわかりません(神様や高級霊の意図かもしれませんw)。

 (ちなみに、超心理学研究者で心理療法家の笠原敏雄氏は、こうした「秘匿圧力」に関して様々な研究や実験を重ねて――『サイの戦場』『超常現象のとらえにくさ』『隠された心の力』など――、近年は独自の理論である「幸福否定構造仮説」を出しています。非常に面白い研究ですのでご参照ください。サイトは「心の研究室」。ただし笠原氏は生まれ変わりや死後存続を認めているようですが、スピリチュアリストではありません。
 「超常現象に対する心理的抵抗」は、私もしばしば観察したことがあります。ある集まりで、霊的な現象が収められたビデオを上映したところ、多くの人が居眠りを始めました。また、誰かと話している時、霊的な事柄に少し触れると、相手がまったく「聞いていない」状態になったり、突然全然違う話題を出してきたり、ということもしばしばあります。)

 (もうひとつちなみに、世界各地にある「黄泉の国探訪譚」で、この世に戻ってくる時、「後ろを振り返るな」というタブーが課されるものがあります。神話はこれを破ってどうのこうのなるという話になるわけですが、これは「何か」を示唆しているように思えます。ある説では、前世を終えてこの世に生まれ変わる時、「忘却の水」を飲まされるとも言います。人間の心の深奥にそういう「処理」の記憶があるからかもしれません。)

 「だったら死後存続説は無視しておけばよい。何もそれを主張する必要はない」ということになるでしょうか。
 そうは思えないのです。確かに、「死後存続説」が、全部に明確に疑義なく広まることを妨げる圧力があると同時に、それをあちこちで「匂わせる」働きもあるわけです。古来、宗教者は様々な方法で「死後存続」に関する情報を得て、それを元に宗教を創ってきました(おそらく霊界からの意図的な介入があったのでしょう)。それがよろしくない成果をもたらすこともしばしばありましたけれども(特にドグマ化したり組織化したりすることによって)、求める人には伝わり、何らかの働きをしてきました。

 「知るべき人は知った方がいい」――私はこう思っています。知る必要のない人、知らない方がいい人というのがあるのかもしれません(ひょっとするとそれは魂の古さに関係しているのかもしれませんがよくわかりません)。だから誰かのところへ押しかけていって、あるいは街角に立って、「死後はありますよ」とがなり立てる必要はない。
 ただ、「知るべき人」に、比較的正確で穏当な情報が伝わることは望ましいだろうと思うわけです。今の「唯物論支配」の中では、情報は圧殺されています。あるいはグロテスクに歪んだ形になっています。そこに、何とか水路をつけたい、と。もっとも、「知るべき人」はそういった障害にも屈せず、ちゃんと「知る」のかもしれません。しかしそうなると「別に何かをする必要はない」ということになって、それもちょっと違うかなあとも思うわけです。

 私自身は、スピリチュアリズムを知ったからといって、一銭の得もしていません。社会的な報償も得ていません。私の悩みや悲しみがきれいになくなったわけでもありません。
 でも、それはそういったことをはるかに超えた何かを、与えてくれたものだと思っています。
 最後にシルバー・バーチさんの言葉を引きます。

 《スピリチュアリズムの真実を知ったあなた方は、それによって得た分を物的なものに換算したらどれほどのものになるか考えてみたことがおありですか。つまりあなた方は地上的なものでは計り切れないほど貴重なものを手に入れられたのです。それに比べれば、俗世的な宝はガラクタも同然です。あなた方はこれから先も永遠に生き続けるのです。》(『シルバー・バーチの霊訓』4、116頁)


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1 コメント

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「知るべき人は知った方がいい」同感です。 (サイババさぶちゃん)
2012-04-12 12:10:39
高森先生いつも大変お世話になっております。

死は終わりではないシリーズ全部読ませていただきました。

レイキ整体とタロットカウンセリングを生業としている私は

身体の不調や精神的な悩みをもった方たちと日々関わっています。

そんな毎日の中で感じる事ですが、お客様の中で、早く良くなる方と、

なかなか治りにくい方がいます。私の勝手な思い込みかもしれませんが、

前者のタイプは「死後存続」などの話を素直に受け入れられる方。後者の

タイプはそのような話題に拒絶反応を示される方。の、ような氣がします。

私も高森先生と同じく、知るべき人にはスピリチュアリズムのお話を丁寧に

するように心掛けております。

死は終わりではない。という今回のお話はとても勉強になりました。本当に

いつもありがとうございます。
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