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達人たちの仏教 ⑥顕密体制と曹洞宗の「禅密双修」

2011-08-09 00:03:27 | 高森光季>仏教論3・達人たちの仏教

 宗教的探究を長年行ない、何らかの「よきもの」を得た人は、一般人に対してどう接するのか。
 この主語は「達人」でもいいですし、「プロ宗教者」でもかまいません。(教義教典の解説学者はここには含みません。)
 これは仏教に限らず、大問題です。

 お釈迦様の古代インドの話はよくわかりませんし、あまり論じる意味はないように思いますので、日本に話を限ることにします。
 仏教が入ってきた時、二つの形態がありました。一つは国家官僚としてのプロ。もう一つは特殊技能者としての聖。前者は研究所・大学院みたいなものですから大衆を問題にしませんでした。後者はよくわかっていません。ただの流浪人であったり、呪医であったり、土木技術者であったり、といろんな伝承があるようです。ただ、それほど大規模な活動ではなかった。要するに、初期日本仏教では、大衆はほとんど問題にならなかった。
 平安中期頃から、それは変わり始めます。貴族や有力武士が中心ですが、ある程度、一般人を対象にした仏教の展開が起こる。そこでは、知識(外来の素晴らしい哲学)を教えることと、密教修法によって加持祈祷をすることが柱となりました。また、富裕層に限ってですが、宗教的探究をしたい人にその場を提供すること(寺院への出家)という役割もありました。限定的ですが、あぶれ者を雇う機能もありました(公家の次男以降もある意味ではあぶれ者です)。
 ともあれ、俗人は「知識・教え」と「呪術による現世利益」を求め、代わりに経済的報酬を差し出し、達人はそれによって存在を保証されていました。まあいわゆる「顕密体制」を単純化するとこういうことになるわけですね。

 ところが、不思議なことに、わずか100~200年ほどで、この構造を根底から覆そうとする動きが起こりました。鎌倉新仏教と呼ばれるものです。法然・親鸞・一遍の専修念仏教、日蓮の法華経宣布教。これは「達人vs俗人」「知識・呪術vs報酬」という構造をぶち壊しました。いささか極論をすれば、俗人・大衆が、宗教行動の主体になったわけです。(見方によっては時代の危機に応じた新宗教カルトだったとも言えるでしょう。)
 そこでの柱は、知識でも呪術でもありません。これも極論ですが、個人の比較的単純素朴な行為(称名念仏、お題目、時たまの禅)が前面に出てくる。一点主義、簡素化がその特徴です。
 さらに親鸞の浄土真宗になると、在俗者がそのまま宗教者であるという、驚天動地の構造さえ出てくる。一向宗(浄土真宗)があれだけの拡がりを見せ、独立国家を作る一歩手前まで行った背景には、このシステムがあることは確かでしょう。
 (まあ、一言悪たれ口を言っておけば、親鸞は「非僧非俗」とかっこよく宣言したつもりだろうけれども、結局「是僧是俗」――教導者として敬意と報酬を受けつつ、家族を持ち、子にその地位を遺贈する[子で失敗したが孫・曾孫で成功した]――ではないか。いいとこどりやん。……あれ、この構造って、ちょっと目を上げれば……)。

 でも、それでも従来の顕密体制の基本構造はなくならなかった。達人(プロ宗教者)が一般人に知識と呪術を与え、報酬をもらうという構造は健在で、その上にというか、むしろ隙間に、念仏者や法華持経者や臨時禅者や在俗密教者(?)がいた。
 で、その後のことはすっとばして、明治の近代化で、一番打撃を受けたのは顕密体制でしょう。国家寺院はなくなり、呪術は圧迫された。代わって拡がったのが、俗人仏教で、浄土真宗・日蓮宗が一気に勢力を拡大した。禅も再復興した。そして鎌倉新仏教礼賛の仏教史観が生まれた(教科書なんかでは、南都諸宗はもとより、天台・真言も「旧」、つまり古くさいと書かれていて、鎌倉新仏教の教祖は、「民衆に救いをもたらそうとした」みたいに描かれているわけですから)。
 おおまかに言うとこういう理解でいいのだと思いますが、要するに日本仏教は、「達人仏教」の顕密体制と「俗人仏教」の鎌倉新仏教体制が(理念として)混在するという不思議な構造を作り上げてきたわけです。そして近代になると、「達人仏教」は危機に瀕しました。達人宗教の最大の拠り所は「葬儀仏教」になってしまい、さらにそれも現在では崩壊の危機にあります。
 ただ、「達人」体制というのは、そもそもその本質として、かなり脆いということがあります。

      *      *      *

 道元を開祖とする曹洞宗という禅宗があります。
 この曹洞宗、全国に1万5000ヵ寺も所属寺院を持っており、浄土真宗とともに「二大勢力」となっています。
 不思議な話です。一般の人は曹洞宗がこんなに大勢力だとは知らないし、その不思議さも知らないでしょう。この不思議さは日本仏教を考える上でとても面白いものです。
 おさらい。道元(1200-1253)は、比叡山・園城寺(いずれも天台宗)、建仁寺(臨済宗)で学んだ後、南宋に留学、中国曹洞宗の天童如浄に師事し「印可」を受けました。帰国後京都深草に寺を開くが弾圧を受け、現在の福井県に移住、永平寺を開き、一時鎌倉布教もしましたが帰り(いろいろあったらしい)、僻地で「只管打坐」(ひたすら坐禅)の修行を続けました。
 道元は末法思想を否定し、念仏などの「易行道」も否定、さらに臨済系の「見性成仏」も否定して一生ひたすら坐禅することが成仏だと主張しました(私はこれも一種の“宗教の解体”だと思いますが)。主著『正法眼蔵』は、その坐禅哲学を展開した75巻(+新稿12巻)に及ぶ大著で、難解です(笑い)。
 道元がやはり鎌倉新仏教に連なるのは、「一点」に絞り、それを過激に進めたというところでしょう。その点では、方向はまったく異なるけれども、法然・親鸞、日蓮と軌を一にするところがあります。
 そういう「坐禅のみ」の人ですから、こんな教えが全国1万5000ヵ寺に拡がるわけがない。というか、道元は宗派を作る気はまったくなく「一箇半箇」(1人でも0.5人でも、要するにごく少数)がわかればいいという主義でした。だから永平寺は弟子第3世義介の時代に分裂、一時は廃寺寸前となりました。
 (ちなみに、親鸞の本願寺も第8世蓮如が出るまでは廃寺寸前でした。一般的に有名宗教家の教団は一本調子に発展したとイメージされますが、そうではない、途中に「何か」があるわけです。天理教なんかもそうです。)
 まあこれは自然な話で、達人の達人性というものは、本質的には伝承されない。ましてや道元の姿勢というのは、ごく少人数の伝え手がいればいいというものですから、拡がる必要性などはない。

 で、曹洞宗の拡がりの基礎を築いたのが、第4世瑩山紹瑾(けいざんじょうきん。1268-1325、総持寺[石川県輪島市]開祖)、その弟子の峨山韶碩(がざんじょうせき、1275-1366、総持寺第2世)です。ちょっと煩雑になりますが、ウィキの説明を引きます。
 《瑩山は師僧義介の遺志を受け継ぎ道元以来の出家修行に加えて密教的な加持、祈祷、祭礼などを取り入れ、永光寺を伝道の拠点として下級武士や商人に禅を広げて修行人口の拡大をもたらした。これには、瑩山が依拠した寺院が、以前の白山系の天台寺院であったことや、兼修禅的傾向の強い法灯派の僧らと瑩山との密接な関係が影響したとも考えられる。》
 《晩年の道元は女性の出家修行に否定的だったとも言われているが、瑩山は積極的に門下の女性を住職に登用し、女人成道の思想を推し進めた。》
 《〔峨山は〕一説には白山修験道の行者であったともいう。》

 このあたりは曹洞宗自身も、あまり表立って言いたくないところのようです。
 どうもこのあたりで、曹洞宗は、密教的な加持祈祷を取り入れた。ある研究(ちょっと今ソース失念)では、白山信仰(「浄め」を重視する修験系・神道系信仰。一応天台宗の傘下)を取り入れて、積極的に地方へ出かけて葬送儀礼を行なったようです。同時に、修験系の加持祈祷も盛んにやった。(瑩山がそれをどう教義的に統合、あるいは合理化したのかは勉強してません。)
 また、「授戒会」という、在俗信者がお釈迦さんから延々と続く血脈を授けられる(=仏の子となる)という儀礼も行ない、多くの信者を獲得したらしい。これは今も行なわれていて、橋を渡って籠もり堂に一定時間籠もり、その後に「仏の子」として生まれ変わるというもので、民俗学から見ると興味津々の儀礼です。

 要するに何が言いたいかというと、曹洞宗は、「只管打坐」を方針変更して、「顕密体制」に戻ったということです。ただ、この場合、密義は拠点寺院における「只管打坐」の道元教学で、大衆から見て顕の活動が「加持祈祷」「葬送儀礼」「授戒」だった。曹洞宗は「禅密双修」の宗教になったわけです。だから全国に拡がった。
 (ただし、こんなことを曹洞宗の人に言うと怒られますw。曹洞宗は道元禅師の壮大な坐禅哲学に基づいた宗教です、加持祈祷はサービスです、と。けれども、全国1万5000ヵ寺の末端に行ってみれば、「道元禅師って、なんか偉い人らしいけど、よく知らない」という情況があるわけです。梅花流御詠歌だけという信者さんもいるでしょうし。)
 (個人的な感想を言うと、「禅密双修」っていいと思いますけどねえ。知り合いの曹洞宗の尼さんは、偉いお師家さんについて禅を修め、地方寺院で信者さんの要望に応えて観音様のご祈祷をしていました。両方ともプロならでは、でしょう。加持祈祷は直接民衆の役に立つし、もっと深いところを求める人には禅を勧められる。ただそれを統合する教理があるかないか。まあ、禅が神通力を認めればいいだけの話なのかもしれませんが。)
 禅だけでは生きていくことはできない。『正法眼蔵』哲学にお金を払う人はまずいない。それに人間として慈悲の活動もした方がいいだろう、加持祈祷も葬儀も人を仏道に導く方便、と思ったかどうかは知りません。

 ともあれ、こうした曹洞宗の姿は、達人道と衆生対応の難しさを、はっきりと語っているように思われます。


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