スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

死は終わりではない (高森)

2010-06-08 01:20:17 | 高森光季>スピリチュアリズム霊学
 スピリチュアリズムの最大の主張点は、
 「人間の個性は死後も存続する」
というものです。

 「私」は死んでおしまいではない。死んだ後も「私」は続く。

 証拠はたくさんあります。もちろん反論もたくさんあり、それについての再反論もたくさんあります。ここではそれについては触れません。

 ある意味では「とんでもない」主張かもしれません。特に唯物論の中だけで(宗教やそれに関連する現象を知らずに)育ってきた人たちには、「ばかな」と思われる主張でしょう。
 けれども、ちょっと冷静に考えてみれば、これは昔はごくありふれた考え方でした。
 仏教はもともと「輪廻」を前提にした宗教でした。ガウタマ・ブッダ=お釈迦様は、ウパニシャッド以来の「人間は悟りを開かない限り永遠の輪廻の苦しみから逃れられない」という命題を出発点にしていました。お釈迦様が目指したのは、叡智を得て、輪廻の輪から脱け出ることでした。輪廻ということは、当然、「私」が死後も続くことを意味しています。次の生がどういうものであろうと、それは私であることに変わりはありません。
 キリスト教も、人間は死後、神による審判に会うと主張しました(その審判は世界の終末になされるとされていました)。審判に会うのは「私」であるわけですから、その後「神の国」に行くにせよ「地獄」に行くにせよ、死後も「私」は続くことになります。
 浄土教では死後の魂は「浄土に往生する」と説き、道元禅師は「何度も生まれ変わり、修行を続けることが仏道である」と説きました。
 かつての多くの日本人は、葬儀や法事で、亡き人が安らかに「向こう」へ行けるよう祈り、お盆や墓参りでは、亡くなった人たちに語りかけました。ご先祖様は、「向こう」から私たちを守ってくれる存在でした。
 それらは「科学(唯物論)という真理を知らない愚かな人たち」だったのでしょうか。宗教の説くことは、すべて根も葉もない妄想なのでしょうか。

 スピリチュアリズムの「霊信」(「霊」からのメッセージ)では、肉体の死を迎えた後の人が、生きて活動し続けていることを告げるものがたくさんあります。それによれば、死んだ後も、その人はおおむねその人の個性を保ち続けます。また、そうした「人」たちが暮らす世界は、かなり「この世」に近い世界だと報告されています。こうした「霊信」には、真偽不明のものもありますが、「本人に間違いない」とされたものも多くあるのです。
 それを受け容れるとすれば、宗教が語ってきたことの少なくとも一部は、妄想ではないということになります。

      *      *      *

 「私は死後も存続する」といっても、その「私」は今の「私」とまったく同じなのか。
 これはけっこう難問です。
 「現世の私は物質に縛られた存在だったので、死後の私はもっと素晴らしい存在になる」と考える人もいるようです。しかし、そういうことではない、とはっきり言っておかなければなりません。凡庸な人間が、死とともに、神に近い存在になるとしたら、それは「個性の死後存続」にはなりません。まして、悪に染まり切った魂でさえもそうなるとしたら、それはほとんど冒涜に近い考え方です。
 しかし、現世とまったく同じ私かというと、微妙にそうでもないところがあります。たとえば、物資的な切迫した悩み(身をさいなむ借金とか、病気とか)は肉体とともに消滅するわけですし、物質的な欲求(性欲、食欲など)も同様ですから、その面で歪んでいた「私の部分」は、消え去るでしょう。ただし、心の歪み・偏りといったようなものは、個性に関わる問題でもあるので、そう簡単に消滅はしないでしょう。平たく言えば、「きりきりしていたところはなくなったけれども、その人の人となりはそれほど変わらない」というような感じになるか、「きりきりしていたところが消えて、その人らしくなった」というような感じになるか、というところでしょうか。

      *      *      *

 「私」が死後も生き続けるとして、その後はどうなるのか。これまでの宗教は、これについて二つの回答を出してきました。一つは「霊界で生き続ける」、もう一つは「この世に生まれ変わる」です。
 浄土教や中世以後のキリスト教では、前者に近い考え方をします。仏教は基本的には後者です。キリスト教は「神による審判」が曖昧になってしまうため、「生まれ変わり」を認めません。
 スピリチュアリズムから言えば、「どちらも正しい」となります。
 単純明快に言えば、死後の魂は、霊界(一つではなく、様々な位相のある世界)に行きます。そして、その後、多くの魂はこの世に生まれ変わります。この世に再来せず、さらに高い霊界へ行く魂もいます。「お浄土(天国)へ行く」も正しいし、「生まれ変わる」も正しいのです。

 ここで言っておかなければならないことは、「人間が下等動物に生まれ変わるということはない」ということです。そもそも、人間の私がミミズに生まれ変わるということは、およそ「個性の死後存続」ということにはなりません。「私の個性」は人間としての、ある程度複雑な知性などを含む総体的なものですから、それがミミズのような単純な知性体に変化したとしたら、それは「個性の死後存続」にはならず、「生まれ変わり」という考え方自体が成立しません。また、ごく一部を除いて、動物の霊魂は永続する個別性を持っていませんから、個別性を獲得した人間の霊魂が、そうした集合的な存在へと移行することは、摂理としてあり得ません。

 もうひとつ、「生まれ変わり」を主張する考え方の中には、「死者が活動する霊界」を否定する考え方もあります。初期の仏教がそうであったように、「人間の魂はすぐに(49日の「中有」状態のあと)生まれ変わる」とする考え方です。この考え方は、「死後存続」説ではありますが、存続した魂の活動の場は現世であり、「死後の霊魂が住む世界」を想定してはいません(ただし「天部」という、非常に高い魂が活動する世界はあるようです)。

      *      *      *

 「私は死んでおしまいではない。死んだ後も私は続く。」
 このことは、私が、そして世界中のスピリチュアリスト全員が真実として認識していることです。
 このことが真実だとすると、実はかなりとんでもないことになります。現在の人間観や世界観は大きく変わるでしょう。
 このことが真実であり、それを受け容れ、心底そう思えるようになれば、「死の恐怖」はなくなります。人間の最大の恐怖は死の恐怖だと言われています(本当にそうかどうかはわかりませんが)から、それは人間にとっては「最大の福音」になるのかもしれません。
 「いや、そんなことはごめんだ。死の後も私が続くなんて、疲れるだけでとっても耐えられない。消滅することが救いだ」という人もいるかもしれません。でも、「新たな生は、まったく元気な状態から始められるのですよ、そしてあなたの行く手には、もっと豊かな成長と喜びがあるのですよ」と言われたら、どうでしょうか。

 「死は終わりではない」という命題は、現代ではタブー視され、圧倒的少数意見とされていますが、完全に否定されてはおらず、信じるに足る証拠はたくさんあります。それを受け容れるか否かは、個人の選択に委ねられています。受け容れたからといって「迷妄の徒」と非難する権利は誰にもありません。
 かつてキリスト教会は、異なる見解=異端を絶大な権力をもって弾圧しました。そしてその尻馬に乗って異端者に石を投げる教会外の人々もいました。
 権威と多数派に回って石を投げることを選ぶか、放置することを選ぶか、それとも異端の側に真理があるかどうか検討するか、異端の側に回るか。人は様々な道を選ぶことができます。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿