霊的に真実であり、知っておくと精神衛生上も非常に役立つことが一つあります。
それは「それぞれの魂は自らの行為に死後にわたって責任を負う」ということです。
もっとぶっちゃけて言うと、「善い行為をした人は魂が成長してより高い境域へ進めるけれども、悪い行為をした人は、その罪を自ら償わなければならない」ということです。
さらにぶっちゃけて言えば、「悪人は後々大変だよ」ということになります。
と言っても、昔のお説教のように、地獄へ行って熱い火に炙られたり四肢をちぎられたり、ということではありません。端的に言うと、苦しめた相手の苦痛を自らが味わうとか、悪を犯してしまった自分の欠点を矯正するような厳しい環境に置かれる、といったことです。
死後の世界でもあるようですし、生まれ変わって償うということもあるようです。
この世に生きていると、「なんでこんな悪辣で低劣な輩が、高額な報酬をもらったり権力を振り回していい目を見たりしているのだろう」と思うことはしばしばあります。
会社などでも、上にへつらって、下を踏みつけにして、自分は苦労せずのうのうと役職にふんぞり返っている人もいます。さらに世の中を見れば、弱者から詐欺で金をむしりとったり、悲劇に乗じて暴利を貪ったりする人々がどうも少なからずいるようです。
本当の極悪人というのはめったにいるものではないにしても、まあ、不逞の輩というものはいます。(自分がどこかでそう言われていないか気をつけないといけませんけれどもw)
で、私たちはそういう不条理を見ると義憤に駆られ、そしてそういう輩が罰を受けず逃げおおせると、暗澹たる気持ちになります。
しかしながら、義憤はいいことですけれども、それにあんまりかかずらわっていると、精神衛生上よくありません。
そこで魔法の一句。「ほっときなさい。あいつらには死後、それ相応の償いがあるから」
踊り念仏の開祖、空也上人のエピソードでこんなのがあります。
《ある時、上人が修行のため山を歩いていた。すると盗賊たちの一団が彼を取り囲んで「持ってるものをすべて差し出せ」とすごんだ。
すると上人は突然大声で泣き出した。
盗賊たちはびっくりして、「なんだこの腰抜けは。そんなに俺たちが恐いか」と言った。
すると上人は言った。「お前たち、人間として生まれさせてもらえることでさえ有り難いことなのに、お前たちはそんなことをして自分を汚している。私にはお前たちのつらい後生が見える。それが悲しくて泣いているのだ」
盗賊たちはぽかんとし、気持ち悪くなって、何も盗らずに去っていった。》
キリスト教には「復讐するは我にあり」という言葉があります。映画の題名になったので、日本では変なふうに誤解されているふしがありますけれども、この「我」は人間ではなくて、神様です。「いいんだよ、復讐するのは俺がやることだ、お前らはほっとけ」と神ヤハウェが言ったというのです。
出典はパウロの書簡「ローマの信徒への手紙」です。
《愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」》(12:19-20、青野太潮訳『パウロ書簡』岩波書店)
さらに出典があって、最初の引用は『申命記』の「モーセの歌」にある「わたしが報復をし、報いをする。彼ら〔不信仰なイスラエルの民〕の足がよろめく時まで」(32:35、新共同訳)、次の引用は『箴言』の「ソロモンの箴言補遺」にある「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」(25:21-22、同)
ちなみにここで糾弾されているのは、イスラエルの民の中の「ヤハウェに従わない人たち」です。ユダヤ教は他国・他宗教の人間なんかはどうでもいいという宗教で、問題は自国・自民族内の反対勢力だったわけです。それに対して、神ヤハウェは「私が復讐するから」と言っている。
面白いのは、後段の「敵に水やパンを与えろ、そうすれば奴らの頭にさらに炭火が積まれる」という表現です。
これは愛の表現ではありませんね。怒りの、呪いの表現です。
「いいんだよ、あいつらは悪行を重ねている。だったら水やパンをやってもっと悪行を重ねさせてやれ。そうすれば奴らに対する罰ももっともっと苛酷になるんだ、ざまあみろ」(最後の一言は余計ですかねw)
パウロは熱烈なユダヤ教徒だったので、こうした心情は熟知していたのでしょう。
イエスもこれにいくぶん似たことを言っています。「右の頬を殴られたら左を出せ。上着を没収されたら下着までくれてやれ。荷物を背負わされて一キロ歩けと言われたら二キロ歩いてやれ」
相手はローマの支配者か、神権政治の支配者でしょう。逆らうことはできない。しかし腹が立つ。だったら彼らにもっと悪行をやらせろ。そうしたらもっと罰が下る。――もっとも「罰が下る」というようなことは慎重に口を閉ざしていますが。
呪ってはいけません、などと言っている状況ではないわけです。圧倒的な支配権力による悪逆非道のの中、抵抗はもとより、義憤を顔に出すことすら許されない。そこから絞り出すように出てきた呪詛の言葉です。
西洋は厳しいですね。
一応言っておけば、神が復讐するわけではありません。自らの行なった行為の責任は自らが取るという「偉大な神法」の法則で、自らが人を苦しめればその苦しみは自らに返ってくるということです。
もちろん、悪行をなしている人をほっておけということではありません。違法行為は罰するのが社会の維持のために必要なことでしょう。矯正教育で改心させられるならもっといいことでしょう。
でも、そういうことでは罰せられない悪や、法律をくぐり抜けてしまう悪人がいることも確かです。その中には殺されてもやむを得ないと思ってしまうような悪人もいます。
そういう悪に、あまり怒る必要はありませんよ。そういう怒りで自分がいやな気持ちになる必要はありませんよ。
彼らは未熟なだけ。そして彼らの前には死後も続く、とてつもなく困難な道があるのだよ。次の生まれ変わりは大変な人生だろうね。
むしろそれを思って、空也上人のように同情の涙を流しましょうや。
そこまでは無理だとしても、そう思っていれば、精神衛生上は役に立つでしょう。
もちろん、悪人をも、汝の敵をも愛せるようになるのが理想でしょうけれども。
これも聖書の中の言葉ですが、
「蒔いた種は刈り取る」
というのがあります(ガラテヤ6:7、元は箴言22:8「悪を蒔く者は災いを刈り入れる」か)。
すべて自分に返ってくるということです。
まあ、これは自戒の言葉でもあります。
それは「それぞれの魂は自らの行為に死後にわたって責任を負う」ということです。
もっとぶっちゃけて言うと、「善い行為をした人は魂が成長してより高い境域へ進めるけれども、悪い行為をした人は、その罪を自ら償わなければならない」ということです。
さらにぶっちゃけて言えば、「悪人は後々大変だよ」ということになります。
と言っても、昔のお説教のように、地獄へ行って熱い火に炙られたり四肢をちぎられたり、ということではありません。端的に言うと、苦しめた相手の苦痛を自らが味わうとか、悪を犯してしまった自分の欠点を矯正するような厳しい環境に置かれる、といったことです。
死後の世界でもあるようですし、生まれ変わって償うということもあるようです。
この世に生きていると、「なんでこんな悪辣で低劣な輩が、高額な報酬をもらったり権力を振り回していい目を見たりしているのだろう」と思うことはしばしばあります。
会社などでも、上にへつらって、下を踏みつけにして、自分は苦労せずのうのうと役職にふんぞり返っている人もいます。さらに世の中を見れば、弱者から詐欺で金をむしりとったり、悲劇に乗じて暴利を貪ったりする人々がどうも少なからずいるようです。
本当の極悪人というのはめったにいるものではないにしても、まあ、不逞の輩というものはいます。(自分がどこかでそう言われていないか気をつけないといけませんけれどもw)
で、私たちはそういう不条理を見ると義憤に駆られ、そしてそういう輩が罰を受けず逃げおおせると、暗澹たる気持ちになります。
しかしながら、義憤はいいことですけれども、それにあんまりかかずらわっていると、精神衛生上よくありません。
そこで魔法の一句。「ほっときなさい。あいつらには死後、それ相応の償いがあるから」
踊り念仏の開祖、空也上人のエピソードでこんなのがあります。
《ある時、上人が修行のため山を歩いていた。すると盗賊たちの一団が彼を取り囲んで「持ってるものをすべて差し出せ」とすごんだ。
すると上人は突然大声で泣き出した。
盗賊たちはびっくりして、「なんだこの腰抜けは。そんなに俺たちが恐いか」と言った。
すると上人は言った。「お前たち、人間として生まれさせてもらえることでさえ有り難いことなのに、お前たちはそんなことをして自分を汚している。私にはお前たちのつらい後生が見える。それが悲しくて泣いているのだ」
盗賊たちはぽかんとし、気持ち悪くなって、何も盗らずに去っていった。》
キリスト教には「復讐するは我にあり」という言葉があります。映画の題名になったので、日本では変なふうに誤解されているふしがありますけれども、この「我」は人間ではなくて、神様です。「いいんだよ、復讐するのは俺がやることだ、お前らはほっとけ」と神ヤハウェが言ったというのです。
出典はパウロの書簡「ローマの信徒への手紙」です。
《愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」》(12:19-20、青野太潮訳『パウロ書簡』岩波書店)
さらに出典があって、最初の引用は『申命記』の「モーセの歌」にある「わたしが報復をし、報いをする。彼ら〔不信仰なイスラエルの民〕の足がよろめく時まで」(32:35、新共同訳)、次の引用は『箴言』の「ソロモンの箴言補遺」にある「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」(25:21-22、同)
ちなみにここで糾弾されているのは、イスラエルの民の中の「ヤハウェに従わない人たち」です。ユダヤ教は他国・他宗教の人間なんかはどうでもいいという宗教で、問題は自国・自民族内の反対勢力だったわけです。それに対して、神ヤハウェは「私が復讐するから」と言っている。
面白いのは、後段の「敵に水やパンを与えろ、そうすれば奴らの頭にさらに炭火が積まれる」という表現です。
これは愛の表現ではありませんね。怒りの、呪いの表現です。
「いいんだよ、あいつらは悪行を重ねている。だったら水やパンをやってもっと悪行を重ねさせてやれ。そうすれば奴らに対する罰ももっともっと苛酷になるんだ、ざまあみろ」(最後の一言は余計ですかねw)
パウロは熱烈なユダヤ教徒だったので、こうした心情は熟知していたのでしょう。
イエスもこれにいくぶん似たことを言っています。「右の頬を殴られたら左を出せ。上着を没収されたら下着までくれてやれ。荷物を背負わされて一キロ歩けと言われたら二キロ歩いてやれ」
相手はローマの支配者か、神権政治の支配者でしょう。逆らうことはできない。しかし腹が立つ。だったら彼らにもっと悪行をやらせろ。そうしたらもっと罰が下る。――もっとも「罰が下る」というようなことは慎重に口を閉ざしていますが。
呪ってはいけません、などと言っている状況ではないわけです。圧倒的な支配権力による悪逆非道のの中、抵抗はもとより、義憤を顔に出すことすら許されない。そこから絞り出すように出てきた呪詛の言葉です。
西洋は厳しいですね。
一応言っておけば、神が復讐するわけではありません。自らの行なった行為の責任は自らが取るという「偉大な神法」の法則で、自らが人を苦しめればその苦しみは自らに返ってくるということです。
もちろん、悪行をなしている人をほっておけということではありません。違法行為は罰するのが社会の維持のために必要なことでしょう。矯正教育で改心させられるならもっといいことでしょう。
でも、そういうことでは罰せられない悪や、法律をくぐり抜けてしまう悪人がいることも確かです。その中には殺されてもやむを得ないと思ってしまうような悪人もいます。
そういう悪に、あまり怒る必要はありませんよ。そういう怒りで自分がいやな気持ちになる必要はありませんよ。
彼らは未熟なだけ。そして彼らの前には死後も続く、とてつもなく困難な道があるのだよ。次の生まれ変わりは大変な人生だろうね。
むしろそれを思って、空也上人のように同情の涙を流しましょうや。
そこまでは無理だとしても、そう思っていれば、精神衛生上は役に立つでしょう。
もちろん、悪人をも、汝の敵をも愛せるようになるのが理想でしょうけれども。
これも聖書の中の言葉ですが、
「蒔いた種は刈り取る」
というのがあります(ガラテヤ6:7、元は箴言22:8「悪を蒔く者は災いを刈り入れる」か)。
すべて自分に返ってくるということです。
まあ、これは自戒の言葉でもあります。
たしかにあの映画を観た人は(私がそうだったように)
違う印象を持ってしまったでしょう。
でも、すごい言葉ですね。なんだか慰められます。
低い方に気持ちが振れる日に『復讐』のワードでこちらにたどり着き、スッと救われました。
時間を無駄にしていたのは自分自身でした。
悪意を持って無理やり巻き込まれた事件は、もう考えても解決しないし、被害を回復することは不可能なのですね。
私にできることは自らの甘さや落ち度を猛省するだけで、相手の未来など私には無関係なのだと気付かせていただきました。
毎日たくさん良いことがあって色々感謝できるような有難い出来事を自覚できていたにも関わらず、私が小さかったです。
お気に入りに登録して時々読み返させてもらってます。
またいいこといっぱい更新して下さいね。
ありがとうございました。
こちらにはほぼ一年ぶりにコメントしますが、三ヶ月ほど前に送信したメールには目を通して下さったでしょうか?独りよがりな長文だったので、お返事無くても仕方なかったかもしれませんが。
ほかの多くの記事と同様、この記事のタイトルと内容も頭の片隅に残っていたのですが、私が囚われている問題にも元凶といえる人物がいて、恨みは持っているけど報復どころか直接文句を言う機会すらありません。しかしその人物が法を犯したわけではなく、明確な悪意があったわけでは無いことも分かっています。何よりもう、その人の行為の結果は一人歩きしてしまって取り返しがつきません。世の中に広がって、悪意も無い無数の人たちの言葉を介して更に傷つけられています。
私は私の憤りを正当だと信じていますけど、人によってはそうは見えず、そもそもそんな問題に拘ってる事自体がおかしいと思う人も多いでしょう。それを自覚しているからこそ、「悪事には報いが」という言葉だけで物事の因果が説明できるとも思えず、今感じている不条理に折り合いがつく事があるとも思えないのです。「撒いた種は刈り取る」と言っても、何が生えてくるかには無数の要素があって、撒いた本人にも予想できないし責任も取りきれないのではないでしょうか。
執着している物事に関して、被害を回復することができない問題は、霊界に行けたとしても解決せず、悩み抜くしかないのでは?という不安の前には、数々の霊信の引用にもあまり救いを感じません。それすらも長い目で見れば偉大な法則の一部なのだ、というのがスピリチュアリズムの真理だとしたら、それを納得できる境地というのが想像できなさすぎて、慰められるというより途方にくれるばかりのこの頃です。
いただいたメールには返信するようにしているのですが、記録を探してみたところどういうわけか受信記録も返信記録も見つかりませんでした。何かの不具合か、こちらがミスしてしまったのか、よくわかりません。
よろしかったら再送していただけますか。