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【仏教って何だろう⑥】ブッダのさとりについての別の見方

2010-06-26 02:02:08 | 高森光季>仏教論1・仏教って何だろう
 近代の仏教学者は、ブッダのさとり体験は、きわめて理知的・認識的・哲学的なものであったと捉える傾向がある。万物は非実体であるとか、因果律とか、我は不変ではないとか、そういう「真理」を会得したっことがさとりだと言う。
 確かに、ある真理を認識すれば、より高位な生存状態に移行できるというのは、理知的な人々には受けのよい考え方である。だが、本当にそうだろうか。

 ある種の「真理」を発見した時に、当人にとって劇的な世界観の変化、あるいは改心のようなものが訪れることは確かである。それはしばしば強烈な至福感を伴う。しかし、それをもって「さとり」とするのは自己肥大である。
 因果論にせよ、反実体論にせよ、そういった認識の獲得は、さとりではない。相対性理論や相補性理論は、世界の根源的な認識だが、それを発見したからといって、至福感はあるにせよ、さとりにたどり着くわけではない。
 真理であっても「命題」は命題に過ぎない。命題を知ることは、それ自体は単なる認識である。「すべての存在は実体ではない」という命題を知っても、人生が変わるかどうかはわからない。「ある種の命題の確信とそれに基づく生き方」は宗教の一形態であるが、それは「さとり」とは異なるものであろう。

 まったく違った面から考えると、ブッダの「さとり」とは、「超常的体験」ではなかったか、という見方も成り立つ。
 超常的体験というのは、きわめて定義の難しいもので、すべての体験は実は再現的・普遍的なものではないから、どれが特殊だとか超常的だとか言うことは厳密には不可能である。だが、「この世とは異なる秩序の世界」を、何らかの感覚的方法をもって、意識を保持したまま実感するということは、しばしば報告されている。キリスト教の「神人合一の神秘体験」や、イスラームの「天界の旅」、さらには土着的シャーマンの「他界訪問」。また近代では「臨死体験」や「中間生体験」などというものもある。
 そこでは、現世とはまったく異なった世界が現われ、そのリアルさは現実をもしのぐものであり、そこで感得される知識(というより直観的把握)は、現実をより高度な抽象概念で意味づけたり、謎を解明したりするような性質のものである。あるいは、通常の思考では意味のわからない神秘的な命題だったりすることもある。たとえば、「我生きるにあらず、キリスト我が内にありて生き給うなり」といったような。

 もちろん、超常的な体験にも深い浅いがあるわけで、ブッダのさとりを一般的な臨死体験やシャーマンの霊界物語と同列に論じようとするつもりはない。だが、これらの超常的な体験はいずれも、体験後に深い確信や自己の変容の感覚をもたらす。たとえば臨死体験をした人々は、死は恐ろしいものではないと思うようになり、自己が些細な不安や苦悩に左右されなくなったと報告している。
 ブッダが自らのさとりについて語った後で、しばしば「もう私は再び生まれ変わることはない。これが最後の生存である」と確信を持って語っているように伝えられているのは、こういった超常体験後の確信――少なくともその延長にあるもの――を示しているのではなかろうか。

 ブッダのさとりが超常体験であったという可能性は充分にある。ブッダが、自らのさとり体験について、弟子にではなく、一人のバラモンへの告白という形式を取って語っている伝承がある。霊的な表現を嫌う仏教学者たちにはあまり注目されることはないが、そこには、さとり体験の内実がほのめかされているようにも思える。

 《われは種々の過去の生涯を想いおこした。……われは清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち、卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、としてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを見た。……われがこのように知り、このように見たときに、心は欲の汚れから解脱し、心は生存の汚れから解脱し、心は無明の汚れから解脱した。解脱しおわったときに、「解脱した」という智が起こった。》(阿含経)

 驚くべき内容である。自分のいくつもの過去生を思い出した、そして「清浄で超人的な天眼」によって、たくさんの人々がそれぞれの業によって生まれ変わり死に変わりしているのを見た、と述べている。
 これは明らかに超常的神秘体験である。そしてその壮絶無比な光景を見た(感得した)時、ブッダは自分の心が欲や妄執を離れ、「自分は解脱した、もうこの世に生まれてくることはない」という思いに満たされた。

 この告白が、彼のさとり体験を示すものだという仮定は、強引に見えるかもしれないが、意外に彼にまつわる疑問をうまく解くものであるように思える。
 まずそれは、ブッダの出家の根本動機、つまり「輪廻という苦からいかに解脱するか」という主題と呼応している。
 ブッダの宗教的営為は、「苦である生を何度も課してくる輪廻からいかにして逃れるか」ということを基本にしていた。前に述べたように、ブッダは「生は苦だ」ということで求道を始めたのではない。ウパニシャッド以来の「叡智を得れば永遠の輪廻の苦から逃れる」という命題が出発点なのである。
 そしてブッダのさとり体験は、超常的な体験のうちに、その輪廻のあり様とおそらくはその仕組みのようなものを、直接的(視覚的)で深い(種々の情報を内包した)体験として、感得したのだということになる。「それぞれの業に従って」とあるのだから、これは単に視覚的なビジョンにとどまるものではない。いかなる業があって、それがいかなるものに由来しているか、さまざまな「因」や「果」はどのように関係しあっているか、あまたの人々の因果は互いにどのように絡み合っているのか……それらの厖大な情報がそこには内包されているはずだ。それを「見た」のだとすれば、これは相当深遠にして広大な体験である。

 私見から結論を端的に言えば、ブッダのさとりとは、超常的神秘体験だった。
 それは、スピリチュアリズム的に言えば、非常に高次の霊界への旅であった。そこは、通常の人が死後赴くような世界、一般的に霊的存在との交信が成り立つような世界ではなく、それをさらに超えた、「この世の根源となる世界」「叡智と創造的活動の世界」だった。
 (ちなみに、ブッダのさとりとは、「菩提樹の下での体験」一回だけのものではない可能性もあるのではなかろうか。瞑想をして得られず、苦行をして得られず、改めて菩提樹の下にすわって、ドラマティックなさとりを得た、というのは一種の神秘的脚色で、彼のさとり体験は、瞑想修行の時期から継続してなされた、一連の超常的体験全体を含めたものではないだろうか。まあ、想像をたくましくすれば、想像を絶する苦行の中で、彼は何度も肉体を離れて「向こうの世界」を体験した可能性だってなくはない。)

 ともあれ、彼は自分の何度もの転生を見た。何を求めて、何を学ぶために、この世に生まれ、苦しみの生を続けてきたのかを知った。
 また、あまたの人々の転生の様も見た。弟子たちの何人かは、もうこの世を卒業する段階にあることがわかった。支援者の何人かは、もう一度だけ生まれ変わる段階にいる人もいたし、あと数度必要な人もいた。彼は自分の関係する人たちに関して、次のような発言をしている。
 《サールハはもろもろの汚れが消滅したがゆえに、すでに現世において汚れのない〈心の解脱〉〈智慧による解脱〉をみずから知り、体得し、具現していた。
 尼僧ナンダーは人を下界に結びつける五つの束縛を滅ぼし尽くしたので、ひとりでに生まれて(?天界に生まれるということか)、そこでニルヴァーナに入り、その世界からもはやこの世に還ってくることがない。
 在俗信者であるスダッタは、三つの束縛を滅ぼし尽くしたから、欲情と怒りと迷いとが漸次に薄弱となるがゆえに、〈一度だけ還る人〉であり、一度だけこの生存に還ってきて、苦しみを滅ぼし尽くすであろう。
 スジャーターという在俗信者は、三つの束縛を滅ぼし尽くしたから、〈聖者の流れに踏み入った人〉であり、悪いところに堕することのないきまりであって、かならずさとりを達成するはずである。》

 ブッダは、こうした生々流転の意味と仕組みを知った。魂は未熟である限り、生まれ変わり死に変わりして成長することを。そして生まれ変わらないためには、欲を離れ、魂の成長を促す「正しい行ない」が必要だということを知った。
 また彼は自分の地上の生が今回で終わりだということも知った。そしてそれは、人を導き、救う行動によって保証されることも知った。だから彼は人々に説くことを始めなければならなかった。「梵天」という高次の霊的存在がそれを示唆したということは、ある意味で正しいのである。
 さらに彼は、この世の万物が、かりそめの姿でしかないことを知った。万物は関わり合って、関わり合うことで存在し、やがて過ぎ去るものであることを。また「私」というものが、本当の「私」でないことも知った。
 それは知っただけではない。それはリアルな現実であり、彼は以後それを生きることになる。
 (ちなみに、現代ギリシャの聖人ダスカロスも、類似した体験を語っていたようである。)

 前にも触れたが、『清浄道論』には高い瞑想の境地を獲得した者は、様々な超能力が身に付くと述べられている。高次霊界を体験した人が、超常的な能力を獲得することはよくあることである。カッサパとのESPやPKを駆使した「幻魔対戦」はある程度、事実だったろう。天界の存在が彼のまわりに出現することも、不思議ではない。
 ただ、ブッダはその後、あまり超能力を駆使したりはしなかった。なぜかはわからない。それを示したところで、人々の輪廻解脱の促進には役立たないと見たのだろうか。それとも、すでにこの時代から、「他界交渉の抑制」という人類史の歩みは始まっていたのだろうか。

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