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スピリチュアリズム・ブログ

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【仏教って何だろう⑬】仏教とスピリチュアリズム①

2010-07-09 00:47:35 | 高森光季>仏教論1・仏教って何だろう
 筆者の視点から端的に(というよりいささか乱暴に)ブッダの構想した仏教をまとめると、次のようになる。
 ①生は煩悩にまみれ、無明である(叡智に欠ける)ので、苦である。
 ②[その苦なる生は輪廻によって繰り返される。]
 ③さとりを開き叡智を得、正しい行ないをしていけば、[輪廻を超え出ることができ、]苦である生は終わる。
 ④その叡智の核心として、「依他起性・無自性空」を始めとする「反実在」の哲学がある。

 [ ]の部分はもともとのブッダの考え方だが、反超越論的な仏教(特に近代仏教)では切り捨てられる(あるいは曖昧化される)部分である。そこを切り捨てても成り立つところが、面白いというか、仏教のしたたかさと言うべきだろうか。
 何度も繰り返しているが、[ ]の部分を切り捨てた仏教は、「見えない世界・存在との交渉」を本質とする「宗教」ではない。人生論・心理学・生理学・精神修養法に近い。それが悪いと言っているわけではない。それは本来の仏教ではないように思うけれども、まあ、それはそれでどうぞ、ここではちょっと論の対象からはずします、ということである。(余計な減らず口を言えば、それなら葬儀やお墓でお金を取らず、説法や面談で喜捨を募れば、と言いたいところもある。)

 で、いささか問題に思うのは、「輪廻を超える」という、その先の問題である。叡智を開き、煩悩や業を滅すれば、生まれ変わりの宿命から逃れる。で、その後はどうなる?
 ブッダは霊魂などの「論じても意味がないもの」を「無記」として述べなかった。輪廻超脱の後も、やはり「論じても意味がないもの」だったのだろうか。
 どうもこのあたりをブッダが本当はどう考えていたのか、よくわからない。
 煩悩や業を滅した「真の我=アートマン」は「宇宙の本質=ブラーフマン」と合一すると捉えていたのか。
 この考え方はウパニシャッド以来の伝統的インド哲学であるし、後々、仏教の中で何度も論じられ、さらには近代になって、神智学やトランスパーソナル心理学などのニューエイジ哲学でも主張されてきたことである。
 この考え方に対して、「じゃあ私はなくなるの? それとも私は残るの?」と問うても、どうもはっきりした答えは返ってこない。「私というものがそもそもないんです」とか、「私は宇宙全体でありつつ私であるという、多即一の神秘が現われるのです」とか、まあ要するに「神秘主義的言説」が返ってくることもままある。
 もちろん、「なくなります」とはっきり言う人もいる。ただ、前にも触れたように、これは輪廻を認める立場からの回答としてしか意味はない。私の消滅が救済であるのなら、唯物論の「死んだらおしまい」でいいわけだし、「早く死ぬことがいい」となるわけだから。
 こういったごちゃごちゃを回避するために、後代になると「仏菩薩になる」というような表現が生み出されたわけで、それはある意味非常に平易明快と言える(仏菩薩とは何ぞやという大問題が残るが)。消滅してしまうのではないよ、もっと高尚な存在形態、輪廻の苦を超えた存在に移行するんだよ。煩悩を抱えていると、何度も生まれ変わって苦しむよ、煩悩を滅し去れば仏菩薩になれるんだよ。そうすっきり言ってしまえば、すっきりする。もっともこういう言い方をすると、「反超越論的な仏教」は困るだろうけれども。

      *      *      *

 スピリチュアリズムの立場からこうした仏教の考え方を見ると、どうなるか。
 輪廻、つまり生まれ変わりに関して、実はスピリチュアリズムの中にはいろいろな説がある。初期の英米系スピリチュアリズムでは生まれ変わりは否定されていた。その後もそれを引き継いで、「認めない」というスピリチュアリストも少数ながらいるようである。また、スピリチュアリズムの霊信の中でも、言及しないもの(モーゼズ『霊訓』)もあるし、やや否定的に述べているものもあるし(シルバー・バーチの霊訓)、積極的に論じているものもある(カルデックの著作、ホワイト・イーグルの霊信。マイヤーズ通信はそれほど積極的ではないが再生を認めている)。
 こうしたところは、懐疑論者・否定論者からは「いいかげんだ」「要するにでたらめ」と言われてしまうところであるが、そういうことではない。バーチもマイヤーズも(そしてダスカロスも)口をそろえて言っているのは、「生まれ変わりの問題は、非常に深遠かつ複雑で、人間の稚拙な知性では捉えることができない」ということで、「ある見方をすれば、人間が考えるような『生まれ変わり』はあるとも言えるけれども、別の見方をすれば、ないとも言える、それほど神妙で深い問題である」ということなのである。(このことに関しては、TSLホームページの「基本編⑤生まれ変わりとカルマ」「高森研究室『私という謎』」などを参照していただきたい。)
 そういう複雑な経緯があるが、ともあれ、スピリチュアリストの多くは「生まれ変わりはある」と捉えていると言える。また、二〇世紀後半の生まれ変わり研究や催眠による前世記憶想起事例などを総合すると、やはり一応、生まれ変わりはあるとするのが妥当であると思う。
 そして、スピリチュアリズムの再生観は、意外と仏教のそれに近いものなのである。
 それは次の二点においてである。
 ①地上の生は苦しみの多いものである。
 ②それを超え出ることが望ましい。

 スピリチュアリズムでは、この世の生は、肉体を持ち、不自由で、欲望に翻弄される、「苦悩の多い」「粗雑な」生であると捉える。しかしそれは魂の成長のために必要な苦悩である。魂が未熟なうちは、学ぶためにこの世に再生する必要がある。そして、そうした苦悩を通して魂が成長すれば、この世を卒業し、高次の霊界に生まれ変わる。
 つまり、この世を「穢土」と捉え、「浄土」を希求するという捉え方は、ある程度同じなのである。
 しかし、異なるところもある。それは、仏教では「この世を卒業」すると、そこでおしまい(前述したように、私の個性などを超えた絶対超越界へ行くのか、はっきりしたことはわからない)なのだが、スピリチュアリズムでは、そこは「地上よりは高度な世界」であるが、まだまだ「重く、粗雑な」世界であって、霊魂はさらに高度の世界を求めて上昇していくのだと説いていることである。真理の一端を知り、善行に努めたからといって、神(仏菩薩)の世界には簡単に行けないよ、というのである。マイヤーズ通信によると、そのさらに先の先に、「神と一体になる」「無限の神秘劇(神の創造)の中に参入・参画する」超絶的な世界があるとされているけれども、そこに行ける魂はほとんどいないらしい(このあたりに関してはTSLホームページ各論編「マイヤーズ通信による『高次他界』の構造」を参照していただきたい。)

 また、ブッダの求道探究が「輪廻の超脱」をきわめて急進的に求めたのに対し、スピリチュアリズムでは「この世の卒業」を前面に出していない。これはスピリチュアリズムが「ごく普通の人々」へ向けての発信を目指しているせいもあるだろう。「卒業」云々を説くより前に、ともかく「死後の世界はある」ということを知らしめることに力を注いでいるからである。
 しかしそれだけではなく、そこには、後期のブッダがおそらく思っていたことと同じく、「人間の煩悩や業の消滅は簡単にはいかない」という認識があるとも考えられる。
 そして、いささか大げさな言い方で恐縮だが、ここに、ウパニシャッド以来、スピリチュアリズムという近代の霊的哲学まで、人類が問い続け、明確な答えが出ていない命題がある。
 それは「この世を卒業する――もう生まれ変わりをしない」ためには、どのような「方法」があるのか、ということである。
 ブッダの仏教は、八正道を実践し、煩悩と業を一つずつ消し去っていくことだと答えた。これはへたをすると何回もの生が必要とされる、緩慢な行程であった。
 スピリチュアリズムは、実は決まった回答をしていない。魂の成長の道はそれぞれに異なるので、定式化した方法はないとする。ただし、おおまかに言えば、「神への義務・自己への義務・他者への義務」を遂行していくこと(モーゼズ『霊訓』)であり、とりわけ「他者への愛と奉仕」を強調する。
 いずれとも、解答はあいまいであるし、はっきりと「こうすればこうなります」という説明もない。延々とした行程のようでもあり、途中で停滞や後退がないとも言えない。さらに言えば、「卒業保証」が得られるのかどうかもはっきりしない。「○○だったら、もう生まれ変わってきませんよ」という指標がないのである。

 これに対し、一定の方法があると主張した宗教がある。その一つが密教である(もう一つ、西洋版の密教仏教とも言える神智学もある)。いずれも、一般人のための宗教=顕教に対して、選ばれたエリートのための「達人宗教」を標榜するものである。
 これらは厳しい修行や神秘的な儀式、師からの秘密伝授などを通して、霊的世界と交流し(とりわけ高位の霊的存在と契約し)、「成仏=輪廻を超え出た高次存在になること」が可能になるとした。
 ちなみに、密教というと、様々な霊的存在との交渉をめざし、霊的仕組みやパワーを現実的にも利用しようとする面があるので、呪術的・土着的宗教と見られることもある。高崎直道氏は「密教の隆盛は仏教をヒンドゥー教とあまり変わらないものとした」と、かなり大胆な言い方(というか爆弾発言)をしているが、むしろそういう営為(霊的交渉術)は人類史の中で宗教の本流とも言えるもので、それから見ればいささか特殊なものである仏教を、広汎に発展させていくのには大きな貢献をしたものだとも考えられるだろう。(高崎氏の発言も、密教をおとしめているのではなく、別の所で「密教がわからなければ仏教はわからない」とも述べているので、普遍宗教としての仏教が密教の霊的交渉術を必要としたということを指摘しているのだろう。)
 神智学も、スピリチュアリズムのビッグ・ウエーブの中から生まれながら、密教を取り入れ、「高次の霊界への参入」を標榜した。神智学がスピリチュアリズムを「低級な霊界交渉」と侮蔑したことは知られている。
 いずれにせよ、密教も神智学も、一定の手続き・手法によって、人間が輪廻に囚われた愚かな存在であることを脱し、高次の存在になれる、と主張したものと捉えられる。「ある方法を実践すれば、輪廻を超えて仏菩薩になれる」というのがその主眼なのである(これを「生きているうちに成就できる」としたのが空海の「即身成仏」であった)。
 (この項、明日につづく)

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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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強制再生と自由再生 (アラム)
2010-10-31 12:48:28
スピリチュアリズムの「生まれ変わり」と仏教の「輪廻転生」では大きな違いがあるように思われます。

スピリチュアリズムでの「生まれ変わり」の多くでは「自由意志による再生」があるように思われます。

それに対して仏教の「輪廻転生」では「自由意志がなく」、「無明の業因」のままに「強制的」に「輪廻」させられています。

仏教の「輪廻転生」は「強制再生」であり、どのように生まれるか分からないというもののように思われます。

スピリチュアリズムでの「暗黒界」から「サマーランドの下層」まででの「生まれ変わり」のことではないでしょうか。

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Unknown (高森光季)
2010-11-21 20:17:51
何とも言えない、というか、ちょっとよくわかっていないのか。
仏教の輪廻説(というよりウパニシャッドの輪廻説というべきなのかもしれませんが)が、「事実の祖述」なのか「人間の作り上げた教義」なのかという問題もあります。
また、生まれ変わりについてはスピリチュアリズムでもいろいろな見解があり、「決定的な説」は存在せず、「人間にはわからない」とすら言われているものです。
強制とか自由意志の問題も、「現世の意識」と「魂のレベルでの思い」で違うかもしれませんし。
個人的には、「仏教の輪廻説は、部分的には真実を伝えているかもしれないが、スピリチュアリズムの輪廻に関する言説の方が、より広いものだろうと思う」くらいに思っています。
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