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【生きるヒント】④一番いい状態を覚えておく

2011-05-01 00:03:09 | 高森光季>生きるヒント
 心というのは、いつも揺れ動いているものです。外からの刺激に反応し、それによって連想されるものに捕らえられ。元気がなくなれば落ち込み、いいことがあれば弾む。
 私たちはそういう心にいつも付き合っている?わけですけど、この「心の騒乱状態」に巻き込まれずこの世をしっかりと生きるために、ひとつ役立つことがあります。
 それは、「自分の心が一番よかった状態を覚えておくこと」です。
 わくわくして楽しかった時のことではありません。
 満ち足りて、静かで、思い煩うことなく、何に対しても肯定と愛を持てるように思えた時。

 そういう瞬間がないでしょうか。山歩きをして素晴らしい風景を見た時、体を使った労働のあと夕暮れの光を浴びながら一服した時、愛する人と静かな午後を過ごしている時、初めて子供を抱いた時、人からの心底の愛情を感じた時……
 その時の「ことがら」(外側の何がどうしたということ)ではなく、その時の自分の心の状態を、いつでも呼び戻せるようにしておく。
 まあ、難しい時もあります。落ち込んだり、怒りなどの感情に囚われている時はなかなかできないでしょうね。でも、まあ一段落した時、それを呼び戻す。
 (これは単なる自己語りなのですけど、私は十数年前に、初めてスピリチュアリズムの文献としてモーゼズの『霊訓』を読んで、ぼろぼろと涙を流しました。そしてその時の自分の心の状態を、最も良い状態の一つとしてはっきりと覚えています。私は迷った時、そこに戻ります。)

 これは瞑想をやっている時も使うやり方です。瞑想では徐々に「より高い境地」をめざしていくわけですけれども、前に到達した「一番高い境地」をしっかりと覚えておく必要があります。そしてそれをめざしていき、繰り返し体験し、さらに可能ならそれを超えていく(ごりごりやるわけではありませんけど)。そうやっていくと、瞑想をやっていない時も、必要ならばそれを呼び戻そうとすることができる(集中して仕事をやっている間なんかは無理ですがw)。そうやって「自分の一番よい心の状態」をしっかりとマークして、それを日々の心としても一つの理想とする。そうすれば、千々に乱れる日々の生活でも、動じない、しっかりとした自己を保つことができる。
 瞑想というと、何か神秘的な、超常的な体験を得られると考える人が多いようですけど、そういうことは、よほどの行者さんでない限り、そうあるものではないように思います。むしろ、瞑想の果実は、「自分の一番よい心の状態」を見いだし、それを繰り返し体験して、通常の自分に活かすということのように思います。
 スポーツ選手なら、自分がその競技をやる際の「一番よい体の状態」を知っているし、いつもそれに持っていこうと努めるでしょう。私たちも、生きる際、心に関して同じことをするのがよいのではないでしょうか。

 「そんな体験はない、一番よい心の状態なんて思いつかない」という人もいるかもしれません。でも、よーく思い出してみてください。海や山へ行った時、誰かに愛された時、何もない静かな一時、何かなかったか。それでも思いつかなかったら、これから作るしかないですね。瞑想もいいし、いい芸術を味わうのもいいし、自然に癒されるのもいいし、愛の喜びを知るのもいいし……。ただ重要なのは外側のことがらではなく、その時の自分の心の状態をしっかりと把握することです。

 楽しい時、というのではないんです。
 心理療法家の笠原敏雄さんという人が言っていることですが、「楽しいと嬉しいは違う。楽しいは時間つぶし。嬉しいは心が本当にしたいことをした時の感情」というような主旨だったと思います。
 嬉しいといっても、わくわくする嬉しさも、静かな嬉しさもあります。美しい風景を見て、そこに永遠の時を感じて、よかったなあと思うのは、静かな嬉しさ。愛情関係だったらわくわくする嬉しさもあるでしょう。
 思うに、どちらかというと、静かな嬉しさを感じている時、心は魂と深くつながっているのではないか。瞑想で素晴らしい体験をしたあと、味わうのは静かな、本当にかすかな嬉しさ。でもそこで確かに自分の心と自分の魂が同調しているのがわかる。
 あるいは、何か人の役に立てた時、わくわくするわけでもなく、静かに、ほんのかすかに嬉しいと感じる。ちょびっとだけ嬉し涙が出る時もある。その時に、それは魂の方の感情だなと思える。
 なかなか表現しづらいですけど。

 私たちは普段、肉体と心しか感じていません。魂のありかやその活動は、ほとんど気づくことがありません。
 魂は、心の中核――外界に左右され揺れ惑う部分はない部分――の、さらに向こう(奥というか先というか)にあります。それを感じるためには、心の一番純粋で善い部分を探るしかありません。
 「良い心の状態を覚えておく」こと、そしてそれへ繰り返しアプローチしていくことは、自分の魂とつながる、最良の道のように思えます。

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2 コメント

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高森さま (ムーンストーン)
2012-04-02 14:38:34
私には重篤な知的障害の息子がおります。どこか不思議なところがあり周りの人間を癒します。
それは私にも良い心の状態を与えてくれるのですが、お互いに大変生きにくい人生である事は事実です。
このような生まれつきは、やはり本人が選んだ野ではないかという気もいたしますが、スピリッチャルな治療によって何か出来ることはあるのでしょうか。

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ムーンストーン様へ (高森光季)
2012-04-02 19:28:32
たいへん重たいご質問なので、私などがお応えできるのか逡巡しますが。
また「知的障害」についてあまり勉強していませんので、不適切になる危惧もありますが。

器質的障害の場合(「重篤」というのはそういうことだと理解しましたが)、霊的治療によってそれが治るかというと、かなり難しいように思われます。
「不世出の霊的治療家」と言われたハリー・エドワーズですら、「ダウン症や知的障害などの場合のように、生まれつきの生理学的原因によって子供の本性そのものが奇形である場合には、その子供の本性までが変えられうると言うべきではありません」(ハリー・エドワーズ『霊的治療の解明』http://www.k5.dion.ne.jp/~spiritlb/ume-10-3.html第11章 精神治療)と言っています。
ただし、それも可能だという霊的治療家がいる可能性は否定するものではありません。

そういう方々がどうしてそういう生を選んで生まれてきたのかも、私たち人間には推測不能です。
ただ、「どこか不思議なところがあり周りの人間を癒します」とおっしゃられているのは、何か深い意味がある気もします。

霊魂説からすれば、器質性障害を持っていても、また後遺症による障害や老化による認知症などになっていても、「魂」が「異常」になっているわけではありません。魂を表現するハードの方に問題があるだけです。すべての魂は完全であり、それ自体が病気になったり障害を持ったりすることはありません。
そして、十全な表現ができなくても、魂はすべてを見、体験しています。理解もしています。
私たちは、そこに「普通と何も変わらない」魂がいることを、私たちの対応を見て喜んだり悲しんだりする魂がいることを、意識する必要があると思います。認知症の老人にひどい言葉を掛ける時、その人の魂は、それを見ている、感じているのです。
重篤な障害を持つ人を支えることは大変でしょうが、当人の魂は支えてくれていること、そのつらさを知っているのです。そこに込められている愛情もわかっている。そしてたとえ弱音を吐いたり癇癪を起こしたりしても、それが悪意ではなく、ごく普通のことだとわかっているはずです。

すべての人生には意味があります。すべての魂の体験には意味があります。それは、自己の永遠の魂を成長させるだけではなく、類魂(魂の仲間)の体験として共有され、類魂全体の成長の糧となります(これについては「どんな人生にも意味があるhttp://blog.goo.ne.jp/tslabo/e/beb6779426b8888b36e0c7b8e82cc46b」に書きました)。そういう方々が今回そういう人生を選び、苦労することも、まわりの人々に様々な体験を与えることも、意味があります。

また、より高い成長を求めて、わざと苦悩の多い人生を選ぶ魂もいます。稲垣勝巳氏のクライエントである「里沙さん」は、まず江戸時代に少女の身で人身御供になるという人生を選び、その後ネパールの寒村で村長をするという人生を選び、そして今生では脊椎湾曲症という不治の病を受けつつ、その中で霊的な真理解明に貢献するという人生を選びました。稲垣氏の報告では、守護霊の発言として、「そういう苦しい人生を選んだのは、この魂が急激な成長を求めたからだ」とあります。

釈迦に説法かもしれませんが、ムーンストーンさんも、お子様の魂に向かって語りかけ、働きかけていかれるのが「王道」なのではないかと思います。その語りかけ、働きかけは必ず魂に通じているわけですから。
また、お子様とともに、守護されている霊に祈ることも、きっとよいことになると思います。

蛇足ですが、大変な生活の中で、弱音を吐いたり癇癪を起こしたり落ち込んだりすることもあると思いますが、そういうご自身を責めて悪循環になったりしないよう、お願いしたいです。
人間は誰しも嫌がったり怒ったりするもので、それは「生理的反応」と同じようなものです。それはなくすことはできない、肉体を持つ人間の当然な反応です。それを「あって当たり前」としなやかに受け流すと、魂に近い、本当の感情が安定してくると思います。これも釈迦に説法でしょうが。

私の立場から言えることを書いてみました。お気に障る表現がありましたらお許しください。
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