Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

戦争の背景から

2009-08-16 23:07:07 | 歴史から学ぶ
 最近、戦争時の兵事係を扱ったドラマが流された。今までもいわゆる赤紙を届ける役割は戦争に関わる映画やドラマには必ず登場したものであるが、届ける人本人を主役にしたものは見たことはなかった。どうやって赤紙が書かれ、どうやって届けられるかがこのドラマからよく解った。考えてみれば兵事係は捉え方によってはつらい立場である。戦況が正確に聞かされないなか、しだいに戦死を知らせが増え、止むことがない。「いったいどうなっているんだ」と思う国民が増えるのも当然のことである。それでも勝ちを信じて身内を送り出していくわけだから、赤紙という価値はしだいに変化をしていくのだろう。そういう仕事をしていた人たちがいて、そして最も最前線で家族の顔色をうかがっただけに、携わった人たちの思いは深いはずである。最近は戦争は否定的だったというイメージで捉えた発言が多いような気もする。8/16付信濃毎日新聞の「戦争動員の残像」でこの兵事係だった人のコメントが掲載されている。「一番らかったのが、召集令状の交付と戦死を知らせる公報の伝達だった」と言い、「令状を受け取った村民に動揺する様子はなかったという。「今とは気持ちが全然違う。みんな覚悟していた」と表す。ここから戦争に対してできうることなら関わりたくないという本音がうかがえる。今とはまったく異なる情報の少ない中ではあるが、なぜこうも異論を唱えることが無かったのか、現代人には不思議でならない点である。教育、そして世間というものがそれを戒めてきたのかもしれないが、病とも思える精神世界がそこにあったのだろうか。

 核廃絶の問題に必ず浮上する被爆国と原爆を使った国という対比。アメリカの当事の軍人が原爆の悲惨さを知ってもそれは意味のあるものだったと繰り返す背景が解らないでもない。戦争末期に至って始まった特攻作戦は飛行機だけに限らずさまざまな方法で自殺行為の攻撃を行った。相手にとってこれほどの恐怖は無いはず。このまま続けば日本国民全員が死ぬまで戦うのではないかと思われたかもしれない。「戦争を終わらせるため」という理由がこの原子爆弾投下の判断として適正かどうかという部分についていつまでも結論はつかないだろうが、それほど日本の戦いは異常だったのではないだろうか。戦争そのものが異常だと思えなかった時代のことを、今の人間が語るのも適正ではないのかもしれない。

 ドラマが適正にその人物を描いたのかどうかは解らない。しかし兵事係を務めた人のこころの中が、しだいに変化していったことは予測できる。当初は誰もが「お国ために」と喜んだのかもしれないが、死を告げる人という役割はしだいに厄介な存在になっていったことだろう。末期から戦後の流れの中での戦争観で平和を唱えるのも良いのだが、わたしたちは同じ人であっても戦争の間にこころの変化をもたらしたということをもっと意識して捉えなくてはならないのではないだろうか。二度起こしてはならない事実であるが、変化していくこころの模様を描いてみると、実は同じようなことは二度も三度も、そして現代にも起きているのではないかと思えてくるわけである。後から思い起こせば「なぜ」と思うことは多いのである。
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高速道路の受益者とは

2009-08-15 22:52:30 | ひとから学ぶ
 ETCで格安化された高速道路も、この先その機器すら無用になる時期が来るのかと思うと、無駄なことを輪廻のごとく繰り返す社会の到来で、ますます先は見えなくなっている。もちろんこのまま自民党が申すようなあまり変化のない構想でも、きっと国民の顔色に左右されて右往左往してしまうから、何がベストなのか見えはしないのである。高速道路に対して「受益者負担」を唱えることに異を唱える考えに次のようなものがある。「高速道路からの受益は車の有無、利用するしないにかかわらず全ての国民が受益しているのではないでしょうか?一番わかりやすい例が、この一年間で宅配便や郵便小包を全く受け取らなかった国民はどのくらいいるのでしょうか?生鮮食料品はどうでしょうか? 速さを求めて物流は高速道路の上を流れています。 これってりっぱな高速道路からの国民受益ではないでしょうか? 無料化すれば物流コストが下がりもっと受益できるはず」というものである。高速道路無料化が強いてはCO2排出量を増加するという考えに対して、そもそも構造の変化を求めなくては、「受益者負担」を隠れ蓑にして利権政治はなくならないというものだ。とても必要とは思えないようなモノを造ることに対してその必要性を問うことは当然であるが、こうしたトータル的な思想は方向としては間違っていないが、実際にそこに現れる現象までは想定できないはず。遠くを見通すことは必要だが、そのためにまず「高速道路無料化」といって気を引くやり方は、危ういという印象はぬぐえない。前述の意見を解いてみたとき、確かに高速道路を直接利用しなくても、間接的に受益していることは確かである。しかし、いっぽう物流コストが下がることでますます地産地消的発想が消されることになる。ようは経済市場主義はますます加速することになる。確かにそれを受益する可能性があるが、生活道路ではなく、物流のための道路維持や建設に税金をより投入してしまうことは、ようは地域格差を増すことになりかねないということだ。

 せっかく分割民営化した会社から国が実権を奪って国有化なんていうのも逆行しているように見えるわけだから、本当にそれで良いの?と思わないだろうか。維持管理だけを民営にさせて、道路そのものの構想は国が行う。ちょっとJRとは違った手足をもぎ取られたような高速の将来は、果たして本当の意味で国民のものになりうるだろうか。国道並みに張り巡らされていればともかくとして、今の状況では受益格差は歴然としている。そうでないところまで整備を続けるというのなら、果たして国道と高速国道の役割はどうなるのだろう。結局無料化された分どこかで金が必要で効果もあればマイナス効果もあって、同じこと、輪廻そのものではないだろうか。
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伊那谷の異空間

2009-08-14 23:12:53 | ひとから学ぶ
 姪が飯田市内丘の上で育った彼と結婚した。盆に生家を訪れると姪たち夫婦が里帰りしていて少し丘の上の話になった。何がきっかけだったのか定かではないが、きっと彼の家の周囲の話をした際に共通認識の目標物に対してどちらに家があるかというあたりから始まったことである。飯田駅の南方に家がある彼は、飯田駅は東にあるという。ここでわたしの認識イメージと差異が生じる。飯田駅の正面口は東にあるというのがわたしの認識だったのだが、どうも違うのである。すると兄がこういうのである。「俺も最初はそう思っていたが、地図上では線路が東西に走っていて中央通りは南北に位置するのが本当なんだ」と。わたしのこれまでの認識がまったく狂ってしまうような言葉に「えっ!本当なの」と唖然としたのである。兄までもそう言うから明らかにわたしの認識が間違っていたんだとそのとき気がついたのである。確かに飯田の街は完全に東を向いているとは思わないが、飯田線が南北に走っていて、ほとんどの駅が東西どちらかに向いているというのが通常の意識だったから、当然飯田駅も東方を向いていると思っていたのである。もちろん田切地形を迂回するように走る際の、例えば鼎駅や下山村駅が東西ではないことは承知していたが、それ以外の駅はほとんど東西に近い方向を向いているはずだったのだが…。

 彼曰く、飯田の街から見ると風越山が北にあって天竜川が南にあるという図式になるというのだ。そして彼も線路が完全に東西ではなく斜め方向であるということは認識している。線路が東西に見えるから街は南向きに傾斜していくということになるわけだ。ふだんそこで暮らしていれば当たり前のようにそれが図式化されていく。高校時代から含めると15年ほどこの街の中で学び働いたわたしにもまったく無かった感覚である。あらためて街の人たちは駅から県の合同庁舎の方向をどう呼ぶのかと確認すると、南北という言い方はしないと言う。風越山側を上と捉えれば駅から合同庁舎方面は下、いわゆる「下る」と言うらしい。この街の人たちが「上る」と「下る」という言い方をしているとしたらこの街の認識イメージがなんとなく解ってくる。この街の人たちにとって下った先に川があるわけだが、この街のことを「丘の上」と言うあたりからして川とは一線を画した空間であるというイメージを持っていたのではないだろうか。ようは川に対してそれほど親しみを持っていない空間だったのかもしれない。



 さて、あらためて家に帰って地図を確認してみた。ヤフーの地図を借用するが、わたしのイメージはけして間違っていない。どうみても中央通りは南北と言うよりは東西に近い。もちろん正確には西北西から東南東と言うべきなのだろうが、大雑把に言えばこれは東西ではないのだろうか。したがって兄の言った言葉は間違いではないかと思うのだが、彼の言ったのはなんとなく解るのである。ようは伊那上郷から飯田駅の位置関係は明らかに東西である。飯田線は伊那上郷から切石に向かって東から西へ走り、Uターンした線路は切石から下山村に向かって今度は西から東へ走っていると言ってもよい。この配置を暮らしの中で持っていれば自ずと飯田駅は「南口」と言うことになるのではないだろうか。よそから見れば南北の飯田線が、飯田の街の中から見ると東西なのである。

 通常伊那谷は南北に長い。天竜川に沿って物事が展開するから基本的には飯田線も国道も中央高速も、どれもこれも南北に配置されているが、実は正確には南北ではなく北北西から南南東というブレがある。しかし通常の暮らしの中ではその程度のズレは意識しない。それがわたしたちの大雑把な意識なのだ。しかし飯田の街の中にはそれをひっくり返すような日常があるんだとあらためて教えられた気がした。
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戸惑い

2009-08-13 12:43:51 | ひとから学ぶ
 ボッケさんが先日「どっちがどっち?」という日記を書いていた。「会社が左前だよな」というあたりからいわゆる方向を指す略語に触れて、実は安易に使われているが読み取る方には解りづらいという話だ。この場合「前」とはどちらから見て前なのかということにもなる。よく間違い易いのが左側と言った際の左がどちらから見ての左なのかということになる。いまだに「この説明のしかたで解るだろうか」と思い説明を加えることはよくある。当たり前のように表現している例に、例えば石仏がある。正観音は左手に蓮の花を持つ。「左手」と言うからには観音さん本人の左手であるから間違いはないが、この場合わざわざ「向かって右の手に」などという説明はしない。青面金剛という像は手がいくつも登場する。手がいくつもあると右手といってもいくつもあるから第○手などといって上から番号を振ったりする。こうなってくると一般の人には理解されていない世界に入ってくる。そして太陽や月、いわゆる日月が像の上に彫られていたりすると左右の表現が混在してくる。例えば「左第三手に蛇を持ち、右上に月が掘られる」なんて言うと、ここに左右が現れるが実はどちらも向かって右側にあることになる。

 このあたりは実際の像の側から見るからややこしくなるが、像ではなく文字だけ彫られたような石造物に至るとそれこそ当たり前のように使っているのが正面、左面、右面などといった矩形の碑の面の呼び方である。左側面といえば前述の像本人から見ると向かって右側なのであるが、この場合の左側面とは向かって左側を言う。ようは「向かって」左右なのか、碑の正面に対して左右なのかというあたりが解りづらいところなのだ。

 ボッケさんはこんなことを言う。「ブログを見ていると別のページを見るためにクリックするところがある。そこには次とか前と書いてある。gooブログでは、過去の記事を読む時には前の記事へをクリックする。これは自分の感覚に合っている。でも正反対のブログもある。前というのが時間的に未来なのだ。前というより先? でもそれだと次の説明がつかない」と。おっしゃる通りでブログのページを過去に遡っていくと同じような錯覚に陥るときがある。「果たして次とはどちらなのか」と。過去に遡って行くのに「次ぎ」という時間認識では未来を表す言葉に惑わされるのである。あくまでも過去に向かって進み始めている以上マイナス+マイナスだから「次ぎ」という符号を足し算引き算にあわせれば理解できることなのだが、通常利用している日本語でそれを反意に意識することはなかなか難しいということなのである。果たしてブログの過去の記事をたどっていって、そんな思いをしたことのある人はどれほどいることだろう。意外にもそんな戸惑いを持たない人も多いのかもしれない、現代人には。
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スイカと塩

2009-08-12 22:40:39 | ひとから学ぶ
 「塩をつけて食べないとスイカを食べた気になりません」という人もいるのだろう。妻の実家で農作業をして大汗をかいたあとのスイカはとても美味しい。麦茶を飲むのもよいが、何より夏にはスイカ、汗をかいたらスイカ、という感じである。その場にいた甥たちが、「塩が欲しい」と言う。妻は「甘いから塩なんていらないよ」と言うが、自宅でいつも塩をかけているようで「塩がいる」といって言うことをきかない。なるほど甥たちのスイカの食べ方は「そうなんだ」と気がつく。「お母さんがつけてくれる」と言うから、母親も「スイカに塩」というイメージを持っているということになる。

 わたしもスイカには塩というイメージをかつては持っていた。なぜならば子どものころ必ず塩をつけたし、成人した後も、会社で食べても塩が用意されていて、かなりの確率でスイカに塩をかける人が多かったのだと思う。ところが最近は「塩は?」などと口にすることはなくなった。その理由はスイカが甘くなったからだ。昔のスイカが甘くなかっのたかどうか記憶も定かではないが、昔だから当然のようにどこの家でもスイカを栽培していて、スイカは自家用のものをたべるのが当たり前であった。そんなスイカはきっと今のように甘くなかったにちがいない。ようは「水分がとれれば良い」程度の食べ物で、甘く美味しいというのは二の次だったのではないだろうか。子どもたちにとってスイカは夏の定番であって好物だったが、果たして甘いスイカという記憶をそれほど持っていないのではないだろうか。今でこそ甘いスイカを口にすることで慣れてしまって「スイカは甘いにこしたことはない」というイメージを持つようになったが、きっとそれは長年の経験でそう捉えるようになったに違いない。

 長野県では「波田のスイカ」と口にするようになったのはいつごろだろう。もう20年以上前のことだろうか。わたしも始めて波田のスイカを食べたときはその甘さに驚いたものである。ところが実は今はどこのスイカもそこそこ甘くて美味しい。確かに「波田のスイカ」という言葉に弱いのであるが、安くて美味しければそんなブランド物にこだわらなくても十分に期待に応じてくれる。やはり汗をかいて「水が欲しい」と思って食べるスイカが一番美味しいのである。だから冷房の効いた部屋で波田のスイカを食べても、確かに甘くて美味しいと思うだろうが、ありがたみを感じないだろうし、それならもっと甘くて美味しいものはいくらでもある、ということになってしまう。

 先日妻が息子の行っている塾にスイカの差し入れをした。同い年の仲間は食べてくれたというが、年代の下の子どもたちは手も出さなかったという。涼しい部屋で汗もかかずに勉強していたら、スイカなんて食べもしないかもしれない。それどころか手はべとべとするし、食べにくいし、今の子どもたちには人気の食べ物ではないだろう。そこにいた先生が「美味しい」といって余ったスイカをたいらげてくれたという。自家のスイカがなかなかうまくできたと言って期待して持っていった妻にはがっかりだったのだろうが、帰ってきた妻に「今の子どもたちなんかスイカなんて喜ばないよ」と諭したしだいである。

 汗をかくから塩が必要という説明もあるが、今日も炎天下で働きだらだらと汗をかいて「水が欲しい」と思ったときスイカを食べたが、「塩が欲しい」などと少しも思わなかった。やはり甘ければスイカに塩は必要ないのである。

 ちなみに2008年8月7日に投票されたという「スイカを食べるときに塩をかけますか?」というものをウェブ上で見つけた。それによると、
(1) 必ずかける……………………………………………2,251 人
(2) 時々かける……………………………………………6,411 人
(3) かけない………………………………………………12,217 人
(4) その他…………………………………………………854 人
というものだった。
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建設関連のさらなる低迷時代に

2009-08-11 12:42:01 | つぶやき
 公共事業など無駄な予算を削って財源にすると民主党が言う。もはや巷では民主党政権を想定して動き始めている。無駄とはいっても100パーセント無駄というわけではないことを民主党も認識しているのだろうが、この言葉に国民は惑わされる。天下りが廃止され、公益法人などへの補助金の流れをストップさせる。ゆるぎない前原の言葉通りなら、随意契約というものが役所から消えるかもしれない。全てが無駄なわけではなく、そこに働く人々もいれば、それを唯一の外資とばかりに期待する小村もいる。無駄を減らすことはできても、完璧な世の中などたやすく達成できない。もちろんそれを改革するべくひとつひとつ進めていくのだろうが、果てしなく脆弱の中に陥った地方、それも山間地域にあって、その流れに順応できるのか不安は多い。こうした流れによって人口過疎地域が割りを食うのは必至であり、すでにそれを阻止する力などない。自民党が地方農村に強かったというのがかつての言い草だったが、地方農村には高齢者しか住んでいない。高齢者優遇すれば地方は助かるのかといえば、その後は消えるばかりだ。年寄りがコンピューター社会に駆逐されたように、この現代社会は地方を飾り物にしか思っていない。

 8/7付け信濃毎日新聞の連載記事「8.30衆院選明日の選択「見極めの一票」」では「変化迫られる公共事業」をテーマにしていた。他県ではそれほどでもないと言うが、長野県では田中康夫知事時代に土建屋は目の敵にされた。それでも食い扶持を無くすわけにはいかず、農業に手を出したり、林業に手を出したりと、さまざまな他業種へのアプローチを図った。飯田市にあったナビテックは、そんな流れの中にあって土建屋が合併してできた建設会社だった。単独では存続できないからということもあったのだろう、エリアの異なる土建屋が手を取って広域的な発注物件を受注しようとしたものだ。後に建設以外にも手を出して、低迷する建設業にあって成功を収めているかのように見えていたが、つまるところ倒産に至った。多くの建設会社が多様な分野を視野に入れながら努力しているが、それらの状況を補うほどになっていないのが実情である。建設会社は淘汰されて、それが適正という人もいるが、果たして山国のこの県土において、災害が発生したときに誰がその復旧に当たってくれるだろう。もちろんそれらをもクリアーする理論が組まれているのだろうが、脆弱な地域にそれが強いられていくことは必然である。この変化を期に、第二の公共事業関連会社の低迷時代を迎えるのだろう。「どのくらいの建設業者を建設業で生かしていくつもりなのか、産業構造の転換をどう進めるのか。どの党もその道筋を示しているようには見えない」と新聞記事はまとめている。そして「人や金が流れていくべき市場の姿を、政治は考えるべきなんじゃないか」と加えているが、これを解くことは政治家にはもはやできないのではないだろうか。
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教員へのまなざし

2009-08-10 12:16:55 | つぶやき
 8/9付信濃毎日新聞朝刊の教育欄「コンパス」において、早稲田大学の喜多明人氏が「教員免許更新制の導入」について触れている。担当するある科目の受講生193人に「教員免許更新制度に関するアンケート」を実施し、「いま、教職を志望しているか」という間いをしたという。それに対してかつて教職に着こうとしていた学生が、今はその考えを変えたという生徒が多いという。さらにその変えた理由について質問すると、他の職に魅力があるからという答えに次いで多かったのが「員免許更新制度で安定した職業とはいえなくなったから」というものだったという。喜多氏もサンプル数から一般的傾向とはいえないが、教職志望意識の変化がそこから伺えると言っている。おそらくこの意識がまだ実際の教職採用という場面では表れていないかもしれないが、この教員免許更新制が少なからず影を落としていくという印象はある。先ごろ行なわれた長野県教員採用試験の競争率は不況も反映して高い数値を示した。いわゆる正規採用ではなく、現場で臨採として働きながら正規職を目指している人たちも多い。それほど高いハードルでありながら、実際の現場にはどうみても「使えない」教員がいるだろうし、めまぐるしく変化する教職現場にはなかなか対応し切れていないという教員自らの思いもあるだろう。堅い世界だけに、その世界を知らないわたしたちには想像できないような現実があるのだろう。

 教員というハードな仕事に従事し、若くして脳梗塞に倒れた身内がいる。間もなく現場復帰というものの、半年ほど経過した今も頭痛やめまいに悩まされている。順調にゆけば段階を踏んでいたのだろうに、真摯にその職をまっとうしたが故にわたしよりはるかに健康そうだったのに病に倒れた。荒れぎみの市部の学校で長年中心的に働いてきたのに、彼が倒れようと日々の学校は何事もなく過ぎていく。それを吸収するだけの「何か」がある以上、真摯に人一倍働くのも自らの命を縮めることになる。しかしそこに計れない人のこころと相手に対しての思いが働く。結果論として自ら損を被ってしまったが、人生に躓いたわけではないと、本人は思うことだろう。しかし周囲は違う。これもまた人のこころの表れなのである。

 「人はわたしのことを教員をしながら民俗学という趣味をしていると思っているが、わたしは民俗学者が教員という仮の姿をしていると考えている」と知人は言った。教員と言う場面にありながら気持ちの持ちようはさまざまだが、どう持っても真摯に全うすれば、教員という日々に自らは消されてしまう。それが仕事と割り切れるかどうなのか、ここもわたしには解らないことである。かつて教員を少しばかり視野に入れていた息子への思いも、今はまったく消えている。身内に教員がいるほどにその苦労が見えてくる。もはや教員を見る目は、子どものころから変わりつつあると言ってよいのだろう。そして教員免許更新制などというものがあっても、そのまなざしは変わりようがないのではないだろうか。
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やられてもやり返さないという志

2009-08-09 21:11:16 | ひとから学ぶ
 やられたらやり返す、これはだれしも普通に持つ意識かもしれない。しかし、こと戦争となるとそう簡単に行動に出るわけにもゆかないのが複雑な世界での立場。「専守防衛」という日本の基本的思想は、攻撃を受けたときにのみ武力を行使して、自国を防衛することを言う。果たして攻撃されてそれを防ぐだけの能力があるかはともかくとして、このごろは世界的な軍事行動に参加することで、自国にいなくとも自衛隊が攻撃を受ける可能性がある。そこには単純に専守防衛という言葉ではくくれない難しい問題がある。共産党や社会党がやられてやり返していたら戦争肯定になってしまうからそれはやるべきではないというのはよく解る。戦争のない平和な世の中にしたいという心にはその気持ちが強くある。武力行使に平和は訪れないし、いつまでたっても核はなくならないかもしれない。その意味では共産党や社会党の主張は正しい。ところが国の政権を執る者にとったらそういうわけにはいかない。なぜなら攻められて国民が被害を被っているのに、丸腰で「戦争反対」と主張していても、犠牲者は納得しない。ようはすべての国民の安全を守ろうとすれば、やられてもやられても無抵抗というわけには行かないし、国民はそんな政権を許さないだろう。ようは政権を持つ可能性がないからこそ、「平和」を旗印にやられてもやり返すべきではないと言えるのかもしれない、それらの党の存在は。だからといってそれらの党が不要だとはわたしは思わないが、どれほど「平和を」と唱えていても、いざとなればけして戦争を否定するはずもないのがわたしたちの歴史ではないだろうか。もちろん歴史を積み重ねたからこそ二度としてはいけない戦争なのであるが、もし本気にわが国が攻められたとき、果たしてかつての戦争経験を担保にして「手を出さない」と言い切れるだろうか。自国民を守るために抵抗する、あるいは敵となる相手の中枢を刺激するという方法は「自衛」という目的に沿ったものとなる。

 しかし「平和」を主張する以上、わたしとしてはやられてもやり返さないという考えを支持する。もちろん政権とは別物である。政権としては前述したように国民を守ろうとする意識は当然のものである。いや、そけは国民ではなく国を護るという意味かもしれない。しかしそれを否定するものでもなく、そのためにもし安保に頼るのではなく自国による防衛力を高めたいと言うのならそれも仕方ないだろう。国民が望むのなら。やられてもそれは自分の運命と思い、がまんするくらいの気持ちが無くては、とても平和はやってこないというのが、この地球上の現状ではないだろうか。したがって「平和」を唱えることは必要だろうし、「戦争はしない」と言えても、たとえ政権が専守防衛のために密かな行動をとっても、それもまた自分のことだと納得したいと思う。もちろん主張すべきことは必要だろうが。かなり乱暴な主張かもしれないが、「平和」を掲げるのなら、身内に不幸なことがあっても、それを運命だと納得するくらいのものがなくては、この世に目的としたものはやってこないということである。
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不登校児童の数に揺れるなかれ

2009-08-08 23:06:52 | ひとから学ぶ
 驚くべき報告が昨日の信濃毎日新聞にあった。「県内の小学校で2008年度、病気や経済的な理由以外で年間30日以上長期欠席した「不登校」の児童は千人当たり5.0人で、全国最多」というものである。文部科学省の学校基本調査速報がその情報源という。1992年に3.0人でやはり全国トップだったというのだから、もともと不登校が多い県というのは承知のことなのかもしれないが、それにしても全国トップというのは衝撃ではないだろうか。

 ごく一般的な印象で述べるなら、都市部ではなく地方の農村部だから、子どもたちはおおらかに育ち、不登校になる理由など見つからない、というのが長野県内の大人たちのイメージかもしれない。なにより学歴優先を目指す都市圏の環境ではない。当然のこと大都市やその近郊に比較すればおっとりしていることは昔も今も変わらないはず。にもかかわらず全国トップというその意味は何なのか、新聞ではそのへんまことは何も触れていない。もちろん速報だというのだからその理由まで推測できていないのだろうが、ひとクラス40人だとして5クラスあれば1人が不登校という計算になる。実は200人に1人ということだから印象的にはそれほど多いとは思わない。むしろなぜ他県は少ないのかという疑問すら湧く。小学校は6学年あるから例えば200人の6倍の1200人に6人いる計算となる。ほぼ5.0人に近いことから、6年生に5人不登校がいればほかの学年には1人もいないということになる。確率の話だから毎年同じにはならないだろうが、息子が通った学校でも高学年になると不登校になる児童もいた。すると確率からいけばすでに1000人に5.0人という確率を上回ってくる。ようはこの0.5パーセントという確率はけして高くはないということである。他県の数値を見ていると長野県の小学校に違和感を覚える。果たして不登校とは何か、そしてその不登校を防ぐ必要があるのか、それとも無理をして通う必要はないと思うか、というところだ。

 ところで中学校になるとぐんと不登校は多くなって、長野県では32.2/1000人だという。40人ひとクラスとして1.3人。これもけして多いという印象を受けない。なぜならばこれも息子の中学時代の記憶であるが、40人もいないクラスに1人2人はいたものだ。この数値が全国では5番目に多いという。これも意外で、他県の少なさを感じる。いったい大都市圏はどうなのか、小中学校をあわせた比率は長野県14.2人で全国で2番目に値する。トップは神奈川県の14.5人。東京10.9人、愛知12.6人、大阪12.1人と長野県とは離れている。どこが多いのか見ていくと、岐阜13.8、栃木13.7、奈良13.7、高知13.6といったところで必ずしも人口過密地域が多いわけではない。

 なぜ長野県の小中学校に不登校が多いのか。いじめにあえぐ子どもたちもいるだろう。都会から移り住んだ人たちの子どもには、そもそも学校に通わせない親もいる。しかし多様さからいえば大都市圏に劣るはずだから、大都市圏には一つの画一化された視点があって、それは多様さを溶かしてしまうほど大勢の子どもたちがカバーしてしまうのかもしれない。
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オミナエシ

2009-08-07 23:47:17 | 農村環境


 とかく農村部は隣近所がうまくいっているとは限らない。今日は妻の実家の奥にあるため池の草刈を夏休みをとって行った。実はこの日曜日にため池を所有している人たちによる共同の草刈日である。しかし、妻の実家では父も母も年老いている上に身体が不自由なため、そうした共同作業には出られない。そんなこともあって当日出られないということで、相当分の草をあらかじめ刈っておくということになった。毎日農作業に通っている妻は、数日前に草刈を試みたが草の丈が長く、ススキなど太い茎の草が伸び放題で、いつも使っている紐式の刈払い機ではとても刈れない。そこでわたしが鋸式の刈払い機で刈ることになったわけである。昨年もあらかじめ弟が刈っておいたら引継ぎのノートに「○○は草を刈って倒してたままにしたから草寄せがし難かった」と書かれたという。書いたのはいつも隣近所で嫌われている意地悪な人。妻曰く。「刈っておいた方が草が乾いて軽くなり、片付けやすいはず」というものだ。こんなことは誰でも知っていることなのだが、何にしても意地悪が言いたいわけである。そんなことをまた言われるのも嫌だといって、刈った草はその場で片付けることになっていた。ところが途中から雨が降り出して重くなった草は丈の長いこともあってかなりの重量。いつも草を寄せる場所がため池の奥の方にあるのだが、そこまで刈っていくとたくさん刈らなくてはならないということで、口元から相当分を刈った後、その草は我が家の土地に運んで処理することになった。背丈もある草を刈るのもなかなか容易ではなく、さらにその草を軽トラックで運ぶというのだから、2時間程度で終わる仕事が妻も手伝って半日余の仕事。妙なことを書かれるのが嫌だと気を使っていても、こうすると「きっとこんなことを言われる」みたいにその先の行動を読んで気を使う。ご近所にそんな人がいるとつまらない労力を使うことになる。それが隣近所の雰囲気を悪くしたりするのだから、よその人が見るほど農村はのんびりな世界ではないのである。

 そんなこんなで、ようやく終わった草刈だが、びっしょり塗れた服を見ているとその苦労がにじみ出ている。「疲れきった」とはまさに今日のようなこと。

 もう1ヶ月近く前から咲き始めたオミナエシが、見事に黄色く花を咲かせている。この季節、野に咲く花の中でも最も長期間見ることのできる花のひとつである。ため池の草刈をしていると、近くの田んぼの土手にミソハギが刈り取られずに残されていた。盆花ということもあって土手の草を刈っても大事に残されているのである。オミナエシも含めいわゆる盆花と言われる花が盛んに咲き誇って、まさに盆間近になった。「盆も過ぎれば暑い夏も終わり」なんていう印象と通り、毎年秋風を感じるようになる。にもかかわらず、相変わらず雨の降る毎日で、草は伸びるし草刈ははかどらないし、といった具合でついでに稲の成長も悪く、あまり良い年を送れそうもない雰囲気が漂い始めた。

 撮影 2009.8.7
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伊那田島駅

2009-08-06 17:27:16 | 歴史から学ぶ
 果樹園地帯のど真ん中にある伊那田島駅。今でこそ果樹園に囲まれているが、駅が開設された大正9年にはそっくり桑園だったはず。駅下に現在一軒の家があるが、周囲の状況からみると古い時代からある家ではないよう。無人駅で周囲に家が一軒もないという秘境のようなところに駅があることで知られる飯田線は、とくに天竜峡以南の天竜川の谷に囲まれた狭隘地にある駅が最近クローズアップされている。金野・唐傘・門島と続くトンネルの合い間にある駅は、わたしがふだん利用している沿線とはまったく様相が異なる。景観的に特徴のある場所ではあるが、このところ飯田線はこのあたりを電車が走っていない。なぜならばこのところの天候不順で崩落が予想される箇所が見つかって、天竜峡-平岡間がバスによる代行運転になっている。すでにこの区間がストップしてしばらくなるが、意外にもこの地域の人以外にはあまり知られていない。

 先日リニアに関わる現地見学において、釜沢近辺の地質が脆弱で「こういうところにはふつうはトンネルを造らない」と松島信幸氏が語ったというが、ゆっくりと走る飯田線ならともかく、あっと言う間に過ぎていってしまうような景観を眺めることはできない。したがってこの地にリニアが顔を出してもなんの徳もなく、ましてや狭隘の低地を走るともなると、崩落によって埋まってしまうなんていうことがないわけではない。これまで飯田線が長年継続できたことに歴史を感じるが、例えば東海地震、あるいは局地的豪雨などによって天竜峡以南の鉄道が大打撃を受けるということも無いとは言えないことで、場合によってはその存続が叶わないときが来るとも限らないわけである。たまたま四つの私鉄をつないで現在の飯田線につながったが、これが行き止まり路線であったなら、すでに県境域の路線は廃止されていた可能性も高い。わたしに言わせれば全国一長いローカル選は、たまたま一本になっているに過ぎず、地域の足的な視点ではかつての分離していた私鉄時代と変わらないといっても差し支えないだろう。もちろんこの景観を楽しみにしているマニアも少なくないだろうが、被災を受けたらとても復活できそうもないことが起きうるのである。なによりリニアで話題になる釜沢あたりにくらべれば、この天竜川沿いは地質がしっかりしている。これまでにも災害を何度も受けてきているが、それでも大きな選択を請われるようなほどのことにならなかったのは、まだまだ安全確保ができる環境にあったともいえる。

 さて、伊那田島の駅を見ていると「なぜここに駅ができたのだろう」と思うものだ。南側の上片桐駅からさほど離れていない。現在の市町村区域でいけば中川村の端っぽにあって同村唯一の駅である。むしろ駅ではないが大沢信号所がこの北側にあるがそのあたりの方が住民にとって利用の便は良い。もちろん伊那田島から段丘を下ったあたりの南田島や中田島の人たちにとっては遠くなるが、開設された当時の片桐村の区域をみてもその方が中心に近い。なにより大沢信号所が後に開設されたのは、上片桐-七久保間がそこそこ距離があるものの、退避できる複線箇所がないためのこと。常識的に考えればこの大沢信号所のあるあたりいわゆる上前沢あたりに駅が正式にできていれば、上下行き違いのできる駅にされていたに違いない。これはよく知られたことであるが、片桐にあったオヤカタである前沢家が鉄道開設を避けたことによる村境への迂回だったわけである。上前沢まで前沢家の力が影響していたかどうかまで調べていないが、いずれにしても前沢家の息のかかった地は避けられ、そして駅もその近辺には造られなかったのだろう。路線選定の確執はリニアに始まったことではなく、古い時代からさまざまな思惑が交錯したもの。「ふつうなら」と思うこともそうはならないから、わたしたちの思いが詰まるもの。後にまでその経緯が伝わることがまたわたしたちに歴史を積ませるのである。
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線路際に見るキキョウ

2009-08-05 12:44:07 | 自然から学ぶ
 雑草の伸びきった緑に囲まれた世界に、数株の紫色の花が目立つと、それこそひのき舞台に上ったように目だった揺れを見せる。それほど丈の長くない雑草地帯に、そこから首一つ飛びぬけて姿を現すキキョウ。ちょうど半月ほど前からその姿を現すようになった。飯田線を約1時間乗っている間に、車窓にその姿を確認できる場所が二つほどある。ひとつは昨年も日記で触れた伊那本郷駅の北側、いわゆる飯田線がΩカーブに入ってまもなくのところである。耕作地の脇ではなくここから段丘崖に入るという荒地空間といった方が良いだろうか、線路際の手にとどきそうなところに一輪の花を咲かせる。たった一輪でもしっかりと確認できるというあたりがこの花の印象度の高さである。もちろんそれは雑草の中に輝いているからであって、人家の庭先で咲いているキキョウに、人は見向きもしないかもしれない。

 もう一箇所は高遠原駅の南、ループ式の魚道を眼下にする鉄橋を渡って山林を抜けたすぐにある耕作放棄地の脇である。ここも線路際のごく近くにその姿を確認することができる。何より今年は耕作放棄された土地に夕方になるとキスゲがたくさん花を開いている。絨毯を敷いたというところまでは至らないが、そこそこ賑やかに咲いた黄色い花の中にキキョウの紫は一段と映える。夕方になると花開くキスゲもなかなかのもので、実は線路際に咲くキスゲは多い。昨年も触れたように、線路際というものはあまり乱されない空間である。どれほど手が入っているのか知らないが、伊那電気鉄道が敷かれて以降、基本的には軌道敷きから外れた法面については当時のままなのかもしれない。その敷地を管理する人はいないが、それだけにまったく人の手の入らない空間になっている。キキョウの咲く空間も前者はそんな軌道敷きから外れたかつての国有地ということになる。そして後者は国有地と民有地の境界線上である。

 高遠原駅南の耕作放棄地は、毎年一度は草刈りがされる。したがってキスゲの一群はきっと刈られてしまうのだうが、花期である今はもう少し待って欲しいという窓越しに眺めているわたしの願いである。キスゲは意外にも駒ヶ根市伊那福岡のやはり飯田線が中田切川のΩカーブに入っていく手前の国道の端の線路際にもたくさん咲いている。ようはそれほど珍しい種ではないのだが、だからといって水田や畑の脇に頻繁に確認できる花ではない。どちらかというと頻繁に管理されない(草刈りがされない)空間に花を咲かせている。何度も言うように、管理しつくされると植生は限られていくということをよく示しているわけである。
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雨戸のこと

2009-08-04 12:32:36 | 自然から学ぶ
 ボッケさんが雨戸のことについて触れていた。ボッケさんはもともと長野県の方ではない。「佐久に来て最初に感じたのは雨戸のある家が少ない」というものだったというから、「雨戸」を意識する地に育ったのかもしれない。長野県に住んでいる人がすべてそうだとは言わないが、よその地域に行って「雨戸」を意識することはそれほどないはず。というか「雨戸」というものをもともと意識していない地域かもしれない。その理由はやはり台風がきてもそれほど風が強くならないということもある。そもそも上陸してくる台風が、九州から南紀にかけての太平洋岸にたどりついたころと、このあたりまでやってきたものではまるで違う。雨の量も違うが風に至ってはかなり違うのではないだろうか。もちろん台風被害を被らないわけではなく、風による被害も毎年のように聞く。しかしその場合の被害はおおかたが果樹の落下といった農作物の被害である。家が風によって被害を被ったという話はそれほど耳にしない。こうした環境が「雨戸」を意識しない家づくりになる。長野県ではリンゴや梨が多く栽培されている。それらは台風がやってくる時期を越えて物になる。ようは台風の影響を一度ぐらい受けながら収穫を迎えるわけで、それでも生産されるわけだからそうした被害を受けない地域特有の産物とも言える。ようはリンゴや梨が太平洋岸で生産されても台風の季節と合わないように生育させないと収支が合わないということになる。歪化の普及でリンゴのフジがずいぶん南でもできるようになった。とはいってもだからといって風の強い地域では難しいということになる。ということで「雨戸」を必要としなかったというこになるのだろう。

 とはいえ、昔の家はどうだったかと言うと、実は今のようなサッシが普及するまでは雨戸が備えられていた家を目にしたものだ。昔のガラスならちょとしたものが飛んでくればすぐに割れてしまったし、ガラスどころか障子戸が外とを遮る戸であった時代には、雨を防ぐためにも雨戸というか木戸が必要だったのである。わたしの生家でも前代の家はそれほど古い家ではなかったが、記憶の中では外との境界には障子戸があった。そしてその外側に板戸が閉められるようになっていて、これがいわゆる雨戸だったのかもしれない。しかし、ボッケさんが捉えているような立派なものではなく、雨除け程度のものだったと思う。その家にサッシ戸が付けられたのは昭和45年ころだろうか。いわゆる外付けサッシであり、この建具の登場は雨除けということに関しては画期的であった。これを境にして雨戸を閉じるという行為が極端に減少していく。サッシ戸の改修とともに雨戸も無くなるのである。

 実は現在の生家にも雨戸が備え付けられている。とはいっても東側に面した部分のみで、なぜここには雨戸が設けられたのか聞いてみたこともなかった。東側からの風が強いということでもないと思うが、いずれにしても今わたしが住んでいる家に比較したら風のまったく弱い地域である。雨戸を意識しながら近所を見てみると、備え付けられている家がまったくないわけではない。わが家のあたりでは南風がふだんから強いということもあって、確かにないよりはあった方が良いのかもしれないなどという印象はある。他県からこの地に移り住んだ人が家を造ると、雨戸が四方にめぐらされ完全武装された家が登場することもある。いたってこの地域の人たちは、台風が来るというと果樹が落ちないか、とか稲が倒れないかと心配する方が先で、家のことを案じる人はまずいない。
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自然保護から見るリニア

2009-08-03 12:51:39 | 自然から学ぶ
 妻が「やっと自然友の会でリニアを扱った」と口にした。8月1日発行の伊那谷自然友の会報144号に「リニア中央新幹線を考える」という伊那谷自然友の会事務局の記事が掲載された。わたしにしてみれば、確かに「やっと」なのかもしれないが、この会があまりリニアを批判できない裏があるのではないかという印象を持っている。なぜならばこの会には飯田市から補助が出ているはず。でなければ年2000円の会費で運営していくには厳しいと判断する。ようは飯田市美術博物館というバックがあって運営されている会であって、とくに地域が色めき立っている事業に対して、大々的に批判はできないという事情があるだろう。あくまでも問題提議程度の触れ方が常道ともいえる。故に記事の冒頭ではこう説明している。「建設によるインパクトは人間社会だけでなく、自然環境に対しても大きいものがあります。伊那谷の自然友をみつめてきた私たちとしても、リニア中央新幹線事業を無視することはできません。ここではリニア中央新幹線がもたらす調書と短所を概観し、とくに排出土砂がもたらす自然環境への影響を考えて見ます」というものだ。長所短所と言うどちらに着いているわけではないという宣言をした上で、その長所と短所はごく当たり前のものを掲げ、中身では残土について問題だと提議しているわけで、ルート問題ではなく、残土による自然破壊は想像以上のものだということを言いたかったわけである。それも簡単に説明して「率直な意見や感想をお寄せください」と読者に投げかけている。このあたりも立場を考えての投げかけであるという雰囲気を十二分に感じるわけだ。

 残土は確実に問題になるものであって、しばしば伊那谷自然友の会ではこの「残土」というキーワードを利用してさまざまな事業に批判をしている。ここで算出された残土は大鹿村釜沢と早川町新倉(あらくら)を結んだトンネルから排出されるもので、187万m3というものである。この量は187ヘクタールに1メートル盛土した量である。両坑口側に半分ずつ出したとして63.5万m3であるから20ヘクタールに3メートルほど盛土すれば処理が可能となる。実はこの程度の残土はたいした量ではないのだが、釜沢集落下にある平地はせいぜい4ヘクタールほど。ということは16メートルほど盛り上げると処理できる計算になる。危惧されている自然破壊や災害が起きたときに問題になる量とも考えられないがもちろん処理のしかたにもよる。おそらく投資額を押さえるためには坑口近辺に処理されることだろうから、釜沢集落下の平地に埋め立てられるのは必然のことで、災害はともかくとして、中世からの歴史の地が変貌してしまうことの方がわたしには複雑な思いである。釜沢の東側にそびえる山は「除山」という。このノゾキ山については二通りの伝承がある。釜沢の奥に御所平というところがあって南北朝時代にこの地とかかわった宗良親王の歌碑がある。「いずかたも、山のはしかき、しばのとは、月見るそらやすきなからずや」というものである。宗良親王の后であった紀伊の后が、せめてこの山が取り除かれたら吉野のように空が広くなって、月が長く見えるだろうといったもので、そこから除き山といわれたというのだ。

 いずれにしても記事ではこのトンネルでの排出土砂を事例にしたまでのことで、全線に渡ってこうした土砂が排出されことを懸念しているということになるのだろう。そして記事の末尾で「トンネル残土で自然破壊や災害が起こらないようにしたい」と暗にその対応を軽んじてはいけないということを示唆している。

 AkiさんがリニアCルート現地見学会について報告している。伊那谷の地質に詳しい松島信幸氏の案内があったようでこのことについてはニュースや新聞でも報道されている。中央構造線の谷を縦断してみれば解ることであるが、この谷には崩壊地があちこちにある。顕著な地すべり地帯でもあって、その対策に負われるのは止みそうもない。ようはこの釜沢の地で地上に顔を出すのは実現したとしてもリスクは負わなくてはならない。釜沢だけではなく中央構造線の谷に顔を出すということは同様ではないだろうか。Akiさんによれば「常識的にトンネルを掘るような場所ではない」と松島氏は述べたという。諏訪から南信濃にかけての谷の中でも大鹿村あたりはとくに崩壊地の多い場所である。

 「そもそもリニアそのものが必要なのか」という言葉を妻も発する。しかし現実的にはその議論が巻き起こって夢の話になるという可能性は低い。欲しいのは大都市圏に住む人たちであって地方にとってはほとんど雀の涙的なものであることは言うまでもない。建設費が安く済むからといって無人地帯を走らせ「そんなところに駅はいらない」と言っている都市圏の人間の言葉を聞いていると虫唾が走るわけである。やはり横暴というものだろう。
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働くという意識

2009-08-02 16:02:55 | ひとから学ぶ
 しばらく前のこと、長野日報の寄稿欄に「ゆとりある生活を」という山崎衛さんの文が掲載されていた。「早起きは得する」というから犬の散歩を兼ねて休日の朝6時ころ、駒ヶ根市菅の台に出かけたという。「駐車場に入る」というから山崎さんは車で出かけたのだろう。「途中田作りをする農家の方の姿があちこちに見え、思わず「早い時間に…」と独り言」を言ったとか。まず最初にこの文に目が止まる。「そうなんだよなー、農家の朝は早い」と。わたしが頷くようにそう思った山崎さんは農家ではないわけである。「勤勉は美徳と教えられ育った私たはとかく自由時間を使うのに慣れていない」というから退職されてしばらくたっている世代なのだろう。かつては退職した後の時間、いわゆる余生という言いかたは正しくなく、今は第二の人生という言い方が適正なのかもしれないが、世の中の中枢はに実は多くの年配の方たちが存在している。かつてのように隠居をしたからといってまさに自らの食い扶持を稼ぎ、自らの生活だけを考えていれば良いという年配組ではない。もちろんそこには年金という手当てがあるわけだが、盛んに言われる年金も含め、最低限暮らしに必要な生活費とは何かということにもなる。

 山崎さんのように「早い時間に…」と思わず独り言を言うだけ、ちまたの農家を見ているわけであるが、果たして「働く」というところに共通の理解は人々にはない。それぞれがそれぞれの意識で「働く」を感じている。山崎さんが言うような自由時間を消費していれば「遊び」と捉えられる世の中に生きた人々がだいぶ減ってきた。教えの中で「勤勉は美徳」と言われ続けた人々も、いわゆる勤め人を終えればそこからは別の世界であると認識していただろうし、やはりそれは第二の人生と言うよりは「余生」が正しく見えてきたりする。「自由時間は全て遊びと言えばそれまでだが、遊びは「悪」だとつい思ってしまう」というような意識はもはや現役世代にはないかもしれない。

 さてここからはこれら意識の問題である。農家の子どもたちが自家の仕事を手伝えと言われたとき、とりあえず手伝わなければならないという意識が生まれるかどうかという個々の意識がある。ここでそう思わなければ労働意識フローからは外れる。次に手伝っていた仕事が終わった段階で、そこから自分は自由時間になると思えばフローから外れる。終わっても「まだ何かをしなくてはならないか」と思えば次に進む。間違えてはいけないのはこれはあくまでも子どもに言いつけられたことであって、わたしたちが日常行なっている稼ぎとは違う。次に親が仕事をしていてまだ手伝わなければならないとどこかで思い、「何か手伝う」と聞くか、あるいは後ろめたさがあるものの自由時間に戻るかというところになるが、これを繰り返していればもはやどちらを選択しても、いずれも意識として自由時間とは「遊びなのか」という思いが育つ。実は農家を対象にしてこういう労働意識フローを考えたが、きっと農家でなくともそういう意識は育つのだろう。しかしご承知のとおり、現代においては家業を目の当たりにして育つ子どもは少ない。「働く」という意識に金を稼ぐというものが成り立ち、そうでないものが自由時間であるとしたら、そもそもそこで働かせる側も金銭意識を持たざるを得なくなるわけで、勤勉という意識も「金勉」ならざを得ないのだろう。
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