Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

みたび「お茶」

2009-08-01 20:46:12 | つぶやき
 「不遇なるお茶」より

 「これお茶っ葉の入れすぎじゃないの」と思わず先輩に言葉をかけてしまう。昼時に急須にお茶の葉を入れてお茶を飲んでいる人は限られているから誰が入れたかはすぐに解る。お茶好きだったわたしも昼時に必ずお茶を飲むことは今はない。インスタントの味噌汁をこしらえてそれがお茶代わりのようなものである。息子を見ていても、食事に必ずしも水気を欲しがらない。ご飯だけ食べて、おかずだけ食べるといった現代の若者の食事風景がそこにある。わたしの子どものころのように必ずお茶がそこに必要なわけでもない。もっといえばお茶の代わりに牛乳が登場することもある。いずれにしても若者たちは必ずしも水気を食事のお供に必要としない。

 昼どきの様子を数少ない社員の様子を伺っていてもみなそれぞれだ。わたしのように必ず味噌汁を飲む者もあれば、前述した先輩のようにお茶を入れる人、インスタントのスープを飲む人と言う具合に。社員にいわゆる若者がいなくなった会社だけに、まだまだ水気を必要とする人はほとんどである。にもかかわらずお茶を必要とする人もほとんどいないのである。もっと言うとかつてなら女性が朝と午前10時ごろ、そして昼はもちろんのこと午後3時ごろと1日に4回もお茶を入れていたものだが、女性軽視というか忙しいのにお茶にばかり手がかかってしまうことへの配慮でそれぞれが自由に入れてもらうというように変わった。とはいってもそれほど昔のことではないが、いずれにしても飲みたいときに自由に入れることでそうした手間を省くという考えが浸透した。しかし入れなくなれば自分たちでお茶を入れるかといえばそうでもない。結局これも現代風なのだろうが、そもそも水気をそんなに頻繁に必要としていなかったということにもなるのかもしれない。今流行のマイ水筒を用意して好きなものを飲む人も出てくるし、ペットボトルのお茶を購入してそれを時おり口にしたりする。わたしのように四六時中口を湿らしている人は稀である。やはりわたしはお茶好き人間だったということになるのかもしれない。

 かつてならお茶の時間というものを意識してその時間になると「一服するか」と腰を下ろしたものだが、今はそういうことが現場でもない。年上の自分がそういう言葉をかけなくてはいけないのだろうが、果たしてそういう時間を求めているかどうかも最近は解らなくなった。屋内業務なら休憩を取っていれば「休み時間」と捉えられてしまうが、現場にいて四六時中働き尽くめというのは身体的に危険なことでもある。適度な休憩が必要なこと(わたしたちの現場はそれほど重労働ではないので休憩などなくても働きづくめということは可能だが)であってそういうタイミングというものをそれぞれが計っているものなのだが、そういうことがしだいにできない関係になりつつある。

 さて、冒頭の言葉。子どものころお茶ばかり飲んでいたわたしは、急須にお茶を入れても母に「お茶の葉の入れすぎだ」とよく叱られたものだった。「美味しい」お茶を飲むのではなく、「色のついた」お茶を飲む的な発想があった。貧乏な時代に「美味しい」などというのはどうでもよいことだったし、それこそお茶が高価であったということもあるのだろう。頻繁にそう叱られたわたしにはそんな言葉が耳に残っている。そして冒頭のように人の入れた急須をのぞいてみて、お茶の葉の入れ方にもさまざまと気がついたわけである。「そういうこと親に言われたことない」と問いかけてもそんな経験をしている人は少ないのかもしれない。何よりそれがわたしのお茶好きだった証明なのかもしれない。
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