Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ゴムの埃

2007-03-02 08:17:56 | 農村環境
 年々自動車のタイヤの価格が上がっている。貧乏人には、減らないタイヤが欲しいところだが、減らないタイヤは、簡単に言えば効きの悪いタイヤとなる。運転の仕方でも消耗度は異なるのだろうが、目に見えるほどの差はない。タイヤの減らない運転方法なんていうものは特別なものはないだろう。もちろんゆっくり走ることや、急発進急停車を避けることが良いことは知っているが、だからといって危険だと思ったときに、急ブレーキを避けようなんていうわけにはゆかない。命を預けているのだから、ケチなことを言っていてはいけないし、高価だろうと、安全第一である以上はそこを削ってしまっては、タイヤどころか命を削ってしまう。ということで、タイヤは良いものにこしたことはない、と思っているが4本変えたら10万以上なんていうと、大変な痛手だ。とくに夏タイヤより高価なスタッドレスは、できれば使いたくないもので、自宅で暮らしていれば、この冬は一度も履くことはなかっただろう。それが自宅より北へ150キロも向かうだけに、あきらめてずっと履きっぱなしである。このごろは、東京近辺の人でもスタッドレスを当たり前のように履き替えている人がいるから、驚くというか〝もったいない〟と余計なことを思ってしまう。

 ところで、20年ほど前まで使われたスパイクタイヤは、タイヤに刺さっている鉄釘が削れてほこりを撒くから、粉塵公害だと言われて世の中から消えていった。凍結路面では、相変わらずかつてのスパイクに勝るスタッドレスは登場していない。かつてのスパイクタイヤを知らない人たちが多くなったから、そんな経験のない時代のことを言っても仕方ないが、昔の春は、杉の花粉より、スパイクタイヤで削られたアスファルトの粉や鉄粉の方が世の中に蔓延していた。と、今はそんな粉塵公害がなくなって〝環境が良くなった〟と思っている人が多いだろうが、果たしてそうなんだろうか。冒頭で述べたように、タイヤは消耗品である。ちまたでゴムを捨てても、ゴムは土には戻らない。そのまま自然界に姿を残す。にもかかわらず消耗品といわれるタイヤは、削れてどこへ消えていっているのだろう。これだけたくさんの自動車が走っていて、すべての自動車がタイヤを使っているわけだ。何万キロか乗って、タイヤの表面の数ミリ程度が削れるだけなのかもしれないが、なにより大量の車である。これらのタイヤから削れたゴムが、どこか自然界に残っていると思うと、不思議で仕方ない。細かくなったゴムは、土に混ざってもほとんど同じに見えるから、たいした問題にもなっていないが、長年、大量なゴムが世に放散されていったらどうなるんだろう。
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