Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

常識は変わったのか

2007-03-24 16:36:38 | ひとから学ぶ
 「部屋を奇麗にして出る」でも触れたのだが、転勤が決まって、ようやく自宅へ帰ることとなった。ところが、3年の間、ろくに掃除もせずに暮らした部屋は、弁当を作るほどに火を使ったこともあって、ずいぶんと汚れが広がっている。とくに台所は言うまでもない。もともと越してむきたときにどれほど奇麗だったかも記憶にないが、ぴかぴかというほど奇麗だった印象はない。寮だから人が入れ替わったといっても、そほど奇麗な状態で引き渡すという意識はない。むかしは部署の長が奇麗にした部屋を確認したものだが、今はどうもそんなことはしていない。だから汚くてもそのまま出て行く人もいるのだろう。春分の日はそんなことでしっかり奇麗にしようと掃除をはじめたが、とても1日では終わらない。荷物もあるから、そこそこそれらを片付けて、モノがなくならないと次の掃除にとりかかれない。なかなか進まない掃除に、「まいったなー」とは思うのだがどうにもならない。

 もともとがそれほど奇麗ではなかったのだから、その程度でよいじゃないか、などとは思うがそれでも掃除を始めれば汚いところは奇麗にしたい。とくにいけないのは台所だが、加えてトイレから風呂とおそらくわたしの入る前からの汚れも重なっている。たとえば風呂に水垢がついていれば、取りたいと思う。おそらくわたしが入った時もその垢はあったように思う。ところが長い間掃除をしなかったから、その垢を消し去るほどに黴が出てきて覆っている。その方が目立つのだ。風呂に水を張ったことは3年間一度もなかった。利用したのはシャワーだけである。だから汚れてきてもそのままにしてしまった。時おり少し掃除をすることはあっても、すぐにまた汚れが出始めてしまう。加えて週末は自宅に帰るから、掃除をする余裕がない。そんなことのくり返しだから、とりあえず支障がなければ掃除もしなかったわけだ。そうした水垢を隠すほどの汚れを掃除していると、その下の水垢だって落としたくなるわけだ。見違えるように奇麗になっていく姿を見ていて、「こんなに奇麗になるものなのだ」と感心してしまう。

 いやはや、数えることわずかとなった日を眺め、仕事も処理しなくてはならないのにどうしたもんだろう、などと指を数えるし、いつまでに何をしなくてはならないか、などと予定を立てても日はたりない。余裕のある人たちは送別の飲み会などといって飲み歩いているが、そんな日々は勘定に入らない。まだ台所の掃除はこれからだ。

 と、そんな話を同僚にすると、若い同僚は、昨年この寮にやってきて、部屋に入ってびっくりしたという。まず風呂場に黒い黴が出ている。加えてレンジ台の上は見事に光っていたという。掃除をして美しくなって光っていたわけではない。油がギトギトについて光っていたというのだ。掃除をしてないことがすぐにわかったわけで、光っているレンジ台の上に菓子折りがひとつ、一応お詫びの言葉をメモって置かれていたという。ようは前住人は、掃除ができなかったことを詫びて菓子折りを置いていったということなのだ。前住人は会社では部署長を務めるほどの者である。とても引継ぎの仕事がやまほど溜まっていたわけではないはずだ。ようは飲み会が忙しくてできなかった、というのが正しいことだろう。この世の中の常識とはどういうものになってしまったのか、とそんことを思うばかりである。上司がこんなことをしていて、若い人がまともな会社と思うわけがない。そういう奴に限って偉そうなことを言う。それを常識にしてしまっている会社が、いかに最低な会社であるかがよくわかる。会社だけではないだろう。そういう常識が通ることとなっている社会が、いかに最低ラインをさらに下げているかを実感させてくれる。国のトップたる国会議員にしたってろくもんじゃないんだから、このレベルダウンの根源にはこの国の現実が見えるような気がしてならない。
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