Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

縫うこと、そして時代の矛盾

2007-03-19 06:38:56 | ひとから学ぶ
 わたしはよく会社の女性に「針と糸を貸してくれない」と聞く。先日は現場用の防寒着の襟がびらびらとはずれかかっていて邪魔だったこともあって、その襟を縫い付けてしまおうと借りたのだ。ほかにもボタンが取れたりすると借りたりしているが、面倒くさいので進んで針仕事をするわけではないが、時間さえあれば自分でそのくらいのことはしている。自宅にいてもボタンつけやほころびを直すくらいのことは、妻ではなく自分でしている。今して欲しいとおもってもなかなか妻も忙しいからできない。そんなことはいつものことだから、自然と自分でするのが当たり前になった。

 もともと子どものころや若いころ、針仕事をけっこう自分でやっていた。今ならズボンを買えば買ったところで「裾あげ」というやつをしてくれるが、昔だったら田舎に暮らしていたから買って裾あげしてもらうとなると、また買った店まで行かなくてはならない。近くならよいが遠いとなるとそんなことはなかなかできない。だから昔なら裾あげは自分でするのが当たり前だった。もちろん、小さなころはそれは母がしていたのだが、そのうちに一度あげてもらったものが気に入らないといって直してもらっているうちに、自分で好きなようにした方が早いと気がついてやるようになった。自分でやれば裾をあげたあとの糸のラインが見えても自分でやったこととあきらめもついたが、人にやってもらったものともなると文句も言いたくなる。そんなことで母と口論をしたことが何度もある。懐かしいばかりだ。だから自分で納得できるようにあげるというのが当たり前となった。そんなことを繰り返していると、けっこう自分なりの技みたいなものを習得する。面倒だけれど、手抜きをしてどう上手にやるか、なんていうことを考えたものだ。もちろん商売人がやるような上手なあげ方はできないが、見えない裏側の世界はどうでもよく、まず見える場所がうまくできていればよかったのだ。

 さて、息子が先日中学の卒業式を迎えた。妻は、裾が短くなるとズボンの裾を伸ばしていたのだが、息子の身長の伸びが悪いこともあって、そこそこ使ったズボンともなると、折れ目が残ってしまって外から見ると古い折り目が見えてしまう。わたしもかつてそんな折り目を消そうと努力をよくしたものだが、妻も卒業式ともあってその折り目を消そうと努力をしたようだ。ところがやはり上手くは消えなかったが、その努力したズボンで息子は卒業式を迎えた。とくに息子がそんなことで文句を口にしたわけではないが、妻が息子に聞くと、「裾に線が入ったズボンなんか履いている人は他にはいない」という。妻が言うには、今の親たちは短くなれば新しいズボンを買うのが普通という。それでもみんながそうとは思わないし、たたま息子の場合はス頻繁に直さなくてはいけないほど身長が伸びない、ということもあるのだろうが、妻の言っている「新しいものを買う」という人は多いようだ。

 シャツなどにはボタンがなくなった時のことを考えてスペアがつけられているが、あのボタンを利用する人が、この世の中にどれくらいいるだろうか。妻が飯田市内での専門店での逸話を聞かせてくれたが、ボタンがなくなってしまってその店を訪れるお客さんがいて、「この服と同じようなボタンがありませんか」と聞くという。ちょうど合うボタンがあるとお客さんは「つけてくれませんか」と言うらしい。工賃として「500円かかりますが・・・」と言うと、躊躇なく「お願いします」と言うらしい。店によるとかなりのお客さんが自分でつけることをしないらしいのだ。ボタンが50円でも工賃は500円。それがけして高いとは思わないわけだ。まだボタンを求めてくるのは良いほうかもしれない。ボタンがとれた段階でその服の「命が終わる」くらいに新しいものへ乗り換える人も多いのだろう。襟が破れても縫って、またかぎ裂きができても糸で補強したりして使うなんていうのは貧乏人の証かもしれないが、ごく当たり前だと思っていた行為が、今や奇異な世界になってしまっている。ちまたでは「もったいない」なんていう言葉が流行ったり、「ものを大切に」あるいは「環境」なんていう言葉を話題にしたりしているいっぽうで、おおかたの人たちの意識は相変わらず「使い捨て」の感覚が強く、その矛盾はどこから生まれているのだろうと思うばかりだ。
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