Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

消えた村をもう一度⑲

2007-03-14 08:06:31 | 歴史から学ぶ
 伊勢志摩の突端にあった大王町のパンフレットは、昭和57年に送っていただいたものであるが、写真の雰囲気などからだいぶ古いパンフレットのように思う。B5版20ページというそこそこの厚いもので、シンボルである大王崎灯台、そして海女のこと、祭り、歴史などが綴られている。「男一人養えぬようでは一人前の海女ではない」とかつて言われたというように、女性の強さが印象深い地域で、そのことも触れられている。

 この大王町と志摩郡阿児町、浜島町、磯部町、志摩町が2004年10月1日に合併し志摩市となった。2004年の2月1日に 志摩町など周辺4町との合併の是非を問う住民投票が、「合併をする」「合併をしない」の二者択一でおこなわれた。それによると、賛成 3289票、反対 576票と圧倒的に賛成票が多い。投票率が低かったのは気になるが、長野県で行なわれた住民投票のように賛否が拮抗する姿を見ていると、それだけ厳しさがあるということなのだろうか。いや、むしろ合併後の中心は旧阿児町にあるのだが、地域一帯が「志摩」という名前を象徴的だと認識しているからだろう、そのまま志摩市という名前になったところからも、一体になれる素地のようなものがあったのだろう。合併時の人口が8,517人だったという。昭和57年のパンフレットには、10,300人とあるから、山間とはまた違う海辺の町、それも観光地という立地にありながら、人口減少という現実に悩まされたわけだ。

 この地域には盆に特徴的な行事が行なわれる。そんな志摩半島の盆行事を昭和63年8月14日に訪れた。波切の大念仏では、夕方になると傘ブクと竹ザオの紙のぼりを持つ遺族が墓地に集まり、大念仏が始まるのだ。傘には色とりどりの腰布をめぐらし、戒名や俗名、享年、屋号などが書かれ、故人が生前に愛用していた品物(男なら12品、女なら11品)を小提灯とともに傘の内側に吊るすのである。円陣となり、中央のやぐらに新亡者の名前が掲げられ、聖が「○○の供養のために」と唱え、66回の太鼓を打ちならす。打ち終えると一人の俗名に棒線が引かれ、次の番になる。傘ブクはゆっくりと左回りに回り、亡き故人を偲ぶのである。まさに〝傘ブクの花〟が咲いたような風景である。

 ところでこの波切は歴史のある地である。平城京から出土した木簡より、この地名がいくつか発見されている。地名の由来は、横に浸食され崩れた地を指すナグレであったという。



 消えた村をもう一度⑱
 消えなかった村③
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