私は常岡浩介を”真のジャーナリスト”だと思う。
これは称讃であると同時に批判でもある。
というのは、常岡は、取材と報道の力は優れているのは間違いないのであるが、
知名度はいま一つであり、メディアにおける発言力も小さい。
そして、自身のサイトでの発言を見る限り、
記事をたくさんの人に読んでもらう努力に熱心ではない。
彼の情熱は、いかにして真実に迫り、それを表現するかにあって、
どうやってそれを知らしめるか、にはないように思われる。
後者は、いわば政治力のようなものであって、
どうにもそれが欠けているようだ。
政治的なジャーナリストというのは、印象の悪いものであるが、
しかし、地位や発言力がなければ、せっかく取材したことが伝えられず、
ムダになってしまう。
私の考えはこうだ。
”真のジャーナリスト”というのは、決して聖なる者ではない。
ブン屋と蔑まれたころから、ジャーナリストは自分の足で駆けずり回って、
ものを書いてきた。その行為そのものは、崇高ではない。
危険を承知で取材に行き、それを記事や映像にまとめるまでは、
小説家や画家と同じ、アーティストの行為だ。
生活の手段であり、自己表現の方法だ。
意味があるのは、それを、沢山の人々に伝え、それによって社会が動き、
正義がなされたときだ。
じつのところ、ジャーナリストが正義の担い手であるなどと、
私はあまり信じていないのだが。
しかし、ジャーナリズムに意義があると仮定するならば、そうなのだ。
もし、メディアが腐敗し、ジャーナリストの報道が思うようにできないなら、
政治的、経済的、法的に戦わなければいけない。
そうでなければ、ジャーナリストはただのアーティストになってしまう。
しかも、戦争や困窮をタネに自己表現にいそしんだとするなら、
それは、もっともいやらしいアーティストだ。
(続く)
これは称讃であると同時に批判でもある。
というのは、常岡は、取材と報道の力は優れているのは間違いないのであるが、
知名度はいま一つであり、メディアにおける発言力も小さい。
そして、自身のサイトでの発言を見る限り、
記事をたくさんの人に読んでもらう努力に熱心ではない。
彼の情熱は、いかにして真実に迫り、それを表現するかにあって、
どうやってそれを知らしめるか、にはないように思われる。
後者は、いわば政治力のようなものであって、
どうにもそれが欠けているようだ。
政治的なジャーナリストというのは、印象の悪いものであるが、
しかし、地位や発言力がなければ、せっかく取材したことが伝えられず、
ムダになってしまう。
私の考えはこうだ。
”真のジャーナリスト”というのは、決して聖なる者ではない。
ブン屋と蔑まれたころから、ジャーナリストは自分の足で駆けずり回って、
ものを書いてきた。その行為そのものは、崇高ではない。
危険を承知で取材に行き、それを記事や映像にまとめるまでは、
小説家や画家と同じ、アーティストの行為だ。
生活の手段であり、自己表現の方法だ。
意味があるのは、それを、沢山の人々に伝え、それによって社会が動き、
正義がなされたときだ。
じつのところ、ジャーナリストが正義の担い手であるなどと、
私はあまり信じていないのだが。
しかし、ジャーナリズムに意義があると仮定するならば、そうなのだ。
もし、メディアが腐敗し、ジャーナリストの報道が思うようにできないなら、
政治的、経済的、法的に戦わなければいけない。
そうでなければ、ジャーナリストはただのアーティストになってしまう。
しかも、戦争や困窮をタネに自己表現にいそしんだとするなら、
それは、もっともいやらしいアーティストだ。
(続く)