私は、新聞、雑誌、テレビといった腐敗したメディアからおちょうもくを頂戴しながら、さも「中立の文化人」でございとかっこをつけるクズどもとは違う。
まぁクズには違いないが、別種のクズだ。
だからああいう連中の醜さがよく分る。
いつでも財布の心配が頭の隅にあって、メディア批判をするときにも相手と言葉を選ぶような三文ライター、コメンテーター(言論人)どものゴタクはちゃんちゃらおかしい。逆にメディア擁護となると、もう特権意識や選民意識が剥き出しで、見ていて憎たらしいを通りこして情けなくなる。カネをもらった瞬間から、どんなにかっこつけても奴隷なのだ。
いっそジャーナリストというおかしな自意識に浸ってるウソツキどもは、フリーもスタッフも全員死ねば、この国も清々するだろうと思う。彼等は自分で自分に対して思っているほど好かれていないし、同情にも値しないし、嫌われるだけの尤もな理由がある。「おれたちを憎む愚民どもが意識を改めなければいけない」といった解決策を胸に抱いているあいだは、救いようがないだろう。
「報道の自由」はいまや、はためいわくで、ごうまんな特権としか思われていない。
「視聴者が望んでいるから」というのはあさましい言い訳にすぎない。もっとも下世話な視聴者でさえ、へきえきしはじめている。
だから、テレビの表現を規制する放送法改正が閣議決定しても、政治に敏感な層からたいした反応がない。庶民もみんな気にしない。
ほかの業界の不祥事ならメディアは率先して「政府による適性な規制のあり方を検討すべき」とでもほざくのが分っているから。自分たちだけ例外にせよといくら叫んでも支持を得られないのだ。
ああ、分っている。
だがそれでも…
それでも今の形で、放送法を改正させてはならない。報道の自由ならぬ「放送の自由」は守らねばならない。そこにぶらさがるメディア業界の人間が、守るに値しないクズでも、やつらの小理屈がどうしようもなくヘドが出るしろものでも。
いつか、新しいメディアが、志のあるメディアが立ち上がる日がくるかもしれない。
権力の横暴と戦うために、社会の不正を暴くために。どちらにせよ。マスメディアというコミュニケーション・システムなしでは、いかなる運動も力を持ち得ない。
それに放送法の改正は、最初の一歩になるだろう。規制が進めば、インターネットだけが自由ではありえない。すべてのメディアが政府の統制下におかれる。
メディアはこれから、狂ったファシズムの道具になる可能性は高い。しかし改正放送法はそれを止める役割は果たさず、逆に加速させるだろう。一方で、ファシズムを抑制するためのキャンペーンを張る際には、非常に大きな障害になるだろう。
メディア業界の連中の手前勝手な発言を認める必要はない。
しかし市民社会にとって、メディアは、甘やかされぶくぶくと太り、なおかつ守ってやらねばならない赤ん坊なのだ。
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