こういう、史学科の学部生が一年目におさらいするような話を蒸し返すのって、昔の無邪気で幸せだったお時代を思い出して、涙が出るほど楽しいなぁ…。
若くて、今ほど陰鬱に悩むことは少なかった。若いときほど暗いというのはウソだな。生活が苦しくなればもっと暗くなる。
コメントをいっぱいぐだぐだつけてしまったけど、上記ブログの書き手のfinalvent氏も、その引用元のブログの書き手も、12世紀になってからレ・コンキスタでヨーロッパがイスラムから古代文献をゲット!みたいな話をあまり掘り下げないので。「マホメットとシャルルマーニュ」とか過去の遺物になったんだな、とショックではある。
何がいいたいかというと、スペインは、イスラムに支配されていても、やはりヨーロッパの一部であったし、ピレネー以北の国々と、陸路で、そして海路でつながりがあった。支配者の宗教をもってヨーロッパか否かを分けると、エジプトの一部がヨーロッパになるとか、まfinalvent氏の引用しているブログの書き手は平気で強弁しそうですけど。
フランク(西ローマ、辺境)とビサンティン(東ローマ、中央)の図に集中してしまうと、8世紀以降、イベリアのアル・アンダルスもまた地中海世界にとって一個の文化的中心であったということが見えにくい。
カロリング朝ルネッサンスについては、ウマイヤとの接触がもたらしたという説は、私が教育を受けたときにはあまり支持されていなかった。ピレンヌテーゼへの反論が盛んで、ヨーロッパ独自の文芸復興であった、とする見方が教師のあいだに強かった。修道院に蔵書がいっぱいあったとか、「薔薇の名前」チックなロマンが語られていた。
といってもコルドバの爛熟について、私は結局、高校世界史用語集くらいの知識しか得ず、ユダヤ史をとったとき、スファルディにとってはウマイヤとその残党こそが、文化的中心であって、レ・コンキスタの進展によってスファルディの生活基盤は崩れ、学問は滞り、同時に離散先のキリスト教社会でその成果は吸収されていったという、いわばコルドバの光が投げ掛ける影の一つを学んだに過ぎないのだけれど。
それでも、レ・コンキスタによって、ヨーロッパにイスラム経由で古代文献が伝わったという、流れを信じるなら、722年のコバドンガの戦いで、あるいは732年のトゥール=ポワティエの戦いで、最初の捕虜がとらえられた日から、すべては始まっていたはずだ、と私は思う。
【追記】2008/06/27
とはいえイベリア征服戦争当時のウマイヤ軍はギリシア語やシリア語(アラム語に近い)などに不寛容だったし、そもそも、まだムスリムは学問なんてない蛮族の群れに過ぎなかったから、ローマの遺産を蓄えた修道院が沢山ある西洋にとって学ぶべきものなんてなかったよ!と否定されそうだけど…。
これは本当に学者か学生でないと分からないね。ああ。学問を楽しむのって、特権なんだな…いいな…。
修道院に書籍が残されていても、学問というのは外部からの刺激を与えられて発達するものだと思う。格好をつけるならローランの歌から狂えるオルランドまで、800年間続いた怨讐の戦争は、確かにおぞましいもので、戦争になんらかの意義なんて与えたくないが。絶えず「敵」の文化を互いに伝あったし、それは少なくともヨーロッパ側には血肉となったはずだと思う。
【まとめ】
12世紀ルネッサンス以前にも、古代の研究が行われていた、と主張する際には、それをヨーロッパ(フランク勢力圏)独自の遺産とするのではなくて、8世紀ごろからウマイヤ朝のイベリアが影響を与え続けていた、と考えて欲しいな。というのが時代遅れなピレンヌ好きの主張である。
【追記2】2008/06/27
トルコをEUに加えるべきかどうか?とか、フランスのムスリムがこれ以上増えたら、それは西洋の国と呼べるのか、とかいう話にも関ってくるな。
まぁ専門の人を除けば、大抵のインテリゲンちゃん(笑)の頭はくっきりイスラムとヨーロッパが切り分けられているハンティントン脳なんだろうけど。正しくもあり、間違ってもいる。
翻って日本はどうなんだろう。「東亜」という認識はあるのかな。どんなに髪を染めて肌の色を抜いて、欧語を覚えても「西洋」にはなれない。かといって東亜の主流になる気力もない。脱亜入欧できず、かといって東亜に出戻りでは中国文化圏にされてしまう、という、なさけなーい恐怖に怯えている。大東亜共栄圏とか、戦前の醜いイケイケはなんだったんだろうね。