東方不敗の幻想
インターネットのジャーナリズムについての覚書

touhou_huhai@gemini.livedoor.com
 



オーマイニュース携帯版が開始した。
http://www.ohmynews.co.jp/mob/
携帯版については、いかにコストを抑えるかが課題だと思う。

…それにしても、内容はJANJANと同じようなものになりつつあるな…いやむしろ、2ちゃんねるに近いかもしれない…どっちにしろ編集側の能力が低すぎる。
ほとんど査読をしていないのだろう。

予想通りとはいえ、こんなに弱くては新しいメディア同士の戦いに勝ち抜けない…。
…いやだめだ、だめだ。とにかく半年は様子を見ると決めたのだ。まだ絶望するには早すぎる。
きっとまだ芽はある。

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ライブドア事件の公判で、
堀江側の弁護人が激しい反撃に出ている。
http://it.nikkei.co.jp/business/news/index.aspx?n=NN000Y750%2026092006
http://www.tokyo-np.co.jp/flash/2006092501000605.html
http://www.sakigake.jp/p/news/national.jsp?nid=2006092601000282

ライブドア・ニュースも、いつものしれっとした態度で書いている。
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2491839/detail

検察側の証人である宮内が矛盾を突かれ、しどろもどろというのは、東京地検特捜部が、手持ちの証拠をもとにまとめた「筋書き」が雑だということで、検察側の能力が問題視されそうだ。

それに、自身犯罪の被告である宮内を、検察側の証人に付けたことは、相手にも検察としての地位を与えてしまい、自分たちもいわば擬似的な「被告」の立場に置かれるデメリットがあるのではないか。

さて私は、隠すこともない堀江の擁護派だ。
半ば病的な崇拝といっても過言ではない。

しかし、堀江を裏切って、密かにファンドの利益を着服した宮内が、それが故にか、検察に有利な発言をしていることが切ない。かつて、ライブドアでは堀江と併せて「車の両輪のようなもの」と言われた男ではないか。それがユダになるとは。

既存メディアのほとんどを敵に回した堀江が、万が一にも訴訟に勝つとしたら、宮内を破滅させるしか道はない。堀江は心底からそれを望んでいるのか。多分望んでいないだろうと思う。しかし、勝つためにはやるだろう。

堀江は負けても罰金刑だろうが、既存メディアが彼を社会的に葬り去るには十分だ。
勝ってもわずかに不利が減じるだけで、失った時間も、機会も取り戻せない。

しかしそれでも、私にとっては僅かな希望がある。
ホドルコフスキー、タクシンなどと呟いて、夜中に壁をぶん殴らずに済む。

堀江が自由になって野に放たれれば、
安倍新政権のもたらす時代にも、少しばかり爽快感が残るのだ。

願わくば堀江に勝利を。

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インドでHIV感染が拡大
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20060921/110294/

どんな国の政府でも、独裁だろうと宗教支配だろうと、HIV問題には憂慮していると思う。インドは人口が多く、さらに法整備によっても中々解消しないカースト制が阻害要因となって、保健行政がうまく進んでいないようだ。
ここでいうHIVはエイズ原因ウィルスのこと。

「他人事」に対してかわいそうがるのは恥ずべきだが、やはり悲惨だ。そして、HIV問題は厳密にはぜんぜん「他人事」ではない。私が回りを見ないようにしているだけだ。差別反対などといいながら、偏見から見ようとしない。

それにしてもこの門倉という分析家は、かなり変わっているな。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20060308/100532/
日経ビジネスに寄稿しているのだろうが、nikkeibp.jpのダイジェストを読むとなんともいえない気分になる。
「ビジネスチャンス」とか、経済紙の記者がありがたがる言葉を、意地悪く茶化して使っている。



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幕張メッセで開催された「東京ゲームショウ 2006」の最終日に行ってきた。

このイベントは、日本が世界シェアにおいて大きな比重を占める、電子機器によるゲーム産業の見本市。自動車見本市である東京モーターショーなどと並んで、日本をはじめ世界各国の先端技術の精華を披露する催しである。

とくだらない前置きはこの位にして、今回のゲームショウの内容について、私の印象をまとめると。

ソフトバンクなど、いわゆる「新規参入組」は、携帯電話機やパソコンを使って遊ぶゲームソフトに力を傾注していた。
任天堂、ソニーコンピュータエンターテインメント(SCE)など業界の重鎮が販売するゲーム専用機に関しては、「老舗」企業のゲームソフトばかりが目立った。

なんとなく不安だった。

確かに今回の目玉であるSCEの新型ゲーム機「プレイステーション3(PS3)」、任天堂の新型ゲーム機「Wii」は、ともに素晴らしい性能で、たくさんの人を惹きつけ、魅了していた。

特にPS3の展示の仕方には、国内のユーザーにアッピールしようというSCEの強い意気込みを感じた。2005年の東京ゲームショウの主役がマイクロソフトの新型ゲーム専用機「Xbox 360」だったとするなら、2006年の主役は間違いなくSCEのPS3だ。
ただPS3のあまりの高機能は、参入障壁として働くかもしれない。そんな予感がした。

私は、携帯電話機向けに稚拙なゲームを開発している新規参入組の方に好感を持った。彼等が独自ブランドで勝負しており、老舗に伍してやっていこうという気概があるように見えたからだ。

一方、老舗は携帯電話機、パソコン、ゲーム専用機と、さまざまなハードに合わせて、まんべんなくゲームソフトを発表していた。新作ゲームソフトを5、6本も同時に宣伝していて、たいした迫力だった。(映画スタジオが、封切り前や上映中の新作映画を5、6本同時にまとめて宣伝しているのを想像して欲しい)

しかし、これはつまり老舗が、幾つもの下請け会社に開発を任せたゲームソフトを、自分のブランドで一斉に販売する商売のやり方が、完全に定着したことを意味するのではないか。

老舗のブランドでゲームソフトを売りに出せば、ユーザーに受けがいいし、流通にも乗せやすい。さらに革新的なアイデアのゲームでも、そのブランドを冠することである程度なじみ深さを感じてもらえる利点がある。

今の日本のゲーム業界の流れが間違っているとは思わないし、業界のいわば「黒子」にあたる下請け会社が、一般公開日に自分のブランドをあまり露出させないのは当然といえば当然かもしれない。

しかし前年に比べ、老舗1社あたりのスペースが大型化し、その分小さい企業の出展が減っているような気がして、少し考え込んでしまった。
http://expo.nikkeibp.co.jp/tgs/2006/visitor/map/
ただの勘違いかもしれないが。

下請けがいつまでも自社ブランドでユーザーにアッピールできないのは、将来的にはどうなのだろうか。

【追記1】06/09/25

PS3のどこがすごいといって、筐体がやたらと大きかった。
現行販売されている小型版PS2に比べると、非常に無骨な感じ。
なお、Wiiもかなりの大きさだった…。

高性能な機械を小さく作るというのも、ある種の技術だと思うが。
しかしそれは「製造」の現場に密接にかかわるので、海外の工場で作る場合はそこの水準に合わせざるを得ない面もある。

大きな機械というのは、見るたびに技術の衰退を感じる。これは偏見だが。





余談だが、華やかなゲームショウの会場を出て、少し外を散歩すると、幕張の街の奇妙な雰囲気に気付いた。この都市はゴミや、落書きなど人の生活による汚れが非常に少ない。そして、カラスが余りいない。

どこか「鉄道駅がそばにある郊外型ショッピングモール」といった雰囲気だった。自家車で遊びにきたらしい若い夫婦連れやカップルで賑わう中心部の商業施設を抜けると、すぐにガランとした町並みが広がっている。

初めて訪れた際に私を驚かせた空中回廊も、街の外側に作られた新しい建物にまでは及ばず途切れていた。また、ビルが建ってもおかしくない駅前の大きな敷地が、駐車場になっていた。

かつて計画された「新都心」は、当初の予定どおりには発達していないようだった。

CEATECのとき、もう一度歩いてみよう。

【追記】06/09/26
「幕張ベイタウン・俺達のホームページ」
http://www.oretachi.jp/
勉強になる。そこに住んでいる人を無視して、よそものの私が行政批判めいたことを書いたのはいただけなかった。


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Impress Watch中国語版が開始
http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2006/09/22/13372.html

…インプレスグループは中国China Byteグループに出資している…
しかし、今回の件はImpress Watch(海外メディア)→Yesky.com(中国国内メディア)へのニュース提供だ。
これは中国政府によるメディア規制には引っかからないのだろうか?
…規制対象となる「通信社」の定義が分らなくなってきたぞ…。

これはインプレスに直接メールで問い合わせてみよう。

【追記1】06/09/25


インプレスに本名で問い合わせたところ、
すぐに返信があった。

「新法規については把握しているが、今回の業務提携はこれに抵触するものではないと判断している」とのこと。

詳しい配信の枠組みは業務上の守秘義務があり、公にはできないそうだが、China Byteでは米国メディアの記事も翻訳配信しているらしい。
つまり規制を受けないための法的配慮を済ませ、問題なく外電を掲載しているというわけだ。

考えてみると、新華社とその「指定代理機関」(これは配信契約する国内メディアそのものではないのか?)が潮のごとく流れるニュースをいちいち検閲するのは無理がある気もする。

新華社の翻訳版を読み直してみると、
http://www.xinhua.jp/newsdetails.aspx?newsid=P100002357
交通法のスピード違反と同じで「いつでも切符を切れる状態にしておく」という意味合いなのではないかと思う。

同時に、産経の「新華社の外国通信社規制、手数料狙いか」という記事にもいくらか信憑性が出てくる。
http://www.sankei.co.jp/news/060914/kok001.htm
あれ、ダウ・ジョーンズは中国に記事配信してないっけ?と突っ込みたくなるような、いかにも産経らしい報道内容ではあるが、まったくありえない話ではない気がしてきた。


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【追記2】06/09/21
深夜のシマネコBlogのエントリーについての感想
http://www.journalism.jp/t-akagi/2006/09/post_160.html

右翼と左翼から続き。

つまるところ、私は共産党や社民党が若者の雇用対策に取り組んでこなかったとは思わない。全然別の感触を持っている。そして、ポーズであっても「若者弱者」という言葉は嫌いだ。

私が若者だったら「弱者」だと思われたくもないし、自覚したくもない。
弱者としての権利も求めない。

代わりに「かわいそうに」というすべてのものを憎む。己の弱さを指摘する一切を憎む。その誰かが私を「かわいそうに」と呼ぶような余裕を、相手から剥ぎ取ってやりたいと思う。

もし私が、劣等意識を感じている若者だったら、むしろ自らに「誇り」や「強さ」を与えてくれるものを望む。それがほかの民族との比較、差別であっても、ただ他人を傷つけるための暴力であっても構わない。

それは暴走族にとって、改造を施したバイクであり、威嚇のための衣装であるようなものだ。

とにかく強者であることを望む。狂おしく望む。容易な手段で、その強さを獲得するために既存の強者に屈従を強いられることもなく、安全に。強者になりたいと願う。

革命を成功させた共産主義とはそういうものだ。「汝等に力を与えよう」であり「汝等に憐れみを与えよう」ではなかった。

その渇望はいつもどこにでもあった。
人が年老い、また新しく生まれ育つかぎり、永遠に癒されないものだと思う。
私は「それはおかしい」とは思わない。「それは自然だ」と思う。
そして、それは社会を変えていく力だ。劇的でなくとも確実に。

だが、私は若者ではなく、引き臼のような力に押し潰されていく側だ。
じわじわと増していく恐怖だけがある。

【追記1】06/09/21

視点を変えてみよう。
もしかすると共産党や社民党は、格差が広がる労働条件について「憐れみ」からにせよ、「守る」「元に戻す」ことに最も注力しているかもしれない。戦後の民主主義というイメージの中で、「古きよき日本」を追っているのかもしれない。

それに対して自民党は「強さ」「誇り」より、むしろ公には「変化」を約束した。それがどのようなものであっても、「今よりマシ」と期待する人はいるかもしれない。

そういう意味でいうと、共産党と社民党は「保守」で、自民党が「革新」という風に映る気がする。実際、今国内に政党として残っている共産党も社民党もいわば…いや、それはいい。

変化を求める若者はいつの時代にも多い。現状は息苦しいと感じ、自分の力では抜け出せないと思えば、外側の形ある力にすがるのは当然だ。

私自身は…どうだろう…。若者の代表ぶるのではなくて、年齢によってくたびれゆく本当の私は。やはり、自民党がもたらす変化は望まない、怖い。
そして「昔はよかった」と感じている。若者弱者という概念を「かわいそう」と見ても、実感として苦しみはない。




しかしやはり、「若者弱者」という概念にはなじめない。
なんだろう。それはラベル貼りだからか?若者というのは、こういうものだという言い方が、いかにも物知り顔で、若者に詳しくない私を苛立たせるのか。

それもある。しかし何よりも大きいのは、私が若いころ自分を「弱者」だと考えるのは、たとえ真実だとしても虫唾が走るほどイヤだったからだ。今は私自身、都合よく弱者だと主張している…それは本当の意味で弱者ではなくなったからだろう。

そうだ。本当に弱いときは、それを敵かも知れない他人に喧伝するなんて、絶対にできかなった。自らを「弱い、虐げられている」と主張し始めるときは、すでにそれを武装として使えるほど、強くなっているのだ。

自らを「若者弱者」と呼ぶ者は、すでにある段階を過ぎたのだ。
弱者を代弁したがる強者は、正邪はどうあれ危険な存在だ。そのきな臭さが、私を恐れさせる。

【追記3】06/09/21

力だ。
そうだ。この深夜のシマネコBlogの作者は助けを求めているのではない。
「若者弱者」「男性弱者」という概念を普及させ、その代弁者になることで、自らの発言の力を増そうとしている。それによって己の信念にもとづく正義を成し遂げようとしている。

代弁者となることは彼にとって、言論の世界での地位を築くのにつながるかもしれない。そして、彼にとっては、発言力、影響力を増すことは「若者弱者」「男性弱者」のためになる。つまり、自分のためになることだ。それは皮肉ではなく、彼にとって恥じるところのない正義だ。

ああ、いま分った。ブロガー×オーマイニュースのときの、「ブロガー」たちの態度から受けた印象と同じだ。

ただ、ぼんやりとブログを書く人間と、言論の世界の新しい旗手となろうとする人間の違いはそこだ。彼は、個人としてのみ発言するのではない。

誰かの代弁者になっていくのだ。

多分、私が受けた強い印象の答えは、これだと思う。

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インドの「勉強」は進まない。
ドラヴィダとタミルの区別もつかない。

深夜のシマネコBlogのエントリーを見た。
http://www.journalism.jp/t-akagi/2006/09/post_160.html

どきっとしたのはこのブログの作者が使う「左翼」という言葉だ。
ここでは共産党や社会民主党を左翼と呼んでいるのだが、それ以上のより広い範囲を含んでいるように見える。

ブログを読んでいるうちに左翼、右翼とは何か、どんどん分らなくなってきた。

共産主義、無政府主義、世界革命、労働運動、それらは理解できる。
皇国思想、軍国主義、ナショナリズム、純血主義、それらも理解できる。

無政府主義者と共産主義者は激しく争い、国民国家の議会政党化した共産党と世界革命を志すマルクス主義者も争った。日本では昔話だが。私は、右翼団体同士の思想や権力を巡る闘争についてはあまりに無知だ。だからこれは無責任なことは書くまい。

私の認識の中では「左翼」がまとまった組織になったことはない。統一戦線が作られても、いつだって加わらない組織や個人があった。ロシア警備艇による日本人殺害の問題で「右翼が~」と書いたが、実のところ、右翼の統一戦線があったという事実を聞いたこともない。

それでも私自身なんとなく、この世は「左翼」「中道」「右翼」に色分けできると思っていた。しかし、改めて他人のブログで使われてみると…。

左翼、右翼の基準は何だろう。
どこかで「ソ連や中国の共産党、あるいは朝鮮労働党は”左翼”か?」という質問を受けたとき、考え込んでしまったことを思い出した。

それでもこのブログがしているように、今の日本で明かに「左翼的」と非難される言論、活動はある。私はといえば「左翼的」だというレッテルを貼られたくない。それは恐ろしい。どれだけの非難を受けるか分らない。

「我々弱者」という人たちは、どんな基準で左翼を選ぶのだろうか。
共産党や社民党に票を入れる。多分これは間違いなくクロ(アカ?)だ。
「被差別部落民、在日外国人、女性」に非被差別部落民の日本人男性と同等の権利と社会的地位を求めるのはアカ。

しかしたとえば、公務員が夜の3時にドラ焼きを食べるのはどうだろうか。もし「若者弱者」の多くがドラ焼きを食べられないでいるのに、国民の従僕たるべき者が体制に保証された給与からくる小遣いでもってあの甘く、香り高い菓子を購入し、口に運ぶとしたら…。それも、元はといえば身勝手な労働運動が、彼等の給与を不当に釣り上げからだとすると…。

…いまのところは大丈夫だろう。少なくともまだ。
「若者弱者」のすべてがドラ焼きを好きだとは限らないし、彼等がそれを「辛酸を舐めた」と感じる根拠はないのだから。多分。

だが、正直不安は消えない。私も甘い蜜を舐めた「庶民」なのではないかと疑われるかもしれない。全員がすばらしい幸せを享受したという、あの伝説の「団塊世代」の一員なのではないかと。もし不正な利益を得続けてきた「女性」という種族だと思われたら、どうしたものだろうか。

批闘大会で自己批判すれば許しが得られるだろうか…いけない。左翼的思考から抜け出さなくては、彼等を理解できない。より深く感情移入しなくては。

ふむ、そういえば「若者弱者」は全員男性なのか?女性と結婚したら、どうするのだろうか…いや、それはおかしな考え方だ。「若者弱者」は誰も女性と結婚はしない、いやできないかもしれない。
待てよ。モテる男は…ひょっとすると…アカか?だとすれば私は安心だが…。

だめだ。考えれば考えるほど、疑心暗鬼に苛まれていく。
願わくば、「若者弱者」が左翼を選ぶ基準が明文化されんことを。

ふむ、そういえば「若者弱者」は二十年経つと「中年弱者」になるのだろうか。
ええい。疑問が多くて感情移入できそうもない。
私はしょせん、左翼思想に毒された人間なのかもしれない。

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…総務省主催の「IP懇談会」の位置付けを把握できない。
審議会ではない。しかし、かなり強力な権限を持つように見える。
総務省側が提案をまとめて、企業相手に反応を見るための会合ということか。

しかし報告書案がちまたで「答申」と呼ばれていたりするのはなぜだ?
実質、審議会なのか?ここを通れば、情報通信審議会ではまとめに入るだけか?

【追記1】06/09/19
企業や業界団体の意見も参考にして、正式な報告書が出ていたんだな。混乱する。
http://www.soumu.go.jp/s-news/2006/pdf/060915_5_4.pdf
86ページ。


ただし、本件は関係当事者である通信事業者や端末ベンダーの事業戦略と密接に関連しているところであり、行政主導で強制力を有する競争ルールを整備することを第一の選択肢とすることは必ずしも適当ではない。このため、先ずは関係当事者の参画も得た形で検討の場を設け、利用者利便の向上等の観点から、07年夏を目途に結論を得ることが適当である。


つまりIP懇談会の報告書は、SIMロック解除について、行政主導で新たな競争ルール(省令か?ガイドラインとやらか?無知はおおうべくもない)を企業に強いる可能性があったのだ。もしそうだとすれば、恐らく情報通信審議会を経て、答申という形で出されるのだろうけど。

とりあえず、いきなりSIMロック規制に向かうのではなく、まず別の話し合いの場を設ける。そして来年の夏にはなんらかの結論を出す。

しかし、この結論を出したIP懇談会の構成員は大学の教授、助教授、研究員なのか…。
http://www.soumu.go.jp/s-news/2006/pdf/060915_5_8.pdf
行政機関とそれが選んだ学者で構成する会合がすべてを決定していく。利用者利便の向上とはいうけれど、多くの利用者の声は反映されるのか?

報告書にある「関係当事者」というのは多分キャリアと端末メーカーではないだろうか。すると検討に加わるのは学者、キャリア、メーカーの代表などだな。彼等が消費者作成メディア(CGM)で形成された言論に目を通し、それに配慮するのを期待するという訳か。

…まぁ、あまり問題はないか。お上に任せておけば安心だ。歯車が動き出している以上、民間からの働きかけなど不要だ。めでたいめでたい。

それでも、「逮捕」という奇妙な事実は消えないし、これからも起きるかもしれない。とはいえ、このことを考えるのは、賢い「モバイラ」たちの仕事だ。

私ごときがあれこれ口を出す筋合いでは、なかったかもしれない。
がっくりだ。

…それにしても、どれくらい多くの携帯ユーザーが、SIMロック解除を望んでいるのか?というかSIMロックについて知っているのか?
番号ポータビリティ制度のように「今日からSIMロック解除が自由にできるようになります」でいいのだろうか?まぁ、エリートの考えなど推し量ってもしょうがないか。やれやれ。

【追記2】06/09/19

個人的な思いとしては、政府と当事者である企業だけに情報提供を任せるなら、既存も新規も、そもそもジャーナリズムは不要だ。

ジャーナリズムにも社会的意義があると仮定するなら、彼等には報道する責任がある。それが組織だろうと個人だろうとだ。

情報の偏りによって弊害が表れ出でたとき、無知な人々が責められるなら、それをそのままにしていたジャーナリズムもまた責められるべきだ。

SIMの原理が「常識」であれば、事件はまた違った展開をしたはずだ。

何もしなかったのは、政府やキャリアだけか?

【追記3】06/09/19

懇談会は「傍聴可能」だったではないか!
哀れなパブリック・ジャーナリストたちよ!賢いブロガーたちよ!
報道のチャンスは沢山あるのだ!

でも日曜や休日にはやらんだろうな…。うーん。

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エリート、エリート、エリート。
ネットの世界では右を向いても左を向いても、「僕らは庶民と違う賢い存在」という奴等がうじゃうじゃしている。私もその一人かもしれないと思うとゾーっとなる。

自分たちの世界だけで通じる言葉で話し、自分たちの世界だけで通じる価値観で世界を見、それを共有しないものを軽蔑し、理解を拒み、対話を怠る。

システム開発の現場にいれば、いや、どんな仕事場にいても、「業界用語」というのが必要なのは分る。言葉というのは道具であり、専門化した仕事には、専門的な用語が必要なのだ。

けれど、自分が知っていることを他人が知らないように、他人が知っていることを自分が知らないこともある。一般的教養というやつは、職業だけでなく、地域や階層や民族やさまざまな要素によって異なるのだ。

職業選択の自由とは、その知識の差違を乗り越えやすい環境を整えること。信教、思想の自由も、本来そうであるべきだと私は思う。
自由とはある意味、知識が無限の方向に開かれ、誰しもが容易に得られることだ。その正邪はともかくとして、だ。

ところが、そこかしこにはびこる奇妙なエリート意識は、その知識の差違を乗り越える際、壁となって立ち塞がる。

「僕はイスラーム教を理解している。お前はしていない。口を挟むな」
「私はウェブサービスのプロだ。あなたは違う。身の程を知れ」

高慢さが、未熟な好奇心を阻む。いや、いや。知識を学ぶには労苦が伴う。情報を多く得る者は強者であり、そのために努力したのだから、相応の敬意を得るべきだと思う。
しかし、強者は威丈高になり、無知を嘲る。
偉大なる高僧!敬うべき神学者!

私はそれらを羨み、妬み、憎み、そして「なんと狭い世界で、なんとちんけなものを後生大事に崇め奉り、エリートでございと気取っていることか」と嘲る。

ところがそんな自分の顔を鏡で見れば、けっきょく、同じように醜くて、マヌケなサル面が浮かんでいるのだ。

ああいやになる。

次の世代に生きる人々よ、願わくば万人に対して謙虚であれ。
「無知」を理由に人を蔑むな。それは貧乏を理由に人を蔑むのと同じだ。
必ずしも、怠慢や堕落がその原因でないこともあるのだ。

無知が残酷な暴力の原因になることがある。
だからこそ、無知は解消されなければならない。

知識を手にする者は、もしそれを誇らしく思うなら、
万人に与える方法を探すべきだ。
同じ恩恵に与る仲間うちだけでそれを愛でて「事足れり」とするのは、
間違ったことだ。

だが現実には、エリートたちは相変わらず自分たちの世界にうっとりしている。
私は醜い顔をしてそれを横目でにらみつけるばかりだ。

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http://news.google.co.jp/nwshp?hl=ja&tab=wn&ncl=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060914id21.htm

ここ数日の報道を見てきたが、日本のマスメディアというのは…情けない。一社ぐらい、違う見解を出したらどうなのだ。

EU、米国など、ハマースに反対する政府の金融上の圧力を、「国際社会」という言葉を巧みに一方の都合にあわせて使って、印象操作を試みる。マスメディア側は、まだそれが通じると思っていること、そして実際通じてしまうだろうということ、すべてが不快だ。

…ちらっと見たが、英米の主要メディアもだいたい同じような論調だったな。
まぁ、日本に限らないか…。

最近、本当に問題なのは、ブログや大型掲示板などの「新しいメディア」だと思い始めたが、それでも「既存メディア」の横並びぶりや恣意性が、むかむかするほど嫌だということには変わりない。

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